河村健一郎(かわむら けんいちろう)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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河村健一郎 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県柳井市 |
生年月日 | 1948年2月26日 |
身長 体重 |
177cm 84kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 捕手、内野手 |
プロ入り | 1971年 ドラフト外 |
引退 | 1982年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
山口県桜ケ丘高等学校に進学。3年夏の県大会では準々決勝まで勝ち進んだものの敗退し、甲子園大会出場は叶わなかった。
卒業後、芝浦工業大学へ進学。3年時には正捕手として秋季リーグ優勝を経験している。
大学卒業後、日本石油に入社。1970年・1971年、2年連続で都市対抗野球大会に出場したが、いずれも準々決勝で敗退。1971年には社会人ベストナインに選出されている。
入団からしばらくは種茂雅之や中沢伸二がいたこともあり、なかなか出場機会を得られなかった。
1974年、一軍に定着。同年は59試合に出場。以降は控えの捕手だけでなく、打力を活かすために代打や内野手としても起用されることが増えていくことになる。
1975年、前年より出場機会を増やし79試合に出場。打率.270、3本塁打、19打点をマーク。
1976年、中沢に次ぐ43試合で先発マスクをかぶり、打率.271、6本塁打、25打点をマーク。オールスターゲームにも初出場を果たした。
1978年、打率.283、9本塁打、32打点をマークしパ・リーグ4連覇に貢献。日本シリーズではヤクルトスワローズのエース安田猛から代打逆転本塁打を放っている。
1979年、自身初めての二桁本塁打となる10本塁打を放った。
1980年、自己最多の102試合に出場し、規定打席には届かなかったものの打率.260、12本塁打、42打点をマークし、打率以外の部門でキャリアハイの成績を残した。
引退後、阪急・オリックスに残り、バッテリーコーチや打撃コーチを務めた。バッテリーコーチとしては藤田浩雅、星野伸之らを育成。そして打撃コーチとしてはイチローを指導し、二軍打撃コーチ時代、イチローとともに「振り子打法」を編み出したことでその名を知られる存在となる。当時、異質であった「振り子打法」を一軍首脳陣の大半が『一軍では通用しない』と否定し、フォーム改造させようと指示を送った。しかし、河村は一軍からのフォーム改造指示を徹底して無視し、首脳陣との対立してでも振り子打法を追求することにした。結局河村は1994年限りで退団したが、イチローはこの打法で結果を残し、以降球史に残る選手へと成長していくこととなる。
オリックス退団後、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、社会人野球クラブの横浜ベイブルースでもコーチを務め、2004年にはオリックスに復帰し1年限りだが打撃コーチを務めた。コーチを務めていない時期には解説者・評論家として活動。
2013年には阪神タイガースのコーチを務めたが、体調不良のためシーズン半ばで休養しシーズン終了後に退任している。
強打が売りの阪急黄金期の控え捕手。主に代打や指名打者での出場が多かったが、捕手としての盗塁阻止率は2割後半~3割台とまずまずの数字を記録している。
通算:12年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 725 | 2067 | 1865 | 204 | 439 | 72 | 279 | 4 | 61 | 14 | 114 | 13 | 292 | 65 | .235 | .282 |
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最終更新:2024/04/23(火) 21:00
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