水野忠邦(1794~1851)とは、江戸時代後期に活躍した大名である。
徳川家康の生母の出身である水野氏の衣鉢を継ぐ。宗家の水野勝成の系統ではなく、水野忠之らを輩出した分家の系統。天保の改革の推進者。
文化4年(1807年)に従五位下式部少輔に叙任され、文化9年(1812年)に肥前唐津藩6万石の藩主・和泉守となる。このころ唐津藩も窮乏しており、出奔が相次いでいたため、水野忠邦は改革の決意をするが、後々のことを踏まえるとまだ消極的ととらえられるものだったようだ。一方でこのころすでに幕政の枢要への参加を志し、これこそが水野忠邦の「青雲の要路」であった。
文化12年(1815年)に老中就任への登竜門であった奏者番に任じられる。文化14年(1816年)には寺社奉行兼、左近将監、遠江浜松6万石への転封を命じられる。これは唐津藩主が長崎警備の重責があるため、老中になることができないことからも、願ったりかなったりであった。しかし唐津と浜松では実収に大きく格差があり、家臣団は反対したとも。
文政8年(1825年)には従四位下かつ大坂城代となり、文政9年(1826年)には京都所司代かつ侍従・越前守に。そしてついに文政11年(1828年)には西丸老中になり、天保5年(1834年)にようやく本丸老中になることができた。
その後徳川家斉の大御所時代が家斉の死によって終わると、天保12年(1841年)についに天保の改革を開始する。が、天保14年(1843年)に発布した上知令が強い反発を呼び、水野忠邦はあっけなく老中を罷免されてしまった。諸大名に対して「御改革の儀、御代々の思召は勿論の儀、取り分け、享保、寛政、の御趣意に遠はざる様、思召し候には、何も厚く心得、相勤むべし」とまず伝えた彼の改革は失敗に終わったのであった。
天保の改革とは、特徴としては享保の改革や寛政の改革を目標とした復古理想主義的なものであり、人返しの法や上知令など幕府権力の強化を目指していた。しかし「白河の岸打つ浜に引き換えて浜松風の音の烈しさ」、「水引いて十里四方はもとの土」、とまで批判されたほど、諸層の不満は募り、ついに幕府権威は低下してしまうのである。
その後の水野忠邦は、弘化元年(1844年)に再び老中首座となるが、弘化2年(1845年)には辞職。さらにこの年に謹役中の不正が露見し、罰を与えられた。そして嘉永4年(1851年)には赦免が発表されたものの、この5日前にすでに亡くなっていたのであった。
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最終更新:2025/04/05(土) 15:00
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