汪兆銘政権とは、1940年から1945年にかけて中国大陸東部に存在した政権ないし国である。中華民国南京国民政府、中華民国再編国民政府とも。
1937年8月13日、蒋介石総統率いる中国国民党(抗日民族統一戦線)が上海市の日本人租界を攻撃した事で第二次上海事変が勃発し、大日本帝國と宣戦布告無き戦争状態に入った。後の世に言う支那事変である。およそ2ヵ月に及んだ上海での戦闘は日本軍の勝利に終わり、国民党軍は首都南京に撤退した。世界第三位の強大な海軍力を持つ帝國海軍は中国沿岸を海上封鎖を実施し、第三国の租借地以外の港から中国船舶を締め出して兵糧攻めを行うとともに航空攻撃で貧弱な中華民国海軍を壊滅。そして首都南京と沿岸部を攻め落とし、国民党軍は漢口への遷都を強いられた。奥地へと逃げ続ける国民党軍を追って内陸に進む帝國陸軍であったが、中国の広大すぎる土地は次第に補給線の維持を困難にしていく。やがて戦況は膠着状態に陥り、互いに決め手を欠く事態に。予想外に長引いた事変は臣民の生活を圧迫した。
そこで日本は、国民党内の反蒋介石勢力に工作を仕掛ける。党内の分裂・離反を招き、親日政権を樹立させるためである。この構想は事変勃発から間もない1937年9月末の時点で既に完成しており、いよいよ実行に移された。1938年2月、国民党政府重鎮の高宗式の命を受けた菫道寧が極秘裏に来日。参謀本部第八課長の影佐禎昭と密談を行った。ここで日本側は国民党内に和平を望むグループがいる事を知る。彼らに調略を仕掛け、内部からの切り崩しを図った。その結果、党内のナンバー2こと汪兆銘(おうちょうめい)副総統を離反させる事に成功。1938年12月に重慶から脱出させ、同月29日にハノイで日本との和平を呼びかけた。しかしこれに従う勢力が無かったため、当初の目的である新政府樹立へと舵を切る。1939年4月まで構想を練り、5月末には来日して日本側と意見交換を行った。そして1940年3月30日、かつての首都だった南京に招きいれ、親日の汪兆銘政権が樹立された。
汪兆銘は若かりし頃に日本に留学した事があった。故に思うところがあったのか支那事変が勃発した後も、徹底抗戦を訴える蒋介石に反対して和平を主張していた。加えて党内ナンバー2の地位にいながら反蒋介石グループのリーダーという微妙な立場にいたという。汪は日本政府と密約を交わし、最終的には大陸から撤兵する約束を取り付けた。帝國海軍もまた「蒋介石政権打倒後、親日政権を樹立するため南京を攻略」「陸軍が攻略した拠点を返還すべき」と汪が目指す和平案に同調する動きを見せた。ところが近衛内閣の解散により白紙化。落胆しているところに日本側の工作を受け、南京国民政府の樹立に至った。
日本の支援により、1940年3月30日に南京を首都に定めた汪兆銘政権(中華民国南京国民政府)が樹立。領土は日本が占領していた江蘇省、安徽省、浙江省北部であった。南京は未だ戦闘の爪痕が残っていて再建の途上であり、誕生したばかりの政権は上海を重要な拠点として見据えた。ちなみに南京では逃げ出していた住民が次第に戻ってきており、人口は増加傾向にあった。国民党政府との和平を望む日本側は刺激しないよう汪兆銘政権の国家承認を保留し、11月20日に結ばれた日中基本条約でようやく国家承認。横浜に大使館を設置した。だが米英は汪兆銘政権を日本の道具だとして公然と非難した。
1941年7月、日本と同盟を結んでいたドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、クロアチア独立国、スロバキア、中立国のスペイン、タイ王国、デンマークが国家承認。11月25日に反コミンテルン協定に調印した。一方で連合国は正統な国家と認めておらず、国民党政府のみが正しい政権と否認している。親枢軸の立場にあるはずのヴィシーフランスも圧力に屈せず国家承認をしていない。12月8日に行われた真珠湾攻撃により日本は第二次世界大戦へと参戦するが、当初汪兆銘政権は準備が整っていないなどの理由で参加せず。日本から九四式軽装甲車18輌、装甲車20輌、オートバイ24台、野砲31門を受領して軍備の増強に励んだ。汪兆銘政権下で生活していた人々は日本本土より物資に恵まれていて、マッチ、米、コーヒー、紅茶、酒といったものが簡単に手に入った。しかし日本が本格的に参戦してからは次第に物価が上昇し、上海では11倍もの価格が付けられていた。また日本が掲げる大東亜共栄圏は東南アジアから白人を追い出す事を目的の一つとしていたが、汪兆銘政権下ではドイツやイタリアといった欧州の国々と同盟を結んでいる事から白人というより米英に対するプロパガンダ戦を行っていた。
1942年に日本とバチカン市国が国交を樹立すると、そのバチカンと同盟関係にあるイタリアは汪兆銘政権に特使を派遣するよう圧力をかけるも失敗。代わりにカトリック教徒が非公式の訪問を行う事で決着した。ちなみにバチカンは国民党政府の領土から得られる収入を優先し、汪兆銘政権を国家承認しなかった。
1943年1月9日、汪兆銘政権は米英に対して宣戦布告。同時に日本と「借地返還及び治外法権撤廃条約」を締結し、同盟国イタリアとヴィシーフランスが中国国内の租界の返還と治外法権の撤廃を宣言。かつて中国が結ばされた不平等条約の解消や不当に切り取られた失地が回復する事となった。11月5日から翌6日にかけて東京で行われた大東亜会議に政権代表として汪兆銘が招聘されている。
汪兆銘政権が持つ軍隊は、主に後方地域での治安維持や警備任務を担っていた。中国国内では共産系ゲリラの跳梁が激しく、また汪兆銘が元々中国共産党と敵対していた国民党にいた事もあって積極的に日本軍とゲリラ狩りを行った。農村部から共産主義者を根絶するための作戦を独自に行い、疑いのある人物を逮捕または処刑した。時には相容れない国民党軍と協力して共産主義者を討伐するなど奇妙な関係が築かれていた。軍の募集には地元の農民が応募し、5000人ほどが参加。政権支持者の地主から見返りにお金や食糧が渡された。これが意外と効いていたようで、ゲリラに加わる農民の数が減ったという。
戦況は次第に悪化し、首相の汪兆銘も病気に蝕まれるようになった。治療のため名古屋市内の病院に入院するも、治療の甲斐なく1944年11月10日に病没。政権は求心力を失い、緩やかに瓦解を始めた。そして1945年8月15日に大日本帝國が降伏。後ろ盾を失った汪兆銘政権は崩壊し、消滅した。現在の中国にとって汪兆銘政権は黒歴史のようで、「偽政府」と断じている。
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