永正の乱とは、戦国時代初期の永正年間に発生した一連の戦乱である。
永正2年(1505年)の長享の乱の終結で、享徳の乱での太田道灌の活躍によって台頭著しかった分家の扇谷上杉氏を、山内上杉顕定は抑え込むことに成功した。寛正7年(1466年)以来すでに40年近くにわたって関東管領を務めあげ、足利政氏の弟である山内上杉顕実を養子とし、山内上杉顕定は優れた手腕を発揮して着実に関東を治めていったのである。このまま何もなければ関東に再びの平和が戻ることもあったかもしれない。
しかし、上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦、享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱と長引く東国の戦乱は、関東公方と関東管領の下で何とか保たれていた室町的秩序というくびきを解き放ち、関東の諸豪族の間に南北朝以前からすでにまかれていた争いの種の根を、着実に広げさせていったのである。
さらに、南関東では、それまで存在しなかった新勢力・北条早雲こと伊勢宗瑞が率いる後北条氏が伊豆を中心に芽吹きつつあった。彼らは今川氏の客将という身分ではあったものの、長享の乱と明応の政変を通じて関東のパワーバランスの中に抱合されつつあったのだ。
そしてそんな火薬庫に、最初の種火が放り投げられた…
敏腕だった山内上杉顕定を悩ませる問題が、突然降ってわいたように現れた。古河公方である足利政氏と、その息子足利高基(厳密にいえばこの当時は足利高氏だが、当然先祖のあの人とややこしいので、高基で統一する)が争い始めたのである。古河公方家では足利成氏以来「両上様」体制が敷かれていたのだが、それがあだとなり始めていた。
足利高基は、永正3年(1506年)に岳父である宇都宮成綱のもとに動座し、足利政氏方の小山成長への攻撃をもくろむ。一方足利政氏も、岩城常隆や小峰朝脩、白河結城氏や那須氏といった北下野から南奥の諸将を動員することで対抗しようとしたのである。
この事態に対し山内上杉顕定は梁田政助を通じ、足利高基方の簗田高助、簗田孝助らと交渉。足利高基は諸将の協力を十分に得られなかったこと、山内上杉顕定が出家してまで和睦に努めたこともあって、翌永正4年(1507年)に古河に戻ることとなった。
しかしこれは問題を何一つ解決するものではなかった。永正6年(1509年)に第二次政氏・高基抗争が勃発したのである。この事件は実はあまりわかっていることがないが、とりあえず山内上杉顕定が調停を行ったこと、またしても足利政氏有利に決着したことが伝わっている。
このように関東の対立の解消は非常に危うい状態で、山内上杉顕定の双肩にかかっていた。しかし享徳の乱の長尾景春、長享の乱の北条早雲こと伊勢宗瑞、に続き、三度両陣営の対立とは別の場所から膠着状態を打ち消す存在が現れてしまったのだ。
永正4年(1507年)8月越後守護で山内上杉顕定の弟・上杉房能が守護代である長尾為景に討ち取られ、房能のいとこである上杉定実が擁立された。長尾為景の父・長尾能景は上杉房能を支えるも、永正3年(1506年)の一向一揆との般若野の戦いで戦死し、越後長尾氏が代替わりをした矢先のことであった。
しかし、確かに弟が殺されたとはいえ、長尾景春の妨害があったこともあり、山内上杉顕定は当初は長尾為景・上杉定実と大きく対立することはなかった。ところが、越後の山内上杉氏の権益が侵食されるにつれ、ついに山内上杉顕定は越後を手中におさめる決意をする。
足利政氏と足利高基の抗争が終息した永正6年(1509年)7月、山内上杉顕定は大軍勢を引き連れ越後に侵攻し、長尾為景と上杉定実はあっけなく敗れ、越中に逃亡することとなった。ところが、越後支配を試みた山内上杉顕定であったが、再起を志す長尾為景の根回しもあり、その支配は困難を極めたのである。
さらに、またしても足利政氏と足利高基の対立が始まり、第三次政氏・高基抗争が勃発した。永正7年(1510年)に古河城を出た足利高基は、重臣簗田氏の関宿城に入り、足利政氏との対立を明確に示す。おまけに足利高基の弟であった雪下殿空然(後の小弓公方足利義明)が太田荘で蜂起するなど、関東公方家の分裂は深刻な事態になっていたのである。
そして越中から佐渡にわたっていた長尾為景が、蒲原津に上陸。寺泊、椎谷、と次々に山内上杉方を破り、ついに府中を奪還する。支えきれなくなった山内上杉顕定は、退却するが、長森原で討ち取られてしまったのである。
一人は周晟の息子・つまり上杉憲実の孫である又いとこの山内上杉憲房で、越後にともに従軍してきていた。もしかしたら越後を与えるつもりだったのかもしれないが、長森原で山内上杉顕定が戦死すると、白井城に撤退した。
もう一人は足利政氏の弟・山内上杉顕実である。こちらは鉢形城にはいっており、以前から後継者として定められていたようだ。
山内上杉顕定の死後、関東管領は山内上杉顕実が継いでいた。しかし、山内上杉憲房との対立が生じ、山内上杉顕実は足利政氏、山内上杉憲房は足利高基と結びついたのである。
永正7年(1510年)の紛争は足利高基方の宇都宮氏内でも対立をもたらした。娘婿の足利高基を支援した宇都宮成綱に対し、重臣の芳賀高勝が足利政氏方につき、武力衝突。永正8年(1511年)頃に、芳賀高勝は宇都宮成綱を隠居に追い込み、宇都宮忠綱を擁立した。
しかし、これを受け入れる宇都宮成綱ではなかった。実権を取り戻すべく、一門の塩谷氏の代替わりを行わせ、宇都宮成綱の弟・塩谷孝綱を送り込んだ。宿老中として宇都宮忠綱の後見人を任せることにより、宇都宮忠綱を隠居後の宇都宮成綱の影響下に置き、芳賀高勝から宇都宮忠綱の傀儡化を阻止したのである。そして、永正9年(1512年)4月に足利高基の支援を受けて巻き返しを図り、芳賀高勝傷害事件を起こしたのである。
これをもって完全に宇都宮家中は宇都宮成綱・宇都宮忠綱方と芳賀高勝方に分裂する、宇都宮錯乱が起きたのだ。この対立は宇都宮家中以外にも影響を与えた。常陸国の小田政治や江戸通泰が宇都宮成綱・宇都宮忠綱方として介入し支援した。
足利高基は自分の最大の味方である宇都宮氏内の抗争を治めるべく、沈静化を図ったが、宇都宮氏は宇都宮成綱方の勝利で宇都宮錯乱が終わる、永正11年(1514年)頃まで機能しなくなってしまった。なお、宇都宮錯乱後も家督は宇都宮忠綱のままであるが、実権は隠居した宇都宮成綱が握っていた。
その一方で永正9年(1512年)は足利政氏・山内上杉顕実と足利高基・山内上杉憲房の争いが本格化した時期であった。その結果6月に鉢形城が落城し山内上杉顕実と惣社長尾顕方は没落。関東管領をめぐる争いは山内上杉憲房の勝利に終わり、家宰職も長尾景長が引き継いだ。
敗北した山内上杉顕実は足利政氏を頼り古河に逃れた。ところが足利政氏は古河城の防衛拠点であった関宿城が敵の本拠であること、重臣である簗田氏が敵方についていることから、小山成長の祇園城へと逃亡することとなる。これに対して足利高基が古河に入り、ついに足利高基の古河公方化が実現され、足利政氏と足利高基の抗争自体は足利高基の勝利に終わった。しかし戦いはまだ終わらなかったのである。
こうして関東足利氏、山内上杉氏が北関東で抗争している間、南関東でも別の争いが生じていた。長尾為景が長尾景春、北条早雲こと伊勢宗瑞と手を結んだためである。長尾景春はともかく伊勢宗瑞は長年上杉氏と協力関係にあった人物だが、その背景には伊豆諸島を経由した太平洋海運の権益をめぐる争いがあったらしい。
伊勢宗瑞は永正6年(1509年)に扇谷上杉朝良を攻撃し始める。扇谷上杉氏の本城である江戸城まで迫り、さらには山内上杉氏の領国である武蔵西部にも侵攻した。しかしこれに対しては山内上杉氏の援軍を得た扇谷上杉朝良に押し返され、やむなく和睦を結ぶこととなった。この背景には遠江守護斯波義達が遠江に侵攻し、今川氏親を支援しなければならないという伊勢宗瑞の事情もあったのだ。
しかし前述のとおり上杉氏内部の抗争に乗じて再度扇谷上杉朝良と敵対。永正9年(1512年)に再度相模中部から武蔵南部まで侵攻する。これに対抗したのが、落ちぶれていたとはいえ平安以来の名門であった三浦道寸であった。しかし、三浦道寸のこもる岡崎城を攻略し、ついに永正10年(1513年)正月に三浦道寸を三浦郡に後退させ、攻囲を続ける。永正13年(1516年)についに伊勢宗瑞は三浦氏を滅亡させ、相模・伊豆二国の大名となったのであった。
足利政氏はわずかな供を連れて祇園城に移ったとはいえ、小山成長、扇谷上杉朝良といった勢力がこれを支えた。そのうえで足利政氏は下野を中心とした、北関東をめぐる諸勢力の抗争を利用する形で古河奪還をもくろんだのである。
この結果足利政氏方には佐野氏、皆川氏、小山氏、那須氏、佐竹氏、岩城氏、扇谷上杉氏が、足利高基方には横瀬氏、長尾氏、結城氏、宇都宮氏、小田氏、江戸氏、千葉氏がつき、さらには奥州の伊達氏や石川氏とも結びついていったのである。
このころになると足利高基方の最重要勢力である宇都宮氏の宇都宮錯乱は、宇都宮成綱・宇都宮忠綱の勝利によって収束することとなった。宇都宮忠綱は足利政氏の参陣要請に応じた岩城由隆、佐竹義舜と永正11年(1514年)に下那須にて合戦を開く。宇都宮忠綱は敗れたため一度退却し、宇都宮竹林にて再度合戦を開く。後詰めを率いた宇都宮成綱の救援と結城政朝の援軍を得て、これに見事勝利することとなった。
さらに下野には黒羽城の上那須家(太郎家)と烏山城の下那須家(五郎家)の両那須家が存在した。上那須家は京都扶持衆、下那須家は親鎌倉府方であり両者はたびたび争っていたのである。しかし上那須家は内紛の末滅亡し、下那須家の下那須資房によって両那須家は永正11年(1514年)に統一されたとされる。
その那須領で永正13年(1516年)に岩城・佐竹連合軍と宇都宮忠綱の戦い・那須縄釣合戦が行われた。那須氏はもともと足利政氏方であったのだが、下那須資房の滅ぼした上那須資永は白河結城顕頼の弟であり、白河結城氏と結びつく佐竹・岩城氏と敵対するのは当然であった。こうして那須氏は佐竹氏との同盟関係を破って宇都宮忠綱と結び、宇都宮忠綱は再度勝利することとなったのだ。
こうして足利政氏方の岩城・佐竹勢力の後退と、足利高基方の宇都宮成綱・宇都宮忠綱の優位の確定は、足利政氏の下野で存立基盤を崩壊させた。さらに永正10年(1513年)に小山成長から小山政長への家督継承が古河公方との距離を変化させたのである。つまり足利政氏の最大の与同勢力であった小山氏が、足利高基方についたのだ。
こうして永正13年(1516年)に祇園城を追われた足利政氏は、扇谷上杉朝良の岩付城へと移った。足利政氏はその後、小弓公方足利義明を後継者と位置づけ、永正15年(1518年)に扇谷上杉朝良の死でついに味方を完全に失ったことで久喜館に隠居することとなる。山内上杉顕実もすでに永正12年(1515年)には亡くなっており、足利政氏は享禄4年(1531年)まで長生きするも、寂しく生涯を終えていったのであった。
ところがこれは北関東に限った話である。
もはやかなり前過ぎて忘れられているかもしれないが、永正7年(1510年)第三次政氏・高基抗争の際、足利高基の弟・雪下殿空然が蜂起したことを覚えているだろうか。父と兄の対立を見続け血気にはやった彼は、やがて還俗して足利義明と名乗り、父・足利政氏に勝利した足利高基と争っていくのである。
一方房総半島は、分裂激しい下総千葉氏、享徳の乱以来の古河公方方であった武田信長に始まる上総武田氏、里見義実に始まる安房里見氏らが展開していた。上総では次第に長南武田氏と真里谷武田氏に分かれていき、真里谷武田氏の武田清嗣が実質的な惣領の座につく。その息子武田信嗣も足利政氏方として上総に勢力を拡大させていった。
そして永正7年(1510年)その息子・武田信清が小弓城の原胤隆と争う。ここに呼びつけられたのが、相模の統一を果たした伊勢宗瑞である。武田信清は永正13年(1516年)に伊勢宗瑞と連携し、永正15年(1518年)には小弓城を攻略する。そしてそこに足利義明を迎え入れたのである。これが小弓公方の始まりであった。
足利義明は弟の足利基頼や鶴岡八幡宮の奉公人である牧氏や逸見氏、近臣の二階堂氏や佐々木氏、椎津氏らを引き連れていった。その第一の支援者が武田信清であり、婚姻を通して結びついていた安房の里見義通らがこれに加わった。一方真里谷武田氏に圧迫されていた長南武田氏は足利高基に従い、下総千葉氏や家臣の土気酒井氏も古河公方方となる。房総半島にも争いが持ち込まれたのである。
永正16年(1519年)、佐貫郷で大乱があったとされる。上総椎津城の戦いである。決着のついた永正の乱であったが、以後は古河公方と小弓公方の戦いに移っていくのである。
関東が余計ややこしいことになった。
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