河津隆家(かわづ・たかいえ 1533 ~ 1570)とは、筑前国の戦国武将である。河津隆業の子。弟に景轍玄蘇。子に河津氏澄、河津貞広がいる。ここで子・氏澄についても記述する。
父と同じく大内義隆により偏諱を賜る。
義隆が陶晴賢によって自害を余儀なくされると、その数年後に父より家督を譲られる。
この時は義隆の後を継いだ大内義長に仕えていたが、立場上は不安定であり姻戚である宗像氏貞と共に行動することが多くなった。
1557年、大内家が滅亡するといよいよ筑前の立場が不鮮明となり大友につくか毛利につくかの様となる。
隆家は西郷衆を率いてこれをまとめ、宗像氏貞と共に毛利側につくことを鮮明にする。
宗像郡最大の勢力である宗像氏は勢力がほぼ二分しており、宗像氏貞の勢力と宗像鎮氏の勢力に分かれていたと推測される。
1559年に大友宗麟が宗像鎮氏を使って大軍をもって宗像郡に侵攻すると、氏貞はこれに敵わないと見て大島へと逃げ、隆家らは白山城、許斐城、飯盛山城を捨てて亀山城などに籠城した。
1560年、氏貞と共に逆襲に出て奪われた城を奪還し、宗像鎮氏を討ち取った。
この前後あたりから宗像氏の家臣として行動するようになる。
1567年に立花鑑載と上和白の戦いで敗れるもその翌年には鑑載が大友氏を裏切り味方につき勢いづく。
大友氏の再三再四の攻撃にもめげず、何度もこれを撃退した。
しかし、立花山城の戦いで鑑載が自害し、多々良川の戦いが起きると毛利と大友の北九州をめぐる一大決戦が行われる。
情勢は毛利側が有利だったが、宗麟は周防に大内輝弘を侵攻させると毛利は北九州から撤退した。
支援を失った氏貞は情勢が不利となり、宗麟との和睦を余儀なくすることになった。
また、宗麟のほうも何度も西郷衆に煮え湯を飲まされており、宗像氏の内部分裂を謀り隆家に離反を促した。
しかし隆家はこれを拒否した。
西郷衆をどうにかしようとした宗麟は和睦条件に隆家殺害など5箇条以上を要求した。
宗麟の内応に応じたが、行動を起こさなかったため、大友と宗像にとって不利益になるからだと。
氏貞のほうとしても隆家が氏貞に対して謀叛を起こすはずがないと内心わかっていたが、隆家を謀殺しなければ宗像氏は大友氏に滅ぼされるのは目に見えていた。
苦渋の決断を迫られた氏貞は泣く泣く隆家を謀殺することにした。
何も知らない隆家は氏貞より蔦岳城にて宴に誘われた。
いつもの謀将ならば宴中での毒殺や襲撃、向かう最中に殺害するのがお約束だったが、氏貞はそれをしなかった。
これまでの忠臣に対して最後の饗応をして隆家に礼を尽くしたのである。
謀殺はするけども、宴だけは楽しんでほしいと言う氏貞の心苦しさもあったであろう。
結局は蔦岳城では殺害せず、妙湛寺付近を通った時に待ち伏せてあった氏貞の兵により殺害され、首級は宗麟に届けられた。
隆家の死により宗像氏は救われ、良心の呵責に苛まれた氏貞は隆家の子供たちを宗麟の手から護ることとなった。
一見戦闘力は低く見えるが、これは蒼天録がデフレの最盛期だったため。50台あれば十分である。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世紀 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 59 | 知略 | 27 | 政治 | 24 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
河津氏澄(かわづ・うじずみ 1560? ~ ?)とは、筑前国の戦国武将である。河津隆家の長男。弟に河津貞広。
父が宗像氏貞に謀殺された時、連座を受けずに弟・河津貞広ら一門と共に氏貞に保護される。
大友氏の追討を防ぐため、肥前国の晴気より姓をもらい晴気姓を名乗り、名前も宗像大社45代大宮司・宗像氏澄の名をもらい晴気氏澄と名乗った。弟は小倉姓を名乗った。
先の連座を受けずにすんだ理由に『重臣・占部尚安の孫』という謎のモノがある。
結局は大友氏の目から背けるのと忠臣・河津隆家を泣く泣く謀殺せざるを得なかった氏貞の苦悩であろう。
氏澄は宗像一門と同様な扱いを受けて優遇された。大友氏の脅威が無くなると弟共々河津姓に復姓した。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/20(土) 08:00
最終更新:2024/04/20(土) 08:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。