永享の乱とは、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱でである。
上杉禅秀の乱が終わった後、足利持氏はかつて禅秀方についたものに対して執拗な攻撃を仕掛けていった。
まず乱の直後に攻撃された人物だけでもこれだけ存在する
関東での内乱はさらに広がっていき、もはや禅秀与党という性格のみでは論じきれず、在地の矛盾の解消や京都扶持衆といった存在にまで討伐の範囲が広められたのである。
こうした足利持氏の京都扶持衆への攻撃がついに幕府の逆鱗に触れ、桃井宣義への支援として禅秀息子・犬懸上杉憲秋、今川憲政が応永30年ごろから関東への攻撃を開始したのである。
都鄙関係の悪化に関しては主に
という課題がここまで述べてきた各合戦の広がりによって深刻化し、実際に戦争状態に陥ったのである。
しかし応永30年(1423年)11月29日にようやく鎌倉府から謝罪の使者が訪れ、翌年応永31年(1424年)にいったん和解することとなったのである。
しかしこれでめでたしめでたしとはならなかったのが、これ以降の展開であった。というのも、幕府サイドのトップがタカ派の足利義教に交代したからである
まず南奥州では、
石川氏―稲村公方―鎌倉府
と
白川氏―篠川公方―室町幕府
という対立軸が形成されていった。
それを受けて正長元年(1428年)に足利義教は陸奥南部・常陸北部・下野北部を篠川公方を中心とした一つの領域に統合しようとしたのである。その結果、京都扶持衆の那須氏が鎌倉府から攻撃されるといったように、またしても室町幕府と鎌倉府は対立状態に陥ったのだ。この対立は大内盛見の討ち死になど九州情勢の悪化もあり幕府側が折れ、永享3年(1431年)に和平協定が締結されることとなった。
さらに東海地域では幕府と鎌倉府が対立しているという風聞の発信源となり、三河や駿河に対し鎌倉府側も国人への接触を実際に行っていたこともあり対立を深化させていった。幕府側からは、寺社のある反抗的な活動が鎌倉府の陰謀ではないかという嫌疑で見られることもあった。
ここまで見てきたような経過をたどって、まず第一の対立軸である室町幕府と鎌倉府の関係悪化が生じていったのである。
永享9年(1437年)4月、足利持氏は信濃守護小笠原政康と対立した村上義清を救援する兵を集めた。しかしこの兵は山内上杉憲実討伐のための兵ではないかという風聞がたち、山内上杉側の被官たちが結集したのである。
この事態には大御所(持氏母一色氏)なども沈静化を図るがおさまらず、足利持氏は近臣である上杉憲直、上杉憲家父子と一色直兼を鎌倉から退去させ、さらに上杉方被官の大石憲重と長尾景仲の退居という要求を退けられた状態で8月27日には和解が成立した。こうして有利な状態で山内上杉憲実は関東管領には復職したものの、武蔵守護の職務を行うことはなかった。
そして永享10年(1438年)6月に二度目の対立が生じる。今度は、足利持氏の嫡子の元服の際京都の将軍から一字をもらう先例に従うべきという山内上杉憲実の意見が聞き入られず、さらに退去させていた一色直兼、上杉憲直の復帰を持氏が勝手に行ったのである。その結果憲実は弟の上杉重方に任せてボイコットを行う。持氏は憲実をなだめるために嫡子足利義久を憲実に預けようとしたが、今度は鶴岡八幡宮若宮別当の尊仲が反対して融和工作に失敗。結局憲実は8月初旬に扇谷上杉持朝、庁鼻和上杉性順らとともに上野へ下国した。
こうして第二の対立軸である足利持氏と山内上杉憲実の関係悪化が生じていったのである。
この時点で幕府は、両者の対立は決定的であり開戦が不可避である、と予想し軍事行動の準備をすでに進めていた。
山内上杉憲実の下国を知った足利持氏はすぐにこれを追討する方針を定め、8月15日に一色直兼、一色持家の両大将を派遣し、持氏本人も着陣した。一色勢は上野南端の神流川まで進攻し、さらに相模では大森氏が上杉方河村城を攻略している。
一方、幕府方は甲斐守護武田信重を入国させ信濃守護小笠原政康らにその扶持を命じ、一方駿河東端には今川貞秋を入国させた。さらに京都からは犬懸上杉教朝を派遣し、常陸小田・小栗氏に出陣を命じている。
東海道・東山道のみならず、関東中央でもすでに戦端が開かれており、9月には笠原まで進攻していた上杉方の小山持政、小野寺朝通の隙をついて那須持資が小山祇園城を攻略していた。
こうして8月下旬までに足利持氏方は持氏が武蔵府中に布陣、一色直兼、一色持家が上野南部、大森氏が東海道の防衛線を固めることとなった。対して幕府・上杉方は山内上杉憲実が上野板鼻に布陣、小山氏らが下野から武蔵北部、幕府軍が東海道・東山道から関東へ、という状況になったのである。
9月27日に小田原・風祭で両軍は大規模な衝突を行う。幕府軍は9月下旬までに箱根・足柄の防衛線を突破しており、持氏方の大将である上杉憲直の生死すら危ぶまれる大勝利で東海道方面は軍事バランスが一気に幕府・上杉方へと傾いた。
幕府はさらに土岐持益、斯波持種と甲斐政久、越後守護・上杉房朝、と相次いで軍勢を送り、一色義貫や千秋季貞などまだ後続が控えている状態であった。それに加え足利義教の出陣と持氏の朝敵任命も進められていたようである。この背景には大和の不安定化や義教の弟・大覚寺義昭、後南朝の反乱にも対応する必要があったためともいわれている。そして朝敵任命は成功したものの、義教の出兵は結局細川持之、山名持豊、赤松満祐らに押しとどめられて思いとどまることとなった。
持氏方は小田原・風祭合戦での大敗で痛手をこうむり、千葉胤直の離反はあったものの、稲村公方で叔父の足利満貞と合流し木戸持季を大将とする軍勢を再編する。一方幕府方も四条上杉持房が相模高麗寺に布陣し、両軍は相模川西岸で対陣した。一方上野方面軍は一色直兼、一色持家が離反者の続出のために撤退することとなり、持氏方の本陣である海老名に合流することになる。持氏は相模西部まで進出してきた幕府方への対応を優先させたのである。
一方山内上杉憲実はここにきてようやく南下し、武蔵分倍河原に着陣した。
持氏が朝敵任命されたことはすぐに効果が発揮された。一次資料では裏付けできないものの、鎌倉を守護していた三浦時高、二階堂一族の離反を招き、10月から11月にかけて三浦時高、二階堂一族、扇谷上杉持朝の被官が鎌倉を混乱に陥らせたのである。
この結果鎌倉を失った持氏は海老名を引き上げ、11月2日に鎌倉に戻ることにした。そして持氏は金沢称名寺へと入り降伏と恭順を行ったのである。さらに、11月7日の金沢合戦の敗戦で持氏方の一色直兼父子や榎下上杉憲直父子、浅羽下総守らは自害に追い込まれていった。さらに、上杉方の監視下に置かれていた海老名尾張入道、三戸治部小輔らも同じ運命をたどることになった。こうして持氏方は完全に敗北し、足利持氏、足利義久父子は出家するのである。
しかし、山内上杉憲実の助命嘆願にもかかわらず足利持氏らは許されず、永享11年(1439年)2月10日に上杉持朝、千葉胤直らが永安寺を攻めて足利持氏とその叔父・足利満貞を、28日には持氏の子でもあった足利義久も自害に追い込まれたのである。この命令は京都の足利義教によって上杉方を除き幕軍だけで実行するように断行されようとしたようだが、結局憲実も彼らの助命をあきらめ、自害させることに踏み切ったようである。
とにかく足利、足利、足利、上杉、上杉、上杉といったありさまだったので、だいぶこんがらがってきた人もいるだろう。そこでとりあえず主要な人物だけ勢力図としてまとめようと思う。
足利持氏方 | 幕府・山内上杉憲実方 | |
---|---|---|
公方連枝 | 足利義久、足利満貞 | 足利満直 |
上杉氏 | 榎下上杉憲直、上杉憲重、上杉持成 | 扇谷上杉持朝、上杉重方、犬懸上杉教朝、 四条上杉持房 |
奉公衆、奉行人 | 一色直兼、一色持家、海老名尾張入道、 木戸持季、木戸範懐 |
二階堂一族 |
鎌倉寺社 | 鶴岡別当尊仲、鶴岡者荘厳院弘俊 | 鶴岡別当弘尊、鶴岡者荘厳院勝誉 |
相模 | 大森氏、三浦時高(途中で→) | |
武蔵 | 榎下上杉氏被官 | |
上野 | 岩松氏 | |
伊豆 | 河津三郎 | |
下総 | 千葉胤直(途中で→)、結城氏 | |
常陸 | 佐竹氏、真壁朝幹(途中で→) | 小田氏、常陸平氏 |
下野 | 宇都宮市、那須氏、佐野氏 | 小山氏、小野寺氏 |
甲斐 | 逸見氏 | 武田信重、跡部掃部助 |
奥羽 | 長沼氏 | 石橋氏 |
駿河 | 今川範忠、今川貞秋 | |
信濃 | 小笠原政康 | |
越後 | 長尾実景 | |
幕府 | 斯波持種、甲斐将久、千秋季貞 |
憲実は戦後に子達と共に出家し政務から引退し、憲実の弟の上杉清方が管領となった。しかし乱はまだ終わっておらず、翌年には結城氏朝・結城持朝父子などが足利持氏の遺児・春王丸、安王丸を旗頭にした結城合戦を勃発させる。しかし、御存じのとおりこの結城合戦も幕府側の勝利で終わるのだ。
また、幕府側についていた篠川公方・足利満直もどさくさ紛れに討たれ、このまま何事もなくいけば関東公方の勢力は一掃されたかもしれない…。
しかし、結城合戦の勝利直後に将軍である足利義教が嘉吉の乱で殺され、足利持氏の遺児であった足利成氏が赦免され公方として復帰するのである。この結果公方と上杉氏の対立はますます増すことになり、享徳の乱へと向かっていくのである…
掲示板
1 ななしのよっしん
2017/04/08(土) 23:51:05 ID: P9mXdd2nck
2 ななしのよっしん
2017/05/08(月) 22:02:17 ID: XT9CdQvUqF
足利持氏伝説
・足利義教を「還俗将軍」呼ばわり。祝いの使者も送らない。
・義教が決めるはずの鎌倉五山の住職を勝手に決める。
・京都側の改元を無視。鎌倉側は古い元号を使い続ける。
・義教の富士山旅行の際も、本人はおろか使者すら出向かない。
・「怨敵義教呪詛」の願文を鶴岡八幡宮に奉納。
・嫡男の名前は将軍から一字もらう慣例も「くじ将軍だから」と無視。
義教もアレだが、義教に対しここまで無茶苦茶やった持氏もなかなかのもの
3 ななしのよっしん
2018/05/04(金) 12:53:55 ID: 7DRGw4pqlx
まぁ鎌倉公方と室町幕府の対立は持氏の祖父である足利氏満の代から既に始まっているんだよな
しかも持氏の子の足利成氏も父同様幕府と対立路線を続け、関東の戦国時代のきっかけとなった享徳の乱を起こして(同時期に応仁の乱が勃発しているが、この乱は応仁の乱勃発以前から始まっており、しかも応仁の乱終結後も継続しているという長期戦っぷり)いるから、やはり血は争えんってことやな
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最終更新:2024/03/29(金) 22:00
最終更新:2024/03/29(金) 22:00
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