沮授とは、三国志に登場する人物である。
冀州広平郡(河北省邯鄲市)の出身。若くして大志を持ち、謀才に優れた。
冀州の別駕から茂才に推挙され県令となる。冀州牧の韓馥に仕え別駕・騎都尉となるが袁紹が冀州を乗っ取ると沮授はそのまま袁紹に仕えた。
沮授は袁紹に、河北の四州(冀州、青州、幽州、并州)を平定して長安にいる献帝を迎え入れ洛陽の宗廟を復興する策を献じる。袁紹はその策を賞賛し、監軍(軍の総司令官)・奮威将軍に任じた。
199年(建安4年)までに袁紹は河北四州を平定し、沮授の功は大きかった。しかし本拠地に献帝を迎え入れる策は郭図や淳于瓊らの反対で退けられる(郭図は賛成したという説もある)。献帝は予州を支配していた曹操に迎え入れられてしまう。
曹操に対する戦略として、田豊や沮授は持久戦を主張したが郭図や審配は短期決戦を主張して、沮授の献策は退けられてしまう。この時郭図が沮授の権限は強大すぎると袁紹に進言したため、監軍の権限は沮授・淳于瓊・郭図の三都督に分割されてしまう。
また、袁紹が長男の袁譚を青州刺史に任じようとすると沮授はこれが禍の始まりであると反対したが聞き入れられなかった。
200年(建安5年)袁紹と曹操が全面対決を迎える直前、沮授は一族に財産を分け与えた。弟の沮宗が曹操は多勢に無勢なのに何を心配するのですかと言うと沮授は答えた。
「曹操は優れた戦略を持ち天子(献帝)を拝戴している。我々は公孫瓚を破ったばかりで疲弊しているのに、将兵も主君は驕っている。此度の戦は敗れるだろう。楊雄(前漢末期の文人)が『六國蚩蚩、為嬴弱姫』(六国がゴタゴタして秦のために周を弱めた)と言ったのが我々にも当てはまる」
袁紹が白馬に駐屯する曹操配下の劉延を攻撃しようとする。沮授がその将が顔良と聞いて「顔良は勇猛ですが性格が偏狭で将の任務に耐えられません」と反対するも聞き入れられなかった。果たして顔良は曹操軍の計略にはまり孤立し、当時曹操の元にいた関羽に首を取られてしまう。
袁紹軍が黄河を渡り延津に向かおうとするが、沮授は病と称して軍の指揮を辞退する。袁紹は怒って沮授の軍勢を郭図に与えた。
やがて曹操が官渡に布陣すると袁紹もこれに対峙する。沮授は曹操軍の兵糧不足を指摘し持久戦を主張するが袁紹は聞き入れなかった。当初優勢だった袁紹軍も、戦線が膠着するにつれ兵站に難を生じ始めたため、烏巣に基地を設け淳于瓊に兵糧の輸送を警備させる。沮授は淳于瓊の援護として蒋奇に別働隊を派遣し警備を万全にするよう進言したがこれも聞き入れられない。
袁紹軍の許攸が曹操に降り、袁紹軍の兵站の重大情報を曹操に伝えた時点で官渡の戦いの勝負は決したも同然だった。烏巣は曹操軍に撃破されこれが元で袁紹軍が総崩れになり撤退、逃げ遅れた沮授は生け捕りにされてしまう。
沮授は曹操と旧知だったため、曹操は沮授を説得し配下にしようとするが沮授は従わなかった。曹操は「もっと早く汝を得ていたら天下を得ていたのに」と嘆じて、そのまま軍中に留め置かれたが、沮授が脱走を計ったためやむなく処刑された。
三国志演義では、曹操は沮授の死を悼み「忠烈沮君之墓」と記した墓を黄河の渡し場に立てている。
なお、沮授には沮鵠という息子がいた。沮鵠は袁紹死後の後継者騒動で三男の袁尚に付き、邯鄲を守備したが防ぎきれず敗れている(演義では張遼に射殺される)。
なぜか田豊とは立場の異なる短期決戦派として登場。田豊の代わりに袁紹の軍師となる。
掲示板
19 ななしのよっしん
2017/04/07(金) 08:59:17 ID: cYI/Gh7WYR
旗揚げ以来の古参で同郷人と、転居先で採用した新参じゃ、心情的に扱いに差が出るのは止むを得ない。
もちろん主君たる者そこは調節してみせなきゃならんわけだが、えこ贔屓は劉備や曹操もやっているので、贔屓したこと自体は袁紹がそこまで非難される理由にはならないな。
まして「軍権が主人を上回る家臣は危険」という主張は、讒言を超えて人類史に共通する難題だったわけで。
20 ななしのよっしん
2017/05/10(水) 18:25:05 ID: RZ7cPVlhmv
沮授って荀彧と程昱が曹操に献帝を迎えるよう進言する二年ぐらい前に袁紹に同じ進言してるんだよね。また、袁紹軍に入った当初はその才覚を買われて総司令官的な地位に抜擢されてるから実際かなり凄い人なんだと思うわ。
あと「人付き合いが苦手なイメージ」ってコメントにあるけど、沮授が厚遇されなかったのは古参幹部の讒言と外様だったから。
21 ななしのよっしん
2017/11/28(火) 09:35:03 ID: LcqhtUrkrq
と言うか沮授は官渡までは袁紹に厚遇されまくってる
史書では郭図に讒言されたという表現がされてるが、沮授の軍権を分割した結果郭図・淳于瓊・沮授がそれぞれ都督になったっつうことは単純に考えるとこの3人は刺史(州群の軍権も持つからどっちかと言うと牧か)と同等の動員力・権力を持ったことになる
こうして見ると郭図の讒言っつうか提言は別に妥当性に欠けるもんじゃないと分かる
沮授一人が後の蜀で言えば漢中に幕府を開いた諸葛亮、呉で言う荊州に幕府を開いた陸遜並みの権勢を持ってたんだから
まぁ沮授を潜在的脅威に育て上げたのは他ならぬ袁紹本人なわけで、それでいながら粛清するでもなく3分の1の権力は残しておくという中途半端な対応を取ったのもある意味マヌケな話だが
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最終更新:2024/04/24(水) 18:00
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