浅原事件とは、正応3年(1290年)に起きた天皇暗殺未遂事件である。
・時代は鎌倉時代後期。
・元寇(弘安の役)からは9年後。霜月騒動(鎌倉幕府の内紛)からは5年後。
・当時の朝廷は後深草上皇の持明院党と、亀山上皇の大覚寺党が派閥争いをしていた。事件当時は、両上皇とも健在(正しくは2人とも出家していたので「法皇」なのだが、当記事では便宜上「上皇」とする)。
・事件を起こした武士は浅原為頼と2人の息子。為頼は霜月騒動に連座して所領を没収されたのち盗賊となり、幕府に指名手配されていた。頭のネジが外れた鎌倉武士の中でも特にイカれてた奴。
正応3年(1290年)3月9日夜、浅原為頼と2人の息子(光頼、為継)の3人が騎馬で御所に乱入。女嬬(下級の女官)の一人を掴まえて「帝はどこで寝ている!?」と訊ねた。
「御寝所で…」
「それはどこだ!?」
「な、南殿より北東のすみ…」と、女嬬は答えた。
※もちろんデタラメです。
ちょっと考えれば「南の北東ってなんやねん」とツッコミを入れそうなものだが、この浅原親子はそうでなかったらしく、馬鹿正直に南に向かっていった。(襲撃するなら、事前に御所の間取りぐらい調べとけよ…。)
その隙に女嬬は別ルートを通って上役の女官に報告。話はたちまち天皇の耳に達し、天皇は女装して三種の神器と皇室伝来の管弦2本(琵琶の玄象・和琴の鈴鹿)を持って春日殿に、春宮(のちの後伏見天皇)は常盤井殿に脱出した。
ちなみに、このMVPの女嬬は名前を「やすよ」と言ったらしい。やすよちゃんGJ。
一方の浅原親子。いくら探しても御寝所は見つからない─そりゃそうだ、方角が全然違うんだもの…。御所にいた人はみんな逃げてしまったので、誰かを掴まえて聞くこともできやしない。
「むう…あの女め。まんまと一杯食わせおったわ」
などと為頼が思った時にはすでに遅く、親子は御所警護の武士に囲まれていた。斬り合いとなり、浅原親子も奮戦したが多勢に無勢。計画の失敗を悟った浅原親子は、清涼殿の御寝所で、天皇の褥(お布団)を血で染めるように自害した。目的の場所が自害の場所とは、ひどい皮肉である。
その後の調査で、為頼が自害の時に使用した太刀「鯰尾(なまづを)」が、公卿の三条実盛の所有物だと判明したため、実盛は六波羅探題に拘束された。実盛は大覚寺党の公卿である。伏見天皇と関東申次の西園寺公衡は亀山上皇が黒幕だと訴えたが、後深草上皇は訴えを却下。
後深草「だって騒ぎを大きくしたくないんだもの…」
この事件は結局、亀山上皇が涙を流して無実を主張し、起請文を幕府に提出したことでうやむやになってしまった。
神奈川県警幕府「深入りしたら面倒くさそうだから、もういいや。三条実盛は釈放ね」
事件の真相は、全て闇の中である…。
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最終更新:2025/12/09(火) 15:00
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