永嘉の乱とは、建武元年(304年)以降に西晋で起きた戦乱であり、五胡十六国・南北朝時代に陥った最大の原因である。
上述の通り、漢以来の漢民族の時代を終わらせ、遊牧民王朝が乱立するきっかけになった戦いである。大昔は、西晋の支配階級対その圧政に対抗する五胡諸族の戦い、という見方で見られていたが、最近はそのような二項対立的な見方からは脱してきており、2016年の田中一輝による論文など、西晋の動きと五胡諸部族の動き、それぞれを広く見て取る研究も出てきている。
名前しか聞いたことがない人も多いので簡潔にまとめよう
この乱の勃発は、八王の乱の第六の王・司馬穎が敵対勢力である司馬越(第八の王)陣営の并州刺史・司馬騰、都督・王浚と戦っていたころにすべてが始まる。司馬穎はこの戦いに対し、異民族である劉淵を北単于・参丞相軍事に任命し、迎撃にあたらせたのである。
こうして、左国城に入った劉淵は、従祖父・劉宣らに迎えられ、離石を都にした大単于となった。ところが、この間本陣にいた司馬穎は司馬騰、王浚の連合軍にあっけなく敗れ、司馬衷、司馬熾といった帝室ごと洛陽に逃げ帰る。ところが、第七の王・司馬顒とその配下・張方は、彼らを長安に連行し、八王の乱は新たな展開を見せたのである。
正直、劉淵は当初はこれを助けるつもりであった。ところが、ここで劉宣が、救助をやめて晋からの自立を促したのである。かくして、漢王劉淵が誕生し、八王の乱が終わってもいない中、新たな戦いが始まったのである。
当初、司馬騰は、司馬穎(第六の王)をサクッと倒した時、鮮卑拓跋部の猗㐌・猗廬兄弟に劉淵退治を依頼しており、永興2年(305年)にも同じく劉淵との戦いを依頼して、綦毋豚などを打ち破っている。
ただし、永興1年(304年)に司馬騰は聶玄を派遣して劉淵を攻撃させたが、聶玄は大敗し、劉淵配下の劉曜が太原、泫氏、屯留、長子、中都といった并州南部などを占拠している。また永興2年(305年)に司馬騰は、司馬瑜・周良・石尟を派遣し、劉淵の派遣した、劉欽に撃退されている。ところが、離石で飢饉があったようで、おそらく、司馬騰が并州を退いたにもかかわらず、北方に軍を進めず南部のみの占領に終わったのは、このような事情があったようだ。
かくして、一進一退攻防を繰り広げている間、司馬騰に代わって劉琨が并州刺史となった。しかし、この後任の劉琨も強く、劉淵配下の劉景が打ち破られている。
この辺りで、割と敗色濃厚なのに、劉淵の幕下では、劉殷、王育らが、戦線を拡大しようと言い出したのだ。ただし、後世の書物なのでどこまで本当なのかはよくわからないが、彼らも敗戦を意識しており、そのため南方、具体的には洛陽への進出を目論んだ、ということなのかもしれない。。
かくして、劉琨に敗れた後、離間策の結果として、劉淵は蒲子という南に遷都している。
ちょっとややこしいが、劉淵は、離石→黎亭→離石→蒲子、そしてこの後平陽と、ひたすら山西の并州をうろうろしているだけなのが、現状のようだ。
一方、この頃太行山脈を挟んだ、冀州では、別の反乱が起きていた。汲桑の乱である。
もとはただの馬牧師だった汲桑は異民族の石勒と親密になり、司馬穎(第六の王)の奉迎目的とする公師藩の反乱にそろって与する。ところが、この反乱は司馬越(第八の王)にあっけなく敗れ、永嘉元年(307年)に、司馬穎のために司馬越に復讐することを誓った、汲桑、石勒はさらに反乱を起こしたのである。
『晋書』によると、5月に反乱を起こした2人は鄴を落として司馬騰を殺害し、楽陵で前幽州刺史石尟を殺害し、平原を荒らして後漢皇帝の末裔・劉秋も殺害。7月になると司馬越が本格的に討伐を始め、苟晞らに負けに負け、12月には田蘭・薄盛に汲桑が殺されたというものである。
ところが、『晋書』と『石尟墓誌』・『石定墓誌』の間に矛盾があり、田中一輝は以下のような乱の展開を想定している。
要するに、この乱はほぼ西晋の一方的な討伐で終わったとするのである。
つまり、劉淵の反乱と、汲桑の反乱は、ほぼ、西晋の優位に終わろうとしていた。
が、石勒はこの反乱の討伐を逃れ、劉淵に合流することに成功する。この石勒は逃げている最中に、張㔨督・馮莫突を説得し、彼らの部族を率いれていたのだ。
また、光熙元年(306年)の劉柏根の反乱に加わり、彼の死後も青州・徐州・兗州・予州方面を席巻していた王弥もこのころ合流した。この王弥は許昌をも占拠していたが、王衍の迎撃で洛陽攻撃には失敗している。
早い話、劉淵の幕下に、華北を荒らしている反西晋勢力が合流してきたのである。かくして、永嘉2年(308年)10月に、ついに劉淵は皇帝を宣言したのであった。
永嘉3年(309年)、劉淵は洛陽攻略を目指して、さらに南の平陽に遷都した。以後、息子の劉聡、石勒、王弥らが、南下作戦を展開していく。
しかし、偶然か意図的かは不明だが、汲桑討伐後の司馬越が官渡から西進し、洛陽に到着したのである。こうして、司馬越による、劉淵迎撃態勢が整えられたのである。
洛陽攻撃の始まりは以下である。晋から朱誕が劉淵に降伏し、洛陽攻撃を説いた。こうして、朱誕、劉景らが洛陽に向かい、洛陽を囲んだが、西明門にいた劉聡を北宮純が夜襲し、呼延顥らを打ち破り、漢軍は後退。さらに呼延翼が部下に殺されるなど、漢軍では内紛が発生したのである。
劉淵はこれを見て、劉聡に帰ってくることを進言したが、劉聡はこれを拒み、劉聡、劉曜、王弥、劉景が洛陽を囲む。ところが、劉聡が祈祷のため劉厲と呼延朗に軍を預け本陣を離れたのを見て、孫詢が司馬越にスキを突く進言をし、攻撃。呼延朗は敗死し、劉厲は自害し、大敗したのである。
かくして、劉淵は撤退命令を出すが、そんな中で永嘉4年(310年)に劉淵は死んでしまったのである。
当初は劉和が皇帝となったが、あっけなくクーデターによって劉聡が皇帝となった。ただし、こうしたごたごたにも拘らず、漢の南下方針は変わってはいなかった。かくして、石勒らによって洛陽以南にも進出した漢軍であったが、依然として洛陽に籠城する司馬越軍を破ることはできず、大胆な支配領域拡大はできなかったのである。
一方、晋も北方の劉琨と南方の司馬越の挟撃作戦を続ける気であった。ところが、理由はよくわからないのだが、劉琨の進言した攻撃作戦に司馬越は出なかったのである。司馬越は強引な姿勢で帝室に挑んだが、その結果として苟晞や周穆といった反司馬越勢力が洛陽にできつつあった。
ただし、この間王讃や文鴦の迎撃で、石勒は荊州に大きく逃れていった。石勒はこれでほぼ独自の勢力と化していく伏線になるのだが、少なくともこの時点では晋の漢への抵抗はまだうまくいっていたのである。
司馬越は許昌から項への進出などの対策も行ったが、司馬越からの離反傾向に歯止めは聞かず、それは皇帝・司馬熾が公然と指示していたのである。こんな中、永嘉5年(311年)、八王の最後の一人・司馬越が項であっけなく死んだ。
一方、この間南から攻めあがってきた石勒が司馬確、司馬康などを敗死させていき、司馬越残党軍の後背を衝く。王衍が司馬越亡き後の軍を率いていたが、背後を衝かれたこともあってあっけなく負けてしまったのである。かくして、司馬越の配下や司馬越に連れ出されていた宗室の人々は捕まり、処刑されていった。
これへの復讐として、司馬越の息子・司馬毘を擁立した、何倫、李惲らの軍勢が、洛陽から引きずり出されていた。しかし、この軍も、石勒にあっけなく敗北し、早い話洛陽ががら空きになったのである。
ついに6月、劉聡は洛陽攻撃を決め、あっけなく攻略。皇帝・司馬熾を捕らえた一方で、司馬鄴が関中に逃れて残党軍の旗印となった。
一方で、劉聡は北進をようやく実現し、永嘉6年(312年)には劉琨軍も敗走。同盟軍であった拓跋部の猗廬が息子に殺されて混乱状態になった結果、劉琨は段匹磾と結託するが、結局彼に殺される。
かくして、漢の中原支配は決定的となり、建興4年(316年)司馬鄴は抵抗むなしく滅亡。ところが、劉聡もあっけなく死に、漢は西の劉曜(前趙)と東の石勒(後趙)に二分され、中国全土が大混乱状態になっていくのである。
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最終更新:2024/11/30(土) 14:00
最終更新:2024/11/30(土) 13:00
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