武士とは、
である。
ここでは、1.と2.について説明する。
Wikipediaでは10世紀から19世紀にかけて存在していた人々とされている。
学校で習う内容ならば荘園を武装して守っていた人々や、士農工商のように社会層において頂点に居た人々の事。
侍という呼び方は武士の別名とも、武士の中でも位の高い人の呼び名や階級と何だか色々な説があるが、別に難しく考えずに武士と同じ意味と考えれば良いだろう。
又、「武士は相身互い」や「武士に二言なし」の言葉があるように信義を重んじ、仲間は互いに思いやりをもって助け合うものであると考えていたようである。
反面非常にプライドの高い人々だったようで、「武士は相身互い」は同じ立場としか言っていないし、「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるように、体面を重んじていたらしい。
なので若い時の宮本武蔵のように主君の元で働かず、ブラブラと諸国を放浪して武芸を磨いていたような武士にたいする世間の評判はあまりよくなかったかもしれない。
初めて武家を中心とした政権である平氏政権が樹立してから室町幕府、江戸幕府と武士の世が続き、常に社会層の上位に居座り続けた武士だったが、黒船来航によって引き起こされた討幕運動によって、約700年続いた武家の政治は終わりを告げ、武士は近代国家へと進む為の礎として最後を迎える事となる。(詳しくは幕末の項目を参照)
四民平等政策による武士階級の廃止、そして廃刀令を施行された武士階級のなかには、甘んじてリストラという事実を受け入れずに、新政府に反発して同志を募り、士族の反乱を起こすものも存在した。
その中には日本最後の内戦と呼ばれ、戊辰戦争において反攻する武士達に対して官軍として戦い、一度は新政府の役職に就きながらも官僚達と対立し下野し、最後に武士として西郷隆盛が戦った西南戦争も含まれている。
自分達と同じく不満を持つ武士達が反乱を起こしたのを目の当たりにし、それに呼応した反乱は各地で発生した。
だが結局、武士達が起こした反乱はすぐさま政府軍(大日本帝国陸軍)によって、血みどろの戦いの末鎮圧される。
また、板垣退助の自由民権運動に参加した士族もいたようである。
現代日本では形としての武士は残っていないが、武士の志は日本人の精神の中に今も生きつづけている。
掲示板
149 ななしのよっしん
2023/01/02(月) 15:58:19 ID: 8RJCwuJtbp
領主クラスでも、財力武力さえあれば百姓でも(理屈上では)領主になれるから怪しい
地方豪族がそのまま領主になったパターンもあるだろうし
てか地方豪族はここでいう貴族に当てはまるのか
150 ななしのよっしん
2023/01/17(火) 07:06:57 ID: TEZ55x1jdb
室町時代までは中央由来の軍事貴族がまだ幅利かせてるけど戦国時代以降は織田豊臣徳川にそれ以外の地方大名でも中央のルーツを持たない土豪上がりの人たちが増えてていいね
江戸時代には徳川は源氏を詐称したり皇族貴族の血を迎え入れて元通りになっちゃったけど
151 ななしのよっしん
2023/01/17(火) 07:30:36 ID: EIHIFWtADt
源氏嫡流や傍流名門の武田、足利、そして平家嫡流ぐらいはそれなりに史料もあるから軍事貴族の血統なのだろう。途中に養子とかあった可能性を除けば
しかしそれ以外は鎌倉時代で既に軍事貴族の貴種といえるか怪しい
北条得宗家は平家の傍流を自称しているけど、系図が正しい証拠に乏しい
鎌倉武士の多くは軍事貴族ではなく、自衛の為に武器を手にした上層農民や蝦夷から転身した小領主等だったのでは
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最終更新:2023/10/05(木) 03:00
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