永嘉の乱 単語

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永嘉の乱とは、建武元年(304年)以降に西で起きた戦乱であり、五胡十六国南北朝時代に陥った最大の原因である。

概要

上述の通り、以来の民族の時代を終わらせ、遊牧民王が乱立するきっかけになった戦いである。大昔は、西の支配階級対その圧政に対抗する五胡諸族の戦い、という見方で見られていたが、最近はそのような二項対立的な見方からは脱してきており、2016年田中一輝による論文など、西の動きと五胡諸部族の動き、それぞれを広く見て取る研究も出てきている。

名前しか聞いたことがない人も多いので簡潔にまとめよう

  1. 八王の乱末期
  2. 司馬騰・王浚「司馬穎とかないわ~」司馬穎劉淵、やれ」劉淵「あいあいさー」
  3. 司馬騰・王浚「司馬穎直接殴ればよくない?」司馬穎「ギャー、逃げろ」劉淵君弱い」
  4. 劉淵以外が陽に逃げ帰った後…
  5. 司馬顒「おら!長安来いや!」司馬衷「ギャー」司馬穎ヘルプ!」
  6. 劉淵「助けに行かなきゃ…」宣「そんなことよりYou!王になっちゃいなよ!」
  7. 劉淵「それ採用」(王即位)司馬衷「え?司馬穎え?司馬顒え?司馬越え?
  8. だが、正直は強かった
  9. 劉淵「うわ、つっよ」桑「うわ、つっよ(死亡)」石勒「うわ、つっよ」王弥「うわ、つっよ」
  10. 三人「「「ん?」」」劉淵「ウチくる?」石勒「いいんすか?」
  11. この段階でも、正直は強かった
  12. 琨「しか勝たん司馬越「挟み撃ちだ」劉淵「これはまずいな…」
  13. こんな中、劉淵死亡
  14. 聡「上の意志は継いだ」石勒に任せろ」
  15. 司馬熾「司馬越、消えろ」司馬越寿命来ました」司馬熾「え?
  16. 地味にガタガタだった
  17. 聡「あれこれチャンスじゃね?」石勒に任せろ」
  18. 陽陥落
  19. 長安も陥落
  20. 聡「死にました」曜「え?石勒え?
  21. 以後、大混乱

乱の勃発

この乱の勃発は、八王の乱の第六の王・司馬穎が敵対勢力である司馬越(第八の王)営の并州刺史・司馬騰、都督・王浚と戦っていたころにすべてが始まる。司馬穎はこの戦いに対し、異民族である劉淵を北単・参丞相軍事に任命し、迎撃にあたらせたのである。

こうして、左に入った劉淵は、従祖宣らに迎えられ、離石を都にした大単となった。ところが、この間本にいた司馬穎司馬騰、王浚の連合軍にあっけなく敗れ、司馬衷、司馬熾といった室ごと陽に逃げ帰る。ところが、第七の王・司馬顒とその配下・方は、彼らを長安に連行し、八王の乱は新たな展開を見せたのである。

正直、劉淵は当初はこれを助けるつもりであった。ところが、ここで宣が、救助をやめてからの自立を促したのである。かくして、劉淵が誕生し、八王の乱が終わってもいない中、新たな戦いが始まったのである。

乱の初戦

当初、司馬騰は、司馬穎(第六の王)をサクッと倒した時、鮮卑拓跋部の猗㐌・猗兄弟劉淵退治を依頼しており、永2年(305年)にも同じく劉淵との戦いを依頼して、綦などを打ち破っている。

ただし、永1年(304年)に司馬騰は聶玄を派遣して劉淵を攻撃させたが、聶玄は大敗し、劉淵配下の曜が太原、泫氏、屯留、長子、中都といった并州南部などを占拠している。また永2年(305年)に司馬騰は、司馬・周良・石派遣し、劉淵派遣した、に撃退されている。ところが、離石で飢饉があったようで、おそらく、司馬騰が并州を退いたにもかかわらず、北方に軍を進めず南部のみの占領に終わったのは、このような事情があったようだ。

かくして、一進一退攻防を繰り広げている間、司馬騰に代わって琨が并州刺史となった。しかし、この後任の琨も強く、劉淵配下のが打ち破られている。

この辺りで、割と敗色濃厚なのに、劉淵幕下では、殷、王育らが、戦線を拡大しようと言い出したのだ。ただし、後世の書物なのでどこまで本当なのかはよくわからないが、彼らも敗戦を意識しており、そのため南方、具体的には陽への進出を論んだ、ということなのかもしれない。。

かくして、琨に敗れた後、離間策の結果として、劉淵子という南に遷都している。

ちょっとややこしいが、劉淵は、離石→亭→離石→子、そしてこの後陽と、ひたすら山西の并州をうろうろしているだけなのが、現状のようだ。

他の反乱者たちとの合流

一方、この頃太行山脈を挟んだ、冀州では、別の反乱が起きていた。桑の乱である。

もとはただの牧師だった桑は異民族石勒密になり、司馬穎(第六の王)の奉迎的とするの反乱にそろって与する。ところが、この反乱は司馬越(第八の王)にあっけなく敗れ、永嘉元年(307年)に、司馬穎のために司馬越復讐することを誓った、桑、石勒はさらに反乱を起こしたのである。

書』によると、5月に反乱を起こした2人は鄴を落として司馬騰を殺し、楽陵で前州刺史石を殺し、平原荒らし後漢皇帝の末裔・も殺7月になると司馬越が本格的に討伐を始め、苟晞らに負けに負け、12月には田・薄盛に桑が殺されたというものである。

ところが、『書』と『石墓誌』・『石定墓誌』の間に矛盾があり、田中一輝は以下のような乱の展開を想定している。

  1. 桑、石勒5月に鄴を落として司馬騰を殺
  2. 州に進軍する例外はあったものの、基本的には約三か鄴に駐留
  3. 司馬越が鄴にいた桑らを攻撃
  4. 苟晞らによる追撃
  5. 逃亡の過程で楽陵を占拠
  6. 楽陵で田・薄盛に桑が殺される

要するに、この乱はほぼ西一方的な討伐で終わったとするのである。

つまり、劉淵の反乱と、桑の反乱は、ほぼ、西の優位に終わろうとしていた。

が、石勒はこの反乱の討伐を逃れ、劉淵に合流することに成功する。この石勒逃げている最中に、㔨督・突を説得し、彼らの部族を率いれていたのだ。

また、熙元年(306年)の根の反乱に加わり、彼の死後も州・徐州・州・予州方面を席巻していた王弥もこのころ合流した。この王弥は許をも占拠していたが、王の迎撃で陽攻撃には失敗している。

い話、劉淵幕下に、華北荒らしている反西勢力が合流してきたのである。かくして、永嘉2年(308年)10月に、ついに劉淵皇帝を宣言したのであった。

西晋の挟撃作戦と、その頓挫

永嘉3年(309年)、劉淵攻略して、さらに南の陽に遷都した。以後、息子聡、石勒、王弥らが、南下作戦を展開していく。

しかし、偶然か意図的かは不明だが、桑討伐後の司馬越が官渡から西進し、陽に到着したのである。こうして、司馬越による、劉淵迎撃態勢が整えられたのである。

陽攻撃の始まりは以下である。から朱誕が劉淵に降し、陽攻撃を説いた。こうして、朱誕、らが陽に向かい、陽を囲んだが、西明門にいた聡を北宮純が夜襲し、呼延顥らを打ち破り、軍は後退。さらに呼延が部下に殺されるなど、軍では内紛が発生したのである。

劉淵はこれを見て、聡に帰ってくることを進言したが、聡はこれを拒み、聡、曜、王弥、陽を囲む。ところが、聡が祈祷のため厲と呼延朗に軍を預け本を離れたのを見て、孫詢が司馬越にスキを突く進言をし、攻撃。呼延朗は敗死し、厲は自害し、大敗したのである。

かくして、劉淵は撤退命を出すが、そんな中で永嘉4年(310年)に劉淵は死んでしまったのである。

当初は和が皇帝となったが、あっけなくクーデターによって聡が皇帝となった。ただし、こうしたごたごたにも拘らずの南下方針は変わってはいなかった。かくして、石勒らによって陽以南にも進出した軍であったが、依然として陽に籠する司馬越軍を破ることはできず、大胆な支配領域拡大はできなかったのである。

一方、北方琨と南方司馬越の挟撃作戦を続ける気であった。ところが、理由はよくわからないのだが、琨の進言した攻撃作戦司馬越は出なかったのである。司馬越は強引な姿勢で室に挑んだが、その結果として苟晞や周穆といった反司馬越勢力が陽にできつつあった。

ただし、この間王讃や文鴦の迎撃で、石勒は荊州に大きく逃れていった。石勒はこれでほぼ独自の勢力と化していく伏線になるのだが、少なくともこの時点ではへの抵抗はまだうまくいっていたのである。

司馬越は許から項への進出などの対策も行ったが、司馬越からの離反傾向に止めは聞かず、それは皇帝司馬熾が然と示していたのである。こんな中、永嘉5年(311年)、八王の最後の一人・司馬越が項であっけなく死んだ。

晋の滅亡

一方、この間南から攻めあがってきた石勒司馬確、司馬康などを敗死させていき、司馬越残党軍の後背を衝く。王司馬越亡き後の軍を率いていたが、背後を衝かれたこともあってあっけなく負けてしまったのである。かくして、司馬越の配下や司馬越に連れ出されていた宗室の人々は捕まり、処刑されていった。

これへの復讐として、司馬越息子司馬毘を擁立した、何倫、惲らの軍勢が、陽から引きずり出されていた。しかし、この軍も、石勒にあっけなく敗北し、い話陽ががらきになったのである。

ついに6月聡は陽攻撃を決め、あっけなく攻略皇帝司馬熾を捕らえた一方で、司馬鄴が関中に逃れて残党軍の旗印となった。

一方で、聡は北進をようやく実現し、永嘉6年(312年)には琨軍も敗走。同盟軍であった拓跋部の猗息子に殺されて混乱状態になった結果、琨は段匹磾と結託するが、結局彼に殺される。

かくして、中原支配は決定的となり、建4年(316年)司馬鄴は抵抗むなしく滅亡。ところが、聡もあっけなく死に、は西の曜(前)と東の石勒(後)に二分され、中国全土が大混乱状態になっていくのである。

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