浅井一政 単語

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浅井一政(?~1645)とは、戦国時代に活躍した武将である。
豊臣臣時代はを憚って今木一政と名乗っていた。

概要

近江浅井氏の一族の出である、前田臣の加賀浅井の祖。通称・衛門

淀殿の縁で大坂の陣まで豊臣に仕え、重臣でこそなかったもののその出自からか政権中枢に出入りしており、大坂の陣後に彼の遺した『浅井一政自記』は、『豊内記』、『難波戦記』といった軍記物語にもしていった、豊臣方の重要な言となっている。

豊臣家家臣・今木一政

近江浅井氏の一族・浅井之政の孫、浅井定政の息子で、浅井亮政対馬守、浅井良政がいる。

浅井定政は浅井氏の滅亡後に敦賀で死去し、一政は当初は浅井長門を名乗っていたが、淀殿の縁で豊臣に出仕。今木衛門と名をめた。

豊臣秀頼に仕えた後、片桐且元の寄子となって彼の使番を務め、慶長19年(1614年)に片桐且元大野治長木村重成渡辺糺ら反片桐且元と対立すると、調停の使者として奔走した。しかし、片桐且元しかったために淀殿らに疑われ、片桐且元が退去する際に且元からついてくるよう勧められたが、これを断る。しかし、以後はかつてほど近しく遇されることはなかった。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際、い羽織を着せられ、合戦場の取次に任じられる。5月7日真田信繁から戦いを始める許可める使者・寺尾勝右衛門が送られて来ると、老齢な寺尾に代わって臼山に向かい出許可を伝える。そのまま自分も伊東常紀の子・伊藤半七と共に戦場へ向かい、倍野街道筋を転戦。しかし総崩れになると、君・豊臣秀頼が気がかりとなりに退却する。

すでに豊臣秀頼のそばには、大野治長といくらかの小姓しかおらず、一政は守に火を集め自害の準備を進める。しかし大野治長速水守之が秀頼を止めて櫓に移ることとなり、一足先に櫓に向かった一政は、すでにいた渡辺糺・正栄尼や、御ちやあ、あい、丘尼といった人々を介錯していった。

やがて豊臣秀頼の一行が到着すると、一政は彼らに切腹を進めたが、津川近治毛利長門に追い出される。5月8日になると常院への使いを命じられいったんは断ったものの、説得の末に京極忠高のへと向かう。しかし井口経玄によって方々にたらいまわしにされているうちに、豊臣秀頼らは切腹。一政は死に損ねて京都に送られてしまったのであった。

前田家家臣・浅井一政

片桐孝利から合される浪人となった一政であったが、元和年中に前田利常に召し出され、千石で出仕した。前田利常の子・前田高に付属されて側用人となる。寛永17年(1640年)に三百石を加増されたが、その後病気となって閉居する。

前田高からは引き続き重んじられ、読書・学問を好んだ一政のために書を貸し与えらえたという。

ところが正保2年(1645年)4月5日にその前田高が亡くなってしまう。一政は法事までは加わったものの、そこで殉死を願い出た。前田高の前田利常はかつてを切り損なった一政のためにこれを認め、4月25日に小善四郎とともに殉死。高の遺とともに高野山に送られ、埋葬された。

妻は小野木三息子浅井政右、浅井武康以後、子孫は代々前田に仕えていく。一方前田臣の里見与元、高沢之助のもとにいだ。

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