江藤新平(1834~1874)とは、幕末から明治時代初頭にかけて活躍した人物である。
佐賀藩士。明治新政府の藩閥「薩長土肥」のうち佐賀藩の代表人物で、佐賀の乱の首謀者。
藩校の弘道館に入学したのち、枝吉神陽の勤王組織「義祭同盟」に最年少の17歳で加わり、『図海策』の執筆など開国論を唱える。文久2年(1862年)に脱藩し、いったん京都に上り姉小路公知と接触するなどしたが連れ戻され、永久閉門。しかしその後許され、再度京都に上り討幕活動に従事した。
慶応4年(1868年)には新政府軍の軍監となり、江戸上野で彰義隊を討滅。大木喬任と連名で江戸遷都を建議する。明治2年(1869年)には佐賀藩権大参事となって藩政改革を実施するも、虎の門で佐賀藩の足軽6人に襲われ重傷を負った。
その後も新政府の重職として、明治3年(1870年)に「国政改革案」を建議、明治4年(1871年)に「廃藩置県」を施行、明治5年(1872年)には初代司法卿となり「法制」を公布・施行した。この間に山県有朋の「山城屋事件」、井上馨の「尾去沢銅山事件」を追求して、二人を辞任に追い込んでいる。そして明治6年(1873年)に参議となったが征韓論に敗れて辞職し、明治7年(1874年)に愛国公党を結成した。
ところがそれからひと月もしないうちに佐賀に戻ると、征韓党を率いて佐賀の乱を起こす。佐賀城を攻撃し、佐賀県庁を占領するが、激戦の末政府軍が勝利し移、半月も経たないうちに大久保利通が佐賀城に入城する。江藤新平は鹿児島に脱出して西郷隆盛を頼ったが、西郷は動かず、高知で逮捕された。「佐賀の乱臨時裁判所」での判決は、江藤新平、島義勇の両名を梟首にするものだった。
この判決の際、裁判長の河野敏鎌が判決文を読んだ瞬間、江藤新平は発言のため立ち上がろうとしたが後ろの役人が綱を引いてしりもちをつき、判決に恐れおののいて「腰を抜かした」とする俗説が流布したとも。ともあれ処刑された江藤新平だったが、明治44年(1911年)には功績表彰が衆議院で可決され、大正元年(1912年)に罪名消滅の証書が交付、大正5年(1916年)には正四位を復位追贈された。
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2 ななしのよっしん
2021/01/19(火) 12:14:03 ID: IvN1yYBWKE
この人調べれば調べるほど恐ろしい人だな、たぶん日本ナンバーワンの政治家(政略ではない)
3 ななしのよっしん
2021/09/23(木) 13:47:04 ID: ak0F/VAoel
歳月は江藤新平主役の有名な作品ではあるが色々な書物読んでみると面白い
司馬作品の大久保は西郷に拘りすぎてちょっとな…実際生涯親友という想いはあったのだろうが、江藤に対する日記内容は反乱の稚拙さ・裁判での態度を非難する意味合いが強いと思う
4 ななしのよっしん
2023/03/03(金) 05:23:15 ID: ztntQQHv2E
我が国の刑事政策の礎を作り、そしてその刑事政策の所産(指名手配)によって落命した人
商鞅と重なるところがある
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最終更新:2024/04/18(木) 06:00
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