河津弘業(かわづ・ひろなり 生没年不詳)とは、筑前国の戦国武将である。子に河津興光がいる。
筑前河津氏は源平合戦時代に伊豆で勢力をもった伊東祐親を事実上の祖としている。
その子孫である河津貞重(または重貞とも)が北条貞時より糟屋郡尾中庄を与えられて筑前国宗像郡西郷庄に土着したのが始まりという。
時代が下るにつれ、大内氏に従属した。
生没年は不明だが、1430年代後半から1440年代前半生まれだと推測される。
大内教弘、またはその子・大内政弘により偏諱を賜った。
1461年に大内教弘より宗像郡西郷の千寿丸陸町3段20歩と石田丸六竹入壱町を安堵されたという。
1465年には宗像郡の代官職に補任されている。
応仁の乱が勃発し大内政弘が上洛すると、その隙をついて少弐政資が旧領の筑前の奪還を図る。弘業は長門に逃れ、政弘より長門国に領地を与えられた。応仁の乱が終結して政弘が帰国すると、1478年になって奪われた筑前の所領を奪還した。
1479年に糟屋郡・宗像郡内において代官職を務めた。また、同年に西郷の大森宮を再興した。
大内義興に従い子・河津興光と共に上京し、1511年には船岡山合戦に高齢ながら参加した。
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最終更新:2024/04/19(金) 07:00
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