河井継之助(1827~1868)とは、幕末に活躍した人物である。
長岡藩士。諱は秋義。号は蒼龍窟。長岡藩士・河井代右衛門秋紀と、同じく藩士・長谷川権兵衛の娘・長谷川貞の長男。
嘉永5年(1852年)に江戸にくだり、古賀謹一郎に学問を、佐久間象山に西洋砲学を学び、安政元年(1854年)には目付役兼評定随役となったがほどなく致仕する。安政4年(1857年)に家督を継ぐと、安政6年(1859年)にまた江戸に遊学。続いて備中松山に赴き、同地で藩政改革に取り組んだ山田方谷に入門。さらに長崎に向かった。
文久3年(1863年)に、当時京都所司代となっていた藩主・牧野忠恭に辞職を進言し、忠恭が老中に就任すると文久4年(1864年)に公用人に任じられる。この後河井継之助は出世していき、慶応元年(1865年)には郡奉行、慶応2年(1866年)には町奉行、ついには慶応3年(1867年)には家老となったのである。
その後すぐに藩主・牧野忠訓と上坂、続いて上洛し、朝廷に名代として薩長を批判して幕政復活を願う建白書を提出する。江戸に戻るとガトリング砲などの武器を買っていき、帰藩。慶応4年(1868年)に藩内の恭順派を抑え、「今般姦臣、天下を挟んで幕府を陥れ、御譜代の諸侯、往々幕を背いて薩長に通ず。大に怪しむに堪えたり。余、小藩といえども孤城に拠りて国中に独立し、存亡をただ天に任せ、もって三百年の主恩に報い、かつ義藩の嚆矢ならんと欲す」と宣言し長岡藩の独立独行を表明した。
こうして戊辰戦争が進行すると、小千谷で東山道軍軍監の岩村隆俊と会談して会津との和議の仲介を提案するも決裂。新政府軍と戦端を開く。河井継之助は軍事総督として戦闘を指揮し、長岡城の取り合いで落城した城を一時回復することに成功したものの、右足に重傷を負った上に、再度城は落城する。こうして会津塩沢まで落ち延びたものの、十分な治療も受けられず、そのまま亡くなることとなった。
優れた人物として名高いが、その専断姿勢によって長岡藩が被害にあったことは、戊辰戦争終結後の戦後復興に尽力した小林虎三郎らによって批判されたという。
掲示板
15
2022/11/17(木) 07:05:12 ID: 3tS6PasBug
それ言い出したら君、会津他奥羽列藩同盟や榎本ら蝦夷組は更にどうしようもないバカということになるが、そんなこと公言してる自覚はあるのかい?
何かを貶したいということだけに囚われると目が曇るし大勢を敵に回すことになるぞ
16 ななしのよっしん
2022/11/17(木) 10:06:51 ID: BfRtKRwlyv
河合本人はともかく、なにか発言するたびに特定個人が論点誘導してくるの、控えめに言っても地獄かよ
17 tpp
2022/11/21(月) 07:29:10 ID: d5+gK/WgOJ
>>14
御三家どころか本家の徳川将軍家がすでに江戸城開城して恭順してるしね。
長岡藩の行動原理が「将軍家への忠義」か「身の程知らずの理想」か「アンチ薩長の意地」なのかはっきりしないんだよね。
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最終更新:2024/04/25(木) 21:00
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