浦和レッドダイヤモンズ 単語

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ウラワレッドダイヤモンズ

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浦和レッドダイヤモンズとは、埼玉県さいたま市を本拠とするJリーグサッカークラブである。通称浦和レッズ

概要

Jリーグ発足時より参加しているオリジナル10の一つ。クラブの前身は三菱自動車工業サッカー部(1950年創部)。[1] ホームタウン埼玉県さいたま市(旧浦和市)。

チーム名は「ダイヤモンド」の最高のき、固い結束に由来し、クラブカラーである「レッド」と組合わせたものである。

クラブマスコット1992年3月31日当時の浦和市生まれのレディア(Redia)。[2]

浦和という土地が元々サッカーどころということもあってか、熱狂的ファンが多い。アウェイゲームですらホームのような雰囲気にしてしまい、ホームゲームでは文字通り12人フィールドプレイヤーとしてチームを鼓舞する。反面、何かと揉め事や規則違反を犯すことがあり、良くも悪くもサポーターの一挙手一投足が取り上げられがちである。それ故に同じさいたま市(旧大宮)を拠点とする大宮アルディージャとはライバル関係にある。

Jリーグ発足当初はお荷物クラブと揶揄されるほど弱く、1999年J2降格も経験しているが、2000年代に入ってタイトルを獲得するようになり、Jリーグクラブで初めてAFCチャンピオンズリーグ優勝したチームであり、一複数回優勝したことのあるクラブである。

所属したプレイヤーは、福田正博、ギド・ブッフバルト岡野雅行山田暢久、小野伸二、マルシオエメルソン・パッソス、長谷部誠田中マルクス闘莉王原口元気など。

ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002および駒場スタジアムである。Jリーグ創設時は駒場スタジアムをメインとしていたが、埼玉スタジアム完成して以降はこちらをメインホームスタジアムとして使用している。現在営業収入など日本最大規模のサッカークラブチーム

歴史

1991年に「オリジナル10」としてJリーグ初年度参戦チームに入った。Jリーグ戦でもあった1992年ナビスコカップでは5位。

そしてJリーグが開幕したが、初期の頃は「Jリーグのお荷物」と揶揄される弱小チームで初年度の1993年は両ステージともに10チーム中最下位、1994年1stステージ最下位に終わり3ステージ連続最下位という不名誉な記録を作ってしまう。2ndステージは最下位こそ逃れたもののそれでも12チーム中11位という有様だった。それでも、1990 FIFAワールドカップ優勝メンバーであるギド・ブッフバルトとウーベ・バインが加入、"野人"岡野雅行が台頭したことで善の兆しは見えていた。

1995年にホルガー・オジェックが監督に就任。厳格な導でチームに欠けていた規を与え、躍進を遂げるようになる。特に元ドイツ代表コンビの存在は大きく、ブッフバルトの活躍によって守備は見違えるように安定し、何よりもバインのパスによって「ミスターレッズ福田正博が点取り屋として覚醒シーズン32得点を挙げ、日本人初のJリーグ得点王にく。チーム1stステージで3位、年間で4位と飛躍する。

1シーズン制となった1996年優勝争いに絡み、第22節では初めて首位に立つが、終盤戦に勝ち切れない試合が続いて失速。最終的に6位に終わる。1997年は堅守速攻のオジェックから攻撃的サッカーへの転換を図ってホルストケッペル監督に招聘するも、成績は振るわず1年で頓挫する。この年を最後にブッフバルトが退団。

1998年クラブOBの原博美が監督に就任。この年、高卒ルーキーとして注された小野伸二チキ・ベギリスタインと共に攻撃の中心として躍動。2ndステージでは3位に入るなど躍進を遂げる。なお、期待以上の活躍を見せた小野高卒1年ながらリーグベストイレブンに選出され、新人王も受賞する。

ところが、1999年小野福田外国人勢といったが軒並み負傷で離脱。低迷するチームは原を更迭し、2ndステージからア・デモス監督として招聘するが、結局年間15位に終わり、まさかのJ2リーグ降格という憂きに遭う。なお、降格が決まった最終節での福田Vゴールは「世界で一番悲しいVゴール」と呼ばれ、人気トップチームの降格は日本中に衝撃を与えた。

J2で迎えた2000年のほとんどが残留したことから昇格は余裕と見られ、序盤は圧倒的な戦差によって首位を独走していた。だが、重要な中盤戦から終盤戦にかけて勝てない試合が続き、昇格圏から転落した10月に急遽GM横山謙三が総監督として揮を執ることになる。こうしたテコ入れによって息を吹き返し、最後まで苦しみながらも2位シーズンを終え、1年でJ1に復帰する。

J1に復帰した2001年は、監督チッタを迎え入れ、これまでの欧州路線からブラジル路線への転換を図るもうまくいかず。再びJ2へ降格する危機を迎えるが、何とかJ1残留を果たしている。

2002年元日本代表監督ハンス・オフト監督に就任。フロント社長犬飼基昭が、GMに初代監督孝慈が就任。下部組織の強化、選手補強やクラブハウス築、会社依存経営からの脱皮に着手する。さらにこの頃から「さいたまスタジアム2002」を使用するようになる。
オフト就任1年には、ナビスコカップで決勝まで進出するが、鹿島アントラーズに敗れ初タイトルを逃す。しかし、2003年には再びナビスコカップ決勝まで勝ち上がり、再び鹿島優勝を争うことになるが、今度は4-0で快勝しリベンジに成功。クラブとしての初タイトルを獲得。結局オフトはこの年で退任するが、長谷部誠鈴木啓太ら若手を抜世代交代に成功。リーグでも中位にまでは引き上げ、後に強へと成長する土台を作りあげた。一方、ベテラン福田井原正巳が現役を引退

2004年に乗ってクラブレジェンドのギド・ブッフバルト監督に就任。この年、エメルソンが27ゴールを決める活躍で得点王とリーグ最優秀選手を獲得し、チーム2ndステージで初となるステージ優勝を果たす。年間総合勝ち点はリーグ1位だったが、チャンピオンシップではPK戦横浜F・マリノスに敗れ、惜しくもリーグ年間優勝を逃す。2005年リーグタイトルは逃したが、天皇杯ではすでに退団が決定していたマリッチが5試合6得点の大活躍を見せ、優勝を果たす(前身の三菱時代を合わせると25年ぶり5回)。

ブッフバルト就任3年2006年は前年に騒動を起こしてカタールへ移籍したエメルソンに代わる得点としてワシントンを獲得。さらに5年ぶりに小野が復帰し、初のリーグ優勝へ期待値は高まっていた。田中マルクス闘莉王を中心とする堅い守備をベーストップ下にコンバートされた山田暢久、ポンテ、ワシントントライアングルによる攻撃で着実に勝ち点を伸ばし、シーズン中盤には首位に立つ。ホームJ1最高記録の62,241人を動員したリーグ最終節では、優勝を争うガンバ大阪との直接対決ポンテとワシントンの2ゴールで制し、ついに長年の悲願であったJ1リーグ優勝を果たす
また、天皇杯でも決勝でG大阪を破り、天皇杯連覇とシーズン二冠を達成クラブ黄金期をもたらしたブッフバルトはこの二冠を手土産に勇退する。

2007年は11年ぶりにホルガー・オジェックが監督に復帰。さらにジェフユナイテッド千葉から阿部を獲得。リーグでは最終節を首位で迎えながらもすでに降格が決まっていた横浜FCにまさかのを喫し、連覇を逃す。一方、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)では、グループリーグから準決勝までを敗で勝ち上がる、決勝ではイランのセバハンを相手に1勝1分で勝ち越し、Jリーグ勢としては初となるACL優勝を成し遂げ、アジア王者となる。これによって出場権を獲得したFIFAクラブワールドカップ2007では、準決勝でACミランに敗れたものの、3位という好成績を残す。これらの舞台での活躍が評価され、Jリーグチームとしては初となる日本プロスポーツ大賞を受賞。

2008年ドイツで活躍していた高原直泰を獲得するもコンディションが整わず、期待外れとなる。大補強が失敗したチームは開幕から連敗したことで々にオジェックを解任。後任となったゲルト・エンゲルスは闘莉王トップ下で起用する奇策で一時は盛り返すが長続きはせず、7位に終わる。

2009年にはフォルカー・フィンケが監督に就任し、これまでのリアクションサッカーからアタッキングサッカーへの転換を図る。しかし、攻撃はともかく守備の整備が一向に進まず、失点を重ねたチームは8連敗を喫するなど低迷。サポーターから続投が疑問視されたフィンケ体制2年も内容も結果も進歩が見られず、10位に終わる。結局2年間のフィンケ体制で原口元気ユース出身の若手を積極的に起用する収穫はあったものの、フロントクラブの方針に反発した闘莉王の流出を招くなどマイナス面が大きかった。

順位・観客動員とも伸び悩むようになった2011年シーズンではクラブOBのゼリコ・ペトロヴィッチが監督に就任するが、これが大失敗。大補強を敢行したにも関わらず疑問に残る采配の連発によって残留争いを繰り広げる順位にまで下がってしまった(結果15位、ギリギリである)。

度重なる監督人事失敗を受け、2012年には「ペ」じゃないほうのハイロ・ペトロヴィッチ監督ミシャ)をサンフレッチェ広島から引き抜くミシャの教え子である槙野智章を獲得し、広島と同じ「ミシャ式」を導入。取りこぼしも立ったものの、ここ数年とは違って着実に勝ち点を積み重ね、最終的には3位でシーズンを終え、5年ぶりとなるACL出場権を獲得。1年で好成績を残したミシャの要望によってその後も広島から教え子を次々と獲得。順調にサンフレッチェ化が進むチーム2013年には興梠慎三、柏木陽介、原口元気の1トップ2シャドーを中心とした攻撃は、リーグ1位の66得点マークする。その反面、複雑な可変式システムの弊で失点が増えるという問題も抱えていた。

2015年は「Jリーグスカパー! ニューイヤーカップ 鹿児島ラウンド」で優勝2004年以来の2ステージ制となったJ1リーグでは、初試合から17試合連続敗(12勝5分)と言うJリーグ初の快挙を遂げ、1stステージ優勝Jリーグチャンピオンシップへの出場を決定した。しかし、2ndステージでは勝ち点2位となり、最終的に3位で幕を閉じる。天皇杯では9年ぶりに決勝進出を果たすが、ガンバ大阪敗北した。

2016年1stステージでは優勝を逃し3位に終わったものの、2ndステージで巻き返し、2ndステージ優勝および年間首位を決めて、チャンピオンシップでは決勝進出を決める。しかし、チャンピオンシップではアウェイゴールの差で敗れ、またしても年間王者の座を逃す。一方、ルヴァンカップ(旧ナビスコカップ)では3年ぶりに決勝進出し、PK戦までもつれ込んだG大阪との闘の末に13年ぶりに優勝を決めた。

2017年は第8節時点までは首位を走る好調な出だしとなったが、6月に入って3連敗を喫するなど失速。順位が8位にまで低迷した7月にとうとうミシャが解任となり、6年間の長期政権に終止符が打つ。一方、後任となった孝史監督のもとACLでは準々決勝で川崎フロンターレを相手に大逆転勝利を飾ると、準決勝では上海上港相手に勝利。そして、決勝ではアルヒラルを相手に2試合合計2-1で勝利。この結果、10年ぶりにACLを制し、Jリーグクラブとしては9年ぶりとなる2度アジア王者となったはこの年のAFC年間最優秀監督に選ばれる。しかし、J1リーグではACLとの兼ね合いによる過密日程に苦しみ、終盤に3連敗を喫して7位に終わる。また、FIFAクラブワールドカップ2017では、準々決勝でアル・ジャジーラと対戦で敗れ5位決定戦へ回りそこで勝利した為5位となった。

2018年は開幕5試合1勝もできず下位に低迷し監督が解任。次期監督就任まで育成兼ユー監督である組長こと大槻毅を繋ぎとした。第19節(川崎戦)に勝利J1通算400勝となる。その後、鹿島以来のJリーグ監督に就任したオズワルド・オリヴェイラにより巻き返し一時はACL圏内まで順位を上げるも最終的には5位で終えたためリーグ戦でのACL出場権獲得はならなかった。しかし、天皇杯では決勝でベガルタ仙台を破り12大会ぶりの優勝を果たしたことでACL出場権を得ている。

2019年リーグACLの二冠を標に各ポジションに代表クラスの選手を獲得する大補強を敢行するも、J1リーグでは開幕から低迷。4連敗を喫したことでオズワルド・オリヴェイラは解任となり、前年に続いて大槻組長監督に就任する。しかし、過密日程もあってチームは低迷しとうとう残留争いに巻き込まれることになるが、最終節で辛くもJ1残留を果たす。また、ACLでは2年ぶりの決勝進出を果たしたものの、決勝では強外国人助っ人を擁するアルヒラルの前に敗し、準優勝に終わる。

2020年は強化体制が一新され、新たに設置されたSD土田尚史、TD西野努が就任。先の勝利に囚われることなくチームを変革させるため2022年度のリーグ優勝標とする『3年計画』を掲げる。しかし、攻守ともに結果と内容が伴わず、試合6失点を1年で2度喫するなど守備の崩壊が立ち、10位に終わる。この年を最後に大槻監督は退任となる。

2021年には徳島ヴォルティスJ1昇格へ導いたリカルドロドリゲス監督に招聘。さらに前奈良クラブ監督を分析担当に抜し、スペイン式のポジショナルプレーを導入しようとする。そしてにも積極的な補強を敢行され、監督の戦術に合った選手を中心とした戦略的なチーム作りが進められていく。だが、キャスパーユンカーが負傷がちだったこともあって得点不足が悩みの種となり、シーズン終盤戦は勝ち切れない試合が続き、最終順位は6位に終わる。一方、天皇杯では決勝で退団が発表されていた槙野の劇的な決勝ゴール大分トリニータ勝利し、3年ぶり4度優勝を果たす。また、このシーズンで14年間在籍した阿部が現役を引退

「3年計画」の最終年となった2022年は開幕前のスーパーカップを制覇したものの、開幕後はスタートダッシュに失敗し前半戦を12位で折り返す。後半戦に入りやや持ち直しはしたが、結局最後まで波に乗り切れず、9位でシーズンを終え、ロドリゲス監督は退任となる。一方、ACLでは準決勝で全北現代をPK戦の末に破り、3年ぶり4度の決勝進出を果たしている。

2023年ポーランドリーグを4度制覇したことのあるマチェイ・スコルジャを監督に招聘。前年からの続きとなる5月に開催されたアルヒラルとのACL決勝ではアウェイの初戦を興梠慎三の同点ゴール引き分けに持ち込むと、ホームの大援に支えられた第2戦ではオウンゴールで得た虎の子の1点を守り切り、6年ぶり3度アジアチャンピオンとなる
天皇杯では4回戦で名古屋相手に敗れ、敗退。試合後、サポーターが起こした前代未聞の暴動によって翌年の出場資格を剥奪されてしまう(下記を参照)。ルヴァンカップではファイナルまで進出したものの、決勝でアビスパ福岡に敗れ、準優勝に終わる。
リーグ戦では開幕連敗と苦しいスタートになったが、第3節以降公式戦13試合敗と立て直しに成功。守備リーグトップの堅さを誇ったものの、攻撃ホセカンテ以外に頼れるスコアラーが定着せず、場以降は勝ち切れない試合が増え、最終的に4位で終わる。Jリーグアウォーズではリーグ最少失点の堅守が評価され、最多タイの4人がベストイレブンに選出。
2023-24シーズンACLは前年度王者として出場したものの、第6節で格下のハノイFCに敗れ、2勝1分3敗の成績でグループステージ敗退。
6年ぶりの出場となったFIFAクラブワールドカップ2023では、初戦でクラブレオン勝利したものの、準決勝でマンチェスター・シティ相手に成す術なく敗。3位決定戦でもアル・アハリに敗れ、4位に終わる。2023年は年間60試合以上を戦う過密日程となった。

2024年は元ノルウェー代表監督のペア=マティアス・ヘグモ監督に就任。

サポーター問題

1993年Jリーグ開幕当初から熱狂的なサポーターを獲得していることで知られており、フランス誌『So Foot』は世界サポーター10選を紹介し、その中に日本の浦和レッズが世界9位に選出されるなど海外からも高く評価されている。2017年2022年ACL決勝では中東でのアウェイにも多くのサポーターが押しかけ、チーム勇気を与えて三度アジア王者獲得に貢献もしている。その一方で、数多くのトラブルや問題行動を起こしており、Jリーグに悪を与えている。

主なタイトル

国内タイトル

国際タイトル

個人タイトル

現在の所属選手

背番号 Pos. 選手名 生年 加入年 前所属 備考
- 監督 ペア=マティアス・ヘグモ 1959.12.1 2024 BKヘッケン 監督 【新】
1 GK 西川周作 1986.6.18 2014 サンフレッチェ広島
2 DF 酒井宏樹(C) 1990.4.12 2021 オリンピック・マルセイユ
3 MF 伊藤敦 1998.8.11 2021 流通経済大学 【H】
4 DF 石原広教 1999.2.26 2024 湘南ベルマーレ
5 DF マリウス・ホイブラーテン 1995.1.23 2023 FKボデ/グリム
6 MF 岩尾 1988.4.18 2023 徳島ヴォルティス
7 FW 安部 1999.1.28 2023 FCバルセロナB
8 MF 小泉佳穂 1996.10.5 2021 FC琉球
9 FW ブライアンリンセン 1990.10.8 2022 フェイエノールト
10 MF 中島翔哉 1994.8.23 2023 アンタヤスポル
11 MF サミュエルグスタフソン 1995.11.11 2024 BKヘッケン
12 FW アゴサンタナ 1993.2.4 2024 清水エスパルス
13 MF 渡邊 1996.10.2 2024 FC東京
14 MF 関根 1995.4.19 2019 シント=トロイデンVV 【H】
16 GK 歩見 1994.5.12 2022 水戸ホーリーホック
17 FW オラ・ソルバッケ 1998.9.7 2024 リンアコFC 【レ】
20 DF 佐藤 1998.9.10 2024 ガンバ大阪
21 MF 大久保智明 1998.7.23 2019 中央大学
23 DF 井上生人 1997.3.9 2024 京都サンガF.C.
24 MF 松尾 1997.7.23 2022 VCウェステルロー 【復】【H】
25 MF 安居 2000.2.9 2022 流通経済大学
27 MF カニット・パンヤ 1999.10.21 2023 アントンユナテッドFC 【レ】
28 DF アレクサンダー・ショルツ 1992.10.24 2021 FCミッティラン
29 MF 堀内陽太 2004.7.8 2023 浦和レッズユー 【H】
30 FW 興梠慎三 1986.7.31 2023 北海道コンサドーレ札幌
31 GK 吉田 1996.11.28 2023 大分トリニータ
35 MF 宇賀神友弥 1988.3.23 2024 FC岐阜 】【H】
38 MF 前田 1994.11.17 2024 名古屋グランパス
39 MF 早川 2005.12.5 2023 浦和レッズユー 【H】
47 MF 武田英寿 2001.9.15 2020 水戸ホーリーホック 【復】【H】
66 DF 大畑 2001.4.27 2022 サガン鳥栖

※備考欄は【】=全移籍での加入、【レ】=レンタル移籍での加入、【復】=レンタル先からの復帰、【新】=新任の監督、【昇】=トップチーム昇格、【卒】=新卒での加入、【特】=特別定選手、【2】=2種登録、【H】=ホームグロウン選手

過去に所属したおもな選手

歴代監督

監督 在任期間 備考
孝磁 1992年1993年
横山謙三 1994年
ホルガー・オジェック 1995年1996年
ホルストケッペル 1997年
原博美 1998年1999年1stステージ
ア・デモス 1999年2ndステージ J2降格(1999年)
吉田 1999年天皇杯 監督として
斉藤和夫 2000年2000年10月
横山謙三 2000年10月12月 ・総監督として
J1昇格(2000年)
チッタ 2001年1stステージ
ピッタ 2001年2ndステージ
ハンス・オフト 2002年2003年 ナビスコカップ優勝(2003年)
ギド・ブッフバルト 2004年2006年 J1リーグ2ndステージ優勝(2004年)
天皇杯優勝(2005年2006年)
J1リーグ優勝(2006年)
ホルガー・オジェック 2007年2008年3月 AFCチャンピオンズリーグ優勝(2007年)
ゲルト・エンゲル 2008年3月12月
フィルカーフィン 2009年2010年
リコ・ペトロヴィッチ 2011年2011年10月
孝史 2011年10月12月 監督代行
ハイロ・ペトロヴィッチ 2012年2017年7月 J1リーグ1stステージ優勝(2015年)
ルヴァンカップ優勝(2016年)
J1リーグ2ndステージ優勝(2016年)
孝史 2017年7月2018年4月 スルガ銀行優勝(2017年)
AFCチャンピオンズリーグ優勝(2017年)

大槻 2018年4月 監督代行
オズワルト・オリヴェイ 2018年4月2019年5月 天皇杯優勝(2018年)
大槻 2019年5月2020年
リカルドロドリゲス 2021年2022年 天皇杯優勝(2021年)
マチェイ・スコルジャ 2023年 AFCチャンピオンズリーグ優勝(2023年)
ペア=マティアス・ヘグモ 2024年

関連動画

関連コミュニティ

関連項目

関連リンク

脚注

  1. *なお、三菱自動車工業自体は2016年までトップパートナーとなっていたが、同年の燃費試験不正問題で公式サイトから削除されている。また、三菱自動車工業2016年中に日産自動車下となる予定であるが、日産自動車横浜F・マリノス株式を保有している。このままでは日産自動車事実横浜F・マリノスと浦和レッズの株式を保有する状態になるが、Jリーグ規約で性確保のため2クラブ以上の株式大量保有が禁じられているため、会社そのものが変更になる可性が浮上していた。しかし、2016年10月31日に、三菱自工三菱重工業と共同出資して持株会社ダイヤモンドF.C.パートナー株式会社」を設立し、同社にクラブの全株式を譲渡することを発表。これにより三菱自工の間接出資率が19.8%となったことで問題を解消している。
  2. *他には1997年1月26日レディアと結婚したフレンディア(Friendia)、Jリーグ王者だけが手にすることのできる優勝皿(シャーレ)に由来して2006年12月2日に誕生したシャーレくん(Schalekun) 、同じく2006年12月2日に誕生、父親レディアと母親フレンディアの「DIA」と、なでしこリーグ女王に与えられる「TIARA」をミックスさせたディアラちゃん(Diarachan)。浦和レッズのマスコットたちは他チームマスコットのようにファンサービスをせず、ただプラプラする姿が撃されるためサポーターからは「ニート」呼ばわりされている。
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