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沖縄戦単語

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調べものなどの参考にはなりますが絶対的に内容が不足しています。
加筆、訂正などをして下さる協者をめています。

ただし既にこの記事の方が総務省の「全戦災史実調報告書」より詳細です。

沖縄戦とは、太平洋戦争/大東亜戦争における沖縄戦場にした日本軍と連合軍(ほとんどアメリカ軍、一部イギリス軍)の戦闘である。

本記事での日付について

この記事では、年を省略した日付は特に断りがければ1945年す。

概要

狭義では1945年3月1日沖縄爆撃3月23日沖縄爆撃3月27日の慶良間諸米軍上陸、4月1日沖縄本島米軍上陸から6月23日牛島満自決によって沖縄日本軍の組織的抵抗が終了した期間をす。ただし、それ以前に起きた1944年8月22日対馬丸撃沈や、1944年10月10日沖縄襲を含めることも多く、降伏調印式は9月7日である。

沖縄戦のあまりの惨状は「の暴」「暴風雨」「ありったけの地獄を集めた」と言われるようになった。米国原爆投下正当化論では沖縄戦の犠牲の多さを根拠の一つにしている。

連合軍側の作戦名は「アイスバーグ(氷山)作戦

なお沖縄戦の特徴を表す端的な表現として戦後長らく「一の地上戦」が使われてきたが、正確な表現ではない。現在日本領でないが当時は日本領であった北海道占守における「占守島の戦い」や樺太全域における「樺太の戦い」があり、また現在日本領である東京都硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるからである。このため「一の地上戦」という認識は必ずしも正確ではない。

カイロ会談、両軍の準備

194311月22日エジプト首都カイロに連合軍の首が集まって会談を行った。この時、ルーズベルト大統領チャーチル首相が対日戦の打ち合わせをし、インド洋と中部太平洋の二方面から協同攻撃を実施すると約束した。

しかし1944年に入ると連合軍の侵攻や作戦較的く進んだため、カイロ会談で定めた計画に修正を加える必要が出てきた。再検討の結果、台湾攻略して日本本土攻撃の足がかりにする「土手作戦」が採用され、統合参謀本部は同年3月チェスター・ニミッツ提督1945年初頭を途に実施できるよう準備をめた。しかしバックナー陸軍中将は「太平洋で使用できる補給部隊と支援部隊が不足している」として作戦中止を進言。これに太平洋地域陸軍部隊ミラード・F・ハーモン中将と、参謀本部のアーネスト・J・キング元帥が同調。土手作戦は中止となり、代わりに攻略標となったのがルソンと硫黄島、そして沖縄であった。

沖縄本島は、連合軍にとっても魅的なであった。日本本土をすにはどうしても邪魔になるが、もし奪取に成功すれば日本本土のと鼻の先で攻撃軍の訓練が可できる優れた基地を得られる。また沖縄と本土の距離は短く、爆撃機を飛ばすには打ってつけの立地だった。おまけに艦隊の停泊が可な中湾と武湾まで付いてくる。まさに喉から手が出るほど欲しいだったのだ。

迎え撃つ日本側も沖縄の重要性は理解していた。1944年3月陸軍は沖縄防衛を担う第32軍を創設。中国大陸朝鮮日本本土から兵がかき集められ、翌4月沖縄本島と周辺の々へ派遣された。あ号作戦に伴って内地からタウイタウイ泊地に向かう軍艦に兵や物資を載せ、緊急輸送を実施。まず最初に精鋭の第9師団が到着し、第32軍の中核に据えられた(しかし第9師団は後に生起したレイテの戦いに抽出され、その埋めはされなかった)。6月には九州で編成された独立混成第44団が沖縄派遣されたが、中で潜水艦撃に遭い、4000名近くが戦死。生存600名程度のみが的地に到着する有様だった。損失を埋めすべく、独立混成第15連隊が輸された。続いて沖縄に配備されたのは、満州に駐屯していた第24師団であった。訓練は充分に行われていたが未だ実戦は経験しておらず、また太平洋々の戦を増強するために何度も戦の抽出が行われていて、抜きとなっていた。それでも第24師団は第32軍の最大戦で、本土から細々と増援が送られて沖縄戦までに定数を満たした。

疎開、対馬丸撃沈

1944年7月7日サイパン守備隊が玉砕すると南西諸での戦闘が確実となってきた。

日本政府は緊急閣議を開き、南西諸の老幼婦女子10万人の疎開を決定し泉守紀沖縄県知事へ示した。戦闘及び労働がある壮年、警防団、医師の疎開は原則として認めなかった。

もっとも知事自身が疎開に消極的だったこと、複数の飛行場建設に県民が動員され人手不足だったこと、家族が離ればなれになること、内地での生活することの不安があること、日本が南西諸の制権を失っていたことは沖縄県民でも知れ渡っており上の方が危険だと疎開をう者が多かったことにより疎開はあまり進まなかった。

そうした最中に1944年8月22日九州へ向かっていた学童疎開船「対馬丸」がトカラ悪石島付近で米軍魚雷により撃沈してしまう。乗船者1661人のうち、1484人が死亡した。「対馬丸」撃沈は沖縄県民を含む日本国民には秘密にされた。後の10・10襲で沖縄県にいても危険だと実感した県民が増え、以降は疎開が増加した。

9月15日米軍がペリリューとモロタイに上陸。これを機に大本営は台湾沖縄小笠原のいずれかに連合軍が1945年までに襲来すると判断し、準備を急いだ。

10・10空襲(十・十空襲)

1944年10月10日に南西諸各地、特に沖縄本島都市、飛行場、港湾とが5回にわたって米海軍艦載機による襲を受けた。この襲により非戦闘員を含む少なくとも668人が死亡、旧那覇市では90屋が焼失するなど大きな被害が出た。ちなみに首里城は当時の那覇市に含まれていなかったので、被害を免れている。

米軍は同時に地上写真を撮影して後の上陸戦に向けて情報収集も行ったようである。

1971年に復活した那覇大綱挽の開催日は体育の日に合わせたのではなく10・10襲の日に合わせたものである。

日本軍の戦備

大本営は、沖縄での戦いは地戦になると考えていたため、特別強戦車隊は配備しなかった。それでも満州戦車第2師団の一部を抽出し、第27連隊として沖縄に配備。第32軍の揮下に入った。

1944年10月18日アメリカ軍フィリピンレイテ湾に上陸。フィリピンの戦いが生起した。しかしレイテ沖海戦に敗れ、地上での戦いも敗色濃厚となり、フィリピンへ増援を送る事が出来なくなった。そういった増援部隊は沖縄に配置転換となり、砲兵が急に膨れ上がった。こういった砲兵は一第5砲兵師団和田孝助中将揮下に入れ、揮系統の混乱を防いだ。

中将は後方戦の整備にも注した。住民から志願を募って戦を集め、防衛隊を編成。兵は1万7000名から2万名と言われている。彼らは陸軍の下で訓練を受け、沖縄戦では陸軍に編入された。沖縄14歳以下の男子青年義勇隊として編成され、鉄血勤皇隊と呼ばれた。彼らは後方の通信隊に配属されたが、一部は前線に駆り出されている。

こうして第32軍は約10万の戦を用意した。内訳は6万7000名の正規兵、約9000名の根拠地隊、そして約2万4000名の沖縄県民であった。

32軍は、アメリカ軍の物量を思い知っていた。このため艦砲射撃の標的になりやすい施設や防御地は内陸に配置し、海岸線は放棄。敵を内陸に引きつけてから反撃する戦法が採られた。この戦法は少し前の硫黄島攻防戦で栗林中将が実践し、連合軍に多大な出血を強いていた。また沖縄の墓は地下に造られる文化を利用し、即席の防壕とした。加えて中に狙撃兵を配置。沖縄の地形は、守る側に有利だった。防御に適した地形には次々に地が作られ、各砲兵地が連絡し合えるよう地下道が四方八方に伸びていた。天然と人工の障物を巧みに使い分け、撃しやすい場所にアメリカ軍が来るよう工夫された。洞窟の入り口には機関銃、重、迫撃、野が配置され、それぞれが全に統率されていた。大きな洞窟には病院や兵営、戦闘揮所が置かれ、襲や艦砲射撃から身を守る防として機。戦の大半は南部に集中配備されたが、北部は手薄だった。嘉手納飛行場や読飛行場などを防衛するだけの戦がなく、北部一帯は切り捨てる予定だったのだ。アメリカ軍は飛行場を占領するだろうから、その妨のために150mmが飛行場を睨んでいた。アメリカ軍の上陸をいちく察知すべく、内陸の各所に特設の偵察隊を配置。士気を鼓舞するために中将スローガンを制定。「1機で1艦を」「1艇で1船を」「一人十殺」などが作られた。

32軍の底的な戦闘準備及び配置転換は、アメリカ軍にも伝わっていた。後方部隊にまで不安が広がり、一部の兵が不安を日記っている。

1945年1月3日と翌4日、22日に、機動部隊による襲が発生。爆撃12時間に及んだ。また潜水艦や敵艦が沖縄周辺で遊し、日本本土との連絡は断たれつつあった。2月中旬頃にはもう全に孤立してしまった。上陸の時が迫っているのは、にも明らかだった。

アメリカ軍の戦備

作戦揮を執るニミッツ提督は、1944年10月25日に氷山作戦の計画書を各指揮官に配布。統合参謀本部は、この作戦のために55万の戦を動員。これは史上最大の作戦と呼ばれたノルマンディ上陸より多い兵数であった。支援を担当するスプルーアン提督率いる第5艦隊は装を含め空母40隻以上、戦艦18隻、駆逐艦200隻、その他数に及ぶ補助艦艇を保有していた。上陸を担当するのはバックナー陸軍中将が率いる第10軍。彼には地の破壊以外にも占領地域の守備も請け負っていた。

アメリカ軍作戦は、まず読と嘉手納飛行場を速やかに占領し、沖縄の制権を奪取する事だった。上陸予定日は1945年3月1日に定められていたが、二週間延期となって15日になった。その後ニミッツ提督によって更に延期され、4月1日にまでずれ込んだ。フィリピン攻略に参加したマッカーサーの艦艇を参加させるかどうかで悩んでいたようである。

氷山作戦に割り当てられた艦艇や兵太平洋に広く分散していたため、第10軍は合同演習が出来なかった。そこで第10軍は訓練に関する導や要綱を出し、各軍団長や師団長が現地で訓練させる手法を採った。参加する部隊はいずれも粒いで、大規模な上陸作戦こそ経験していないものの実戦経験豊富なベテランで占められた。レイの第24軍団やサイパンの第2兵師団は、日本軍掃討の合間に訓練を行った。

沖縄を守備する日本兵の数は当初4万8600名と推定していたが、1945年1月に6万6000名に修正。更に増援が到着しているならば8万7000名に達しているかもしれないと判断した。攻撃してくる日本軍機は3000機を想定し、沖縄には特攻撃艇の部隊が存在している事も把握していた。

沖縄戦

慶良間諸島上陸

1945年3月17日硫黄島が陥落したことにより米軍は本格的に矛先を南西諸へ向けることが出来るようになる。

レイテから77、第7、第96歩兵師団を乗せた輸送船団が出航。時同じくしてガダルカナルとパブブで第3兵師団が乗船し、前進拠点のウルシーへと向かう。ここで大破したエセックス級空母フランクリン撃し、兵員は一様に不安を抱いた。3月25日ウルシーを出発し沖縄方面へと向かった。

3月23日~24日に米軍襲と艦砲射撃で慶良間諸を攻撃。26日には座間味、慶留間に上陸したが、ここで日本軍の最初の反撃が行われた。先から飛び立った第8飛行師団が同日未明に特攻を仕掛けてきた。すかさずイギリス艦隊が先を攻撃し、飛行場を使用不能にして化した。沖縄本島からも3回に渡って特攻機が飛来したが、連絡機や練習機まで使った理な特攻だったため、29日に沖縄航空は消滅した。だが連合軍に与えた損も意外と大きく、旗艦インディアナポリスを含む6隻が損傷。10隻が特攻機の至近突入で損傷し、2隻が触で沈没した。しかし作戦を遅らせる程度の影は与えられなかった。

3月27日、第77歩兵師団が渡嘉敷に上陸した。内にあった350隻の特攻艇が破壊・放置されていたという。慶良間列は特攻艇の秘密基地で、輸送船を攻撃する任務が与えられていたが、アメリカ軍の不意の上陸により役割を果たす前に失陥した。同地には975名の日本兵がいたが、戦闘を持っていたのは特攻艇の乗員である約300名程度であった。抵抗は少なく、あっと言う間に三島が占領された。兵の戦死者は31名、負傷者81名。対する日本兵は530名が戦死、捕虜は121名以上、住民も195名以上が捕まった。逃げ延びた部隊は第32軍と連絡を取り合っていたが、やがて全滅するか捕縛された。

座間味では135人、慶留間では数十人、屋嘉では約10人、渡嘉敷では330人が強制集団死・集団自決に追い込まれた。集団自決の原因としては「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦訓に代表される日本政府・軍の戦訓で降伏よりも死を選ぶ者が多かったこと、降伏した後に日本が勝ったらスパイとされてしまう恐れがあったことが挙げられるが、軍による強制もあったという言もある。

3月31日、占領された慶良間諸155mm、通称ロングトムが揚陸され、沖縄本島への撃準備を開始した。第10軍の上陸支援のために事前撃を加える予定だったが、第32軍は巧妙に戦を隠していて、撃する相手が見つからなかった。結局、日本軍の配置が分かったのは本上陸後の事だった。

沖縄本島へ上陸

4月1日午前4時6分、ターナー中将は上陸を命。一斉に上陸艇や輸送船が動き始めた。明けを迎えた頃、特攻機が飛来。輸送船ヒンスデールと戦車揚陸船が突入を受け、爆発。戦死者7名と37名の負傷者、8名の行方不明者を出した。これが沖縄戦初の兵の戦死者である。他にも戦艦ウェストバージニアやその他艦艇に損を与えている。

アメリカ軍戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、慶ロングトムに猛な援護射撃を行わせ、沖縄本島西海にある読谷村渡具知へ上陸。しかし地上での持久戦に持ち込む方針だった日本軍は散発的な反撃しか行わなかった。慶に対する撃と、上陸部隊の作業を妨するため4時間の射撃を加えた程度だった。このためアメリカ軍ど損を受けずに上陸を遂行。その日のうちに読・嘉手納の両飛行場を占領した。あまりにすんなり上陸できたことから米軍兵士は「エイプリルフールか?」と不思議がったという。

4月2日午前7時30分、上陸したアメリカ軍第10軍は前進を開始。快晴で、命じられた施設の占領をして進軍を続ける。相変わらず日本軍の抵抗は少ない。だが、進んでいくたびに抵抗が強くなっていく。最初に第10軍の前に立ちふさがったのは、住民からなる防衛隊であった。当然ながら錬度は低く、900名以上が戦死。26名を捕虜となった。アメリカ軍は捕虜から情報を聞き出そうとしたが、「日本軍は南へ移動した」という事くらいしか分からなかった。この日のうちに第7歩兵師団第17連隊が、中湾を見下ろす高地を占領した。

4月3日には米軍沖縄本島東海湾に達し、日本軍は南北に分断された。しかし速過ぎる進軍は補給計画に狂いが生じ、補給部隊が四苦八苦。また第32所在は未だ掴めず、言い知れぬ不安が兵の間に広がっていた。不気味な沈黙を保ち続ける日本軍。対する第10軍の部隊は南北に分かれ、進撃を再開。地を制圧しつつ、要所を占領していった。あまりの好調っぷりにアメリカ軍作戦スケジュールを切り上げ、兵士の間にも楽観ムードが漂い始めた。

4月5日には軍軍政府布告第1号「権限の停止」(通称「ニミッツ布告」)を布し、米軍占領地の沖縄住民に対して日本行政権が停止されたことを通告し軍政を敷いた。

北部の戦い

沖縄北部の攻撃を担当していたのは第6兵師団であった。戦車を保有していた同師団は10日間で40km以上を踏破。人工・天然の障を物ともせず強行軍を続けた。元々手薄だっただけに日本兵の攻撃は少なく、4月13日には辺土岬を占領。しかし本部(もとべ)半島八重岳には日本兵1500名が配備されており、また第6兵師団は戦配置を把握していなかった。八重岳を守るのは大佐率いる守備隊であった。高所を押さえて地の利を得、さらに複数の防御地を構築していた土隊は巧みに戦配置がなされていた。第6兵師団の攻撃をよく押さえ、進撃の足を遅らせた。開けた土地には狙撃兵を配置し、海兵隊の将校が来るまで耐強く待った。そして多くの将校を餌食にした。

しかし英語を話せる沖縄県民を捕虜にした事で、第6兵師団に土隊の配置がバレてしまう。さっそく4月14日八重岳への攻撃が開始される。高所から日本兵が機関銃や迫撃を放つが、兵の動きは鈍らなかった。しい地争奪戦の末、4月15日の時点で1120名以上の日本軍将兵が戦死。残りは洞窟内に閉じ込められた。翌16日、兵が八重岳の山頂に到達。土隊の反撃を退け、掃討戦に移行した。八重岳を越えた兵は北方日本軍を討伐し、4月20日沖縄北端へ到達。シェファード師団長は北部の組織的抵抗は終わったと宣言し、北部はアメリカ軍の手に落ちた。第6兵師団の戦死者は207名、負傷者757名、行方不明者6名を出し、日本側は2000名以上の戦死者を出した。その大半は地を堅持しようとした頑強な者たちだったと言われている。

への攻撃は4月16日明に開始された。しい上陸支援撃が行われ、同日中アメリカ軍が上陸した。上陸当初の抵抗は少なかったが、突然日本軍の抵抗が強くなる。洞窟や墓に隠れて持久戦を狙う日本兵は屈強で、1mを争う戦が展開された。には7000名の日本兵がいたが、これまた巧みに隠されていてアメリカ軍は戦を過小評価していた。4月19日日本軍の本がある山で戦闘が始まる。当然ながら日本軍は高所にり、本へと続くを見下ろせる位置に展開していた。攻撃を担当した第77歩兵師団は出血を強いられ、戦死者239名と負傷者879名という沖縄戦初の大損をこうむった。一連の戦いで有名な従軍記者アーニーパイルも機関銃に撃たれて戦死している。しかし日本側も4706名が戦死し、149名が捕虜となった。4月21日アメリカ軍山の陥落によってを占領したと発表。向こう4日間は敗残兵狩りが行われた。

北部の要衝を制圧したことでアメリカ軍沖縄本島南部攻略に専念できるようになった。ちなみにの飛行場は日本兵に破壊されていた。

東部の戦い

第6兵師団が北方へ進撃している頃、第1兵師団は頭堡からの中央部を通って東進していた。

4月6日に勝連半島に達し、藪知(やぶち)を占領した。あまり抵抗を受けなかった第1兵師団は、相手をめて後方に放置してきた日本軍拠点を潰して回った。日本軍は、沈黙を続けている。第32軍の部がある首里地区は曇天に覆われる日が多く、アメリカ軍の上偵察から戦を隠し続けていた。おかげで未だ防衛線の実情を把握できずにいた。

同じく4月6日午前2時、第10軍は武湾の占領を掲げて侵攻を開始した。第32軍ががいるであろう南部との戦いに備え、後顧の憂いを断つ必要が出てきたのである。湾内にある6つの小島を占領すべく、海兵隊が上陸してきたが、すかさず日本軍が反撃。迫撃機関銃の猛攻を受けて、海兵隊は撃退された。別のでも上陸作戦が開始され、4月10日午前8時40分に第27歩兵師団第105連隊第3大隊がに上陸。事前しい爆撃を加えていたにも関わらず、元気な日本軍が迎撃した。になっても戦闘は終わらず、第3大隊は大損を負って撃退された。しかし4月11日午後3時30分頃には組織的抵抗は終わり、を失陥。武湾を支配下に置いたアメリカ軍は、良好な艦隊停泊地を獲得。更に中湾への足がかりをも得た。

南部の戦い

32が控える南部への攻撃は、ホッジ陸軍少将率いる第24軍団が担当した。

南進して数日が経つと、日本軍の強固な防衛網が姿を現した。進軍を阻まれた第24軍団は、4月7日支援を受ける。戦艦ニューヨーク航空攻撃、四個砲兵大隊が攻撃を加えたが、嘉数にすら到達できない。翌8日と9日は荒となり、しいに紛れて日本軍の少数り込み攻撃が行われた。矢面に立たされた96歩兵師団は、ところどころで撃退される。4月10日にもと陸から援護射撃を受けたが、それでも日没までに300mしか前進できなかった。

4月12日、13日、14日の深夜日本軍が第24軍団に突撃を仕掛けたが、機関銃や迫撃で1548名の戦死者を出した。何とか猛攻をいだ第24軍団だったが、首里の防衛線の強固さと砲兵の不足から手詰まりになりつつあった。ホッジ少将海兵隊砲兵を抽出し、4月19日を総攻撃の日に定めて準備撃を開始した。更に航空隊は482トン爆弾3400発のロケット弾、70万発をえる機関銃日本軍地に浴びせた。4月19日午前6時、予定通り総攻撃を実施。27個大隊の砲兵が、ありとあらゆる火を使って猛攻を仕掛け、更に火力支援として357機の航空機全な統率のもと攻撃に加わった。この恐るべき弾のに、アメリカ軍日本兵の全滅を確信した。しかし、実際にはど損を与えられていなかった。彼らは強固な洞窟に守られていたのである。楽観的に進軍を再開した兵は、猛な機掃射を受けて現実を認識する羽になる。進軍の足は全に止まった。

嘉数高地の攻略は第24軍団の標であったが、こちらも日本軍の猛攻で行き詰まっていた。そこで第24軍団はシャーマン戦車30輌による支援を受け、強引に突破しようと試みた。ところが日本軍に先読みされ、正確な射撃と自爆攻撃で22輌が撃破される大損をこうむって撃退された。何とか添村の西端まで達したアメリカ軍であったが、嘉数には全く手が出せなかった。一方、第32軍は4月23日と翌24日の間にこっそりと退却を開始。これは戦線を整理したい中将の判断だったとされる。日本軍が後退した事で、ようやく嘉数を占領できたアメリカ軍であった。あまりにも損が大きかったため、第27歩兵師団は後退。代わりに第1兵師団が送られた。

日本軍の反撃

藤岡中将率いる第62師団は、アメリカ軍の猛爆によく耐えて戦線を維持していた。4月末までに戦が半減したが、それでも士気は旺盛だった。後方にはまだ第24師団独立混成第44団の残存戦、第5砲兵団などが温存されていて、相当な戦を保持していたからだ。これに伴って第32軍内で反撃・攻勢を望むが大きくなり、南東地区への米軍上陸を警して置いておいた第24師団と第44団を首里地区に移動させた。そしてアメリカ軍の先鋒である第24軍と、普天間にあるとされる第10軍の部粉砕を企図した。

5月4日日本軍添・西原米軍へ総攻撃を仕掛ける。同時に米軍の側面を突くべく、逆上陸も試みられた。総攻撃に呼応して神風特攻隊による攻撃も行われ、合いでも戦闘が開始された。巡洋艦バーミンガム空母サンガモン、駆逐艦2隻、掃海艇1隻、機敷設艦1隻が損傷し、米海軍は戦死者91名と負傷者280名、行方不明283名の損を出した。午前4時30分、第24軍団に向けて数千発に及ぶ迫撃が放たれ、日本兵が一挙に突撃。ところが艦砲射撃や航空攻撃、砲兵16個大隊の逆襲により敗退。逆上陸を試みた別働隊も壊滅させられ、全線で攻勢に失敗した日本は約5000人、米軍700人が戦死した。この時、戦死した日本兵はベテランいで、兵75%を喪失。砲兵の数は半減し、火59門は全て失われた。以降、アメリカ軍に有効な火力を浴びせられなくなる。

総攻撃が失敗した後、日本軍牛島満官率いる第32部が首里城地下に掘った壕で持久戦の構え、大田少将率いる沖縄方面根拠地隊が小地区に掘った壕に籠もることにした。長参謀長は「この沖縄作戦の成功についてのあらゆる希望が消えた。が第32軍の敗北は時間の問題である」と述べた。

アメリカ軍、首里に迫る

米軍は第1兵師団を先頭にし、首里をす。対する日本軍は勢理客(じちゃく)、内間(うちま)から沢岻(たくし)の間、安波(あわちゃ)に防衛線を敷いて迎撃。5月6日、まず第1兵師団はが降りしきる中、沢岻の突破を試みたが、正面と側面から撃を受けて失敗した。安波攻略には第5兵連隊が投入されたが、砲兵支援下にあったにも関わらず第32軍の頑強な防御にぶつかって前進が困難となっていた。困ったアメリカ軍火炎放射器と爆破班を使い、一つずつ地を潰していったが、それでも遅々として進まなかった。

5月8日、遠く離れたヨーロッパナチスドイツが降伏。欧州戦線は終結し、戦勝パレードが行われていた。沖縄を攻囲する連合軍艦隊も礼を撃ったり、甲上で喜んだりしていた。しかし最前線にはそんな余裕はかった。両軍とも、冷たいに打たれながらの前の戦闘に死を尽くしていた。「ドイツが降伏したのに何故日本は戦い続けるのか」という疑問が兵の間に広がり、厭戦気分が染まっていく。

5月9日、再び安波に第1兵師団が突撃。緒戦はアメリカ軍が制し、深くにまで侵攻したが、やがて側面から日本軍撃を受けて停止。その日のにはり込み攻撃まで行われ、凄まじい兵戦が行われた。かろうじて機関銃で撃退し、翌10日午前8時に前進を再開した。沢岻への攻撃も続行されたが、日本軍の猛反撃により第5兵連隊の損は見る見るうちに増加。多大な対価を払い、砲兵戦車と火炎放射の支援でようやく安波中心部を制圧した。5月11日頃には安波全域が占領された。13日には沢岻も失陥し、第32軍の防御の一が崩れた。

5月14日午前5時30分、第10軍は一斉に火を放った。首里に通じる東西のを確保し、部のある首里城を制圧するためである。部近隣だけあって日本軍の反撃もしく、体当たり攻撃でシャーマン戦車16輌が破壊された。少し前の5月12日からは首里城西方の最終防衛ラインで、シュガーローフの戦いが生起。わずか20mの小高い丘を巡り、日双方が戦を繰り広げた。日本軍シュガーローフ、南側のホースシュア、東側のハーフムーンに5000名の兵を置き、また地下にトンネルを作って輸送や連絡が容易になるよう工夫していた。突破をアメリカ軍だったが、身を隠す所が地で十字火を受け、大損を受ける。血で血を洗う攻防戦の末、18日頃にシュガーローフは占領された。しかしハーフムーンの戦徹底抗戦を続け、更なる出血を強いた。同日中安里米軍の手に落ちた。シュガーローフの失陥により、官は5月22日に摩文仁方面への撤退を決定する。

首里放棄については軍幹部の中でも意見が分かれたようで、第62団長藤岡武雄中将も反対を表明した。数千の重傷者を放置するのはびないのと、軍が南へ撤退すれば市民が巻き込まれる事がな理由だった。しかし中将は諸々の反対意見を却下し、南部への撤退を強行した。

5月23日深夜、撤退する部隊が密かに首里を離れた。運べる負傷者と医薬品も一緒に持ち出された。翌24日には歩ける負傷者が撤退を開始。重傷者はモルヒネ注射されるか、あるいは放置されて苦しんだ末に死んでいった。5月29日包囲網が狭まる中で隊が撤退。翌30日の明けには大部分が脱出した。

首里の失陥

アメリカ軍が首里に近付くにつれ、が悪化。5月21日頃から降り始めたは長となり、第1兵師団の進撃速度は衰えた。地面がぬかるみ、首里の東方から攻めていた第24軍団も行動不能に陥る。まるでが第32軍に味方しているかのようだった。しかし翌22日に、大里(おざと)高地が米軍に占領され、旧那覇市地への侵入を許してしまった。

5月28日、第32が撤退した首里に突入、5月31には握した。この時、カロライナ出身の兵士の上には星条旗ではなく南部連邦の旗を掲げて少し問題になっている。ちなみにバックナー少将率いる部隊が首里城全に包囲していたが、に紛れて第32部は脱出に成功している。

首里の失陥によって沖縄戦は一つの節を迎えた。6万2548名の日本兵が戦死し、465名が捕虜となった。米軍の死者は5309名、負傷者2万3909名、行方不明者は346名だった。

末期戦

6月1日アメリカ軍の第6兵師団は小半島に対する上陸準備を開始した。小には帝國海軍の拠点があり、大田少将率いる守備隊が展開していた。偵察の結果、小日本軍は脆弱だと判定された。6月4日、小日本軍地に対し熾撃が行われた。75mm野から36cm弾まで4200発以上の弾が撃ち込まれた。午前6時、72隻の上陸用舟艇に分乗し、海兵隊員が上陸した。日本軍の抵抗は、散発的な機関銃掃射程度だった。アメリカ軍は三個大隊で包囲を開始。勢いづいた米軍は進撃速度を速めたが、険しい地形に阻まれて動けなくなる。そこへ大量の機関銃で武装した日本兵が逆襲に転じ、双方に甚大な被害が及んだ。6月6日大田少将東京別電を送った。翌7日、第6兵師団が日本海軍部壕を攻めるが日本軍は耐えきった。米軍シェファード少将は南・南東からの攻撃に作戦を切り替え6月10日~11日に総攻撃、死地に追いやられた日本軍は猛反撃し米軍へ首里戦線以上の損を与えるも、6月13日大田少将らが自決し決着した。

6月11日付でに官はサイモン・ボリヴァーバックナー中将から降伏勧告を受けるも黙殺。6月18日バックナー中将栄里で戦死(1954年大将に昇進)、狙撃されたとも弾の破片を浴びたとも諸説ある。2016年現在米軍史上において最高位の階級での戦死である。6月23日官、長勇参謀長が摩文仁で自決。これによって日本軍の組織的戦闘は終結した。この6月23日は後に沖縄県で「慰霊の日」となった。

残念なことに沖縄戦全体の民間人の犠牲は日本軍敗北の戦局が決定的になった首里陥落以降の方が多い。日本軍民間人を守る余裕がいこと、軍に付いていった方が安全だと信じた住民が多かったこと、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦訓に代表される日本政府・軍の戦訓で降伏よりも死を選ぶ者が多かったこと、事前の疎開が追いつかなかったこと、官ら現地軍も東京日本政府・大本営も徹底抗戦にこだわったこと、バックナー中将も強硬すぎたこと、バックナー中将戦死で海兵隊暴走差別虐殺に走ったこと、などが原因と考えられる。

官が徹底抗戦すべきと解釈できる命自決直前に出したこともあり、この後も散発的な戦闘は続いた。

7月2日米軍沖縄作戦の終了を宣言。

日本軍の武器弾薬米軍からの補給路の遮断により、最初から乏しく、軍人も民間人も壕や洞窟(ガマ)、甲墓(本土の墓と違い内部に広い間がある)に隠れてにこっそり外へ出る生活を余儀なくされた。に外へ出る者はが必要だった。そうしないと死体を踏んでしまうからである。闊に外へ出られないため壕などの中は排物の処理も出来ず死体の埋葬すら困難なため衛生状態は悪く悪臭がきつかったという。

兵も甲墓には手を焼き「墓と戦争をしているようだ」と言わしめた。対処に困った米軍は壕や洞窟爆薬ガソリンを投げ入れ、火炎放射器で焼き、出てきた人間差別に射殺する戦術に出た。沖縄の人々はこれを乗り戦法と恐れた。

ひめゆり学徒隊

沖縄県立第一高等女学校沖縄模範学校女子部から生徒222人・教師18人が南風原の沖縄陸軍病院へ動員された。

沖縄県立第一高等女学校には校友会誌「」、沖縄模範学校女子部は校友会誌「百合」があり、二つの校友会誌が統一された際に「百合」と名付けられた事に由来して「百合学徒隊」と呼ばれた(平仮名表記が流になったのは戦後)。

首里放棄後は軍と共に摩文仁へ南下。6月18日に解散命が出るが、その後の戦闘自決により最終的に動員されたうち生徒123人、教師13人が死亡した。

伊江島上陸

には日本軍2700人(うち約1000人はから招集)、住民は外避難した約3000人を除いて約3000人がいた。

4月16日米軍が上陸し、4月18日にピューリッツァー賞受賞者の従軍記者アーニーパイル氏が日本兵に狙撃され戦死。4月21日には米軍が制圧。

米軍によれば日本兵を4706人殺したつもりが軍服を着た民間人だったというケースがあまりにも多く、1500人をえたという。

建物は質屋だけを残し全て破壊された。その質屋は弾だらけのまま現在も残っている。

犠牲者数

人口約59万人(1944年;後の県外疎開で沖縄戦開始時には42万~50万人に減っていたはずである)の沖縄県日本軍11万6400人(沖縄出身含む)と米軍548000人が交戦した。犠牲者数は沖縄県援護課によれば20万0656人(日本18万8136人、うち沖縄県出身者12万2228人(一般人9万4000人、軍人・軍属28,228人)、他都道府県出身兵 6万5908人、アメリカ1万2520人)だが、ここでは戦病死や餓死が含まれていないようである。沖縄県平和祈念公園内「平和の礎」には籍問わず24万1336人(2015年6月23日現在)の戦死者の名前が刻まれている(ただしこれは満州事変から終戦までの沖縄県出身戦死者を含んでいる)。

戦艦大和撃沈

詳細は戦艦大和の記事参照。

大和沖縄に乗りあげて台としてアメリカを迎え撃つ」天一作戦として4月6日戦艦大和沖縄へ向けて徳山港を出港するが、途中の坊ノ岬米海軍58任務部隊の艦載機による猛攻撃を受け撃沈した。

日本側の戦死者は伊藤整一中将(死後、大将)、有賀幸作大佐(死後、中将)ら3721人に上った。

アメリカ側は艦載機10機、戦死者12名。

特攻隊の活躍

詳細は神風特攻隊の記事参照。

沖縄戦でも神風特別攻撃隊による攻撃が実行され、米海軍の損の多くは特攻隊によるものが占める結果となった。

戦艦大和と運命を共にした伊藤整一大将息子伊藤中尉沖縄域で特攻作戦で戦死している。

石垣事件

石垣陸軍航空兵捕虜3人が処刑された。関係者は戦後GHQによって戦犯裁判にかけられた。

日本政府が捕虜待遇に関するジュネーヴ条約を批准しなかった結果起きた、双方にとっての悲劇である。

久米島守備隊住民虐殺事件

詳しくは久米島守備隊住民虐殺事件参照。

久米島では6月23日の組織的戦闘終了後、鹿山正兵曹長率いる日本海軍通信隊・守備隊が「降伏勧告書」を持って来た民にスパイ容疑をかけ殺する事件が起きた。最終的に5件の犠牲者だけで22人。一説では29人。

八重山疎開・八重山マラリア

八重山諸に来た日本軍3月頃から軍施設の建設と食糧確保のために各民を石垣北部や西表へ疎開させた。畜は敵の食糧にしないためという名でほとんどが処分されたが、実際には一部が日本軍の食糧として流用された。

当時の石垣北部や西表現在と違ってマラリアの危険が極めて高い土地であった。疎開先で民は次々とマラリア患、抗マラリアも最初から不足していた。帰後もマラリアを持ち込んでしまったことで戦後被害は続いた。農繁期の疎開、事前畜処分による飢餓も重なり八重民は苦しむことになる。

八重山諸全体の人口は約3万人だったが、このうち1万6000人以上がマラリア患し3647人が死亡する大惨事となった。

山下虎雄と自称する軍人の脅迫で西表へ全疎開した波照間出身者は特に犠牲者の割合が多く、民約1500人のうち90%以上がマラリア患、死亡者は477522人にのぼった。西表南風見田には波照間民の強制疎開・マラリア禍の記憶のため「忘石 ハテルマ シキナ」と刻まれた石碑がある。

疎開が軍命によるものかが曖昧だったため、戦後になって国家補償で問題が起きることとなる。

八重山平和祈念館展示問題

1999年石垣に建っている八重平和祈念館の展示内容のうち、沖縄県の要請で「西表への軍命による強制退去」から「避難命」に書き換えられるなど旧日本軍責任が軽くなるような展示へ変えられていたことが判明した。

文化への影響

首里城

首里城は10・10襲の被害は免れた(当時は首里内であり旧那覇市に含まれていない)。しかし日本陸軍第32軍が首里城部を置き5月の攻防戦を繰り広げたことで、首里城だけでなく守門など周辺の史跡も所蔵文化財・工芸品も巻き添えとなり破壊し尽くされた。

1958年に守門が再建、1992年首里城が再建された。

鉄道

詳しくは沖縄県営鉄道の記事参照。

沖縄本島には鉄道路線があったが、全て沖縄戦で破壊され、戦後も復旧しなかった。

2003年に新路線で沖縄都市モノレールゆいレール)が開業した。

音楽

沖縄では戦後になって平和戦争テーマにした曲・歌が多数作られることになる。

泡盛

泡盛作りには発酵過程で麹菌を用いるのだが、戦争で失われてしまった。戦後間もなく佐久本政良氏が泡盛工場跡に埋まっていたニクブク(稲藁のむしろ)から麹菌を取り出し培養することに成功、泡盛作りは復活した。

1998年になって、戦前坂口謹一郎東京大学名誉教授が保管した別の麹菌が発見され、そこからも泡盛が造られるようになった。

遊郭

那覇市には琉球時代から遊郭があった。遊女に相当する尾類(ジュリ)が客を選べるなど、本土とは違う独自の遊郭文化があった。

遊郭は10・10襲で焼失。焼け出された尾類達は従軍慰安婦になる者も多かった。

戦後沖縄独自の遊郭文化はジュリ行列を残すのみでほぼ断絶し、それさえも売の肯定になってしまうとする一部の女性人権団体の反発で中止されたことがある。

沖縄県民斯ク戦エリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

沖縄戦敗北が確実となっていた6月6日大田少将は以下のような電文を軍次官宛に送った。(は不明箇所)

発 沖縄根拠地隊

宛 軍次官

左ノ電次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信ナク二軍部又通信ノ余シトメラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニビズ

之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハド顧ミルニ暇ナカリキ

レドモ本職ノ知レル範囲ニテハ県民ハ壮年ノ全部ヲ防衛召集ニゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ爆撃屋ト財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防壕ニ避難尚爆撃ニ中ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ弾運ビ挺身込隊スラ申出ルモノア

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ牙ニ供セラルベシトテ親子生別レヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄キ重傷者ヲ助ケテニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ作戦ノ大転換アルノ中ニ遠隔地方ノ住居地区ヲセラレ輸送皆無ノ者黙々トシ中ヲ移動スルア

是ヲ要スルニ陸沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハノ悪評ナキニシモアラザルモ)日本人トシテノ御奉ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□与ヘコトナクシテ本戦闘末期沖縄島ハ実情形

一木一焦土ト化セン糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

大田少将6月13日自決、その後中将へ昇進した。

その後の沖縄

捕虜収容所

米軍に捕らえられた住民・日本兵は沖縄各地に設けられた16の収容所に分けられ、ハワイの収容所へ送られた者もいた。

収容所と言っても有刺線で囲まれた区域で、建物は良くてテントだった。食糧・衣服は支給されたが不充分で、飢餓やマラリアで命を失った者も多かった(少なくとも3000人)。

兵による強姦沖縄県民や朝鮮出身者による日本兵への報復リンチも起きた。

戦犯以外は1945年11月~1947年には解放された。

八重山共和国(八重山自治会)

戦後しばらく米軍の上陸がく、政府状態に陥った上に飢餓とマラリアに苦しむ八重地方で、12月15日に有志が自治組織「八重山自治会」を結成し、民主的手続きで会長宮良長詳氏、副会長宮城信範・吉野高善両氏を選出した。

8日後の12月23日八重山へもアメリカ権が及び、米軍政府下の八重支庁発足に伴い八重山自治会は解散した。その支庁長に宮良長詳氏が就くなど自治会の組織が支庁に反映されている事を考慮すれば消滅ではなく組み込まれたという方が近いかもしれない。

自治会に上級政府が(法的にはともかく)事実上存在しない状態が8日間続いたこと、共和政的体制だったことから「八重山共和」とも呼ばれる。

米軍統治(アメリカ世)

散発的な戦闘は続いたものの日本が降伏した8月15日以降は米軍は本格的に沖縄を占領・統治する。アメリカ統治時代、俗に言うアメリカ世である。詳細はアメリカ世の記事参照。

戦争孤児

両親の死亡、生き別れなどにより、疎開帰還者を含めて数千人の戦争孤児が発生した。

遺骨

全ての遺体が埋葬されたとは限らない。現在も沖縄戦の遺が見つかることがある。

不発弾

沖縄県内には2050t~2300tの不発弾が残っていると推定されていて、全て処理するにはあと7080年かかる量である。年に約1000個ほどが見つかっている。

1974年3月2日には那覇市タイ幼稚園近くで起きた爆発で幼児含む4人が死亡した。

沖縄戦の評価

全国戦災史実調査報告書における沖縄戦の扱い

戦災史実調総務省などが社団法人日本戦災遺族会(2010年解散)に委託して1977~2009年度に戦災に関する資料を調・収集したものであるが、沖縄戦はほとんど扱われていない。

2015年にこれを問題視した照屋寛徳衆院議員(沖縄県出身)の質問意書に対して安倍晋三内閣は「行政文書が残っておらず不明」とする答弁書を閣議決定した。沖縄県沖縄開発庁(現内閣府)が担当していたためとされるが、総務省は今後も政府として沖縄戦の調を行う予定はいとしている。

東京新聞:沖縄抜き「全国戦災史」 国の調査、戦後70年行われずexit

強制集団死」か?「集団自決」か?

「強制集団死」という名称については、強制された自殺ではないから「強制」という名称は相応しくないという意見がある。

一方で「自決」というのは責任を取るか意思表示のためのものだから「集団自決」と呼ぶのは相応しくないという意見もある。

岩波書店・大江健三郎訴訟

作家大江三郎著「沖縄ノートexit_nicoichiba」(岩波書店)の記述をめぐって、梅澤裕座間味戦隊長や故赤松嘉次渡嘉敷戦隊長の遺族・赤松秀一氏が大江氏・岩波書店名誉毀損で訴えた。

最高裁まで持ち込まれ、2011年4月22日に原告敗訴が確定した。

教科書検定・沖縄県民大会

岩波書店大江三郎訴訟は2006年度教科書検定へ飛び火し、高校日本史教科書から「軍強制による集団死」という記述が消えた。

これに反発して2007年9月29日に「教科書検定意見撤回をめる」沖縄県民大会が行われた。催者発表では11万6000人(宮古八重山の別会場含む)が集まったとされるが、沖縄県警幹部の話では4万人強しかいなかったとする産経新聞の記事を支持する意見も根強い。

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関連項目

外部リンク

掲示板

  • 31ななしのよっしん

    2019/04/29(月) 21:03:19 ID: QSfqlX41BA

    軍は手抜きしてたってのが否定しきれないのが恐ろしいところ

  • 32ななしのよっしん

    2019/08/02(金) 23:50:21 ID: 11W7tNdv2W

    護郷隊や鉄血勤皇隊の話なんかひえもんばっか

  • 33ななしのよっしん

    2019/09/08(日) 18:34:51 ID: dux5DVsIFK

    >>21
    沖縄にとってはむしろ戦後捨て石だったろうな。沖縄小笠原がいない状態で独立したり、沖縄米軍基地を集中させたりと。

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