渋川満頼 単語

シブカワミツヨリ

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渋川満頼1372~1446)とは、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。

ここまでのあらすじ

渋川氏とは足利泰氏の次男足利兼氏(渋川義顕表記の方が一般的か)を祖とする足利一門の一流であり、兼氏は泰氏の嫡男足利頼氏のであるため、後の吉良氏、石橋氏、斯波氏らと同様に足利姓のまま大きな勢を誇っていた分であった。しかし兼氏の子・足利渋川)の代に二月騒動に巻き込まれたのか一年だけ佐渡に配流され、以後足利貞頼(渋川貞頼)、そして渋川義季と続き、義季の代に鎌倉倒幕、および南北朝の動乱が始まったのである。

渋川義季格も高く、尊氏の補佐役である足利直義の妻に彼の姉妹が、次代である足利千寿王(足利義詮)の妻に渋川幸子が選ばれるなど期待のホープとして期待され、建武政権においても関東廂番の頭人に任じられるなどまさに出世街道を駆け上る若手武将であった。ところがである。1335年の中先代の乱岩松経家とともに出敗北。数えでは二十二歳の若さ自害してしまうのであった。

この時渋川義季の子・渋川直頼はまだ生まれたての赤子であり、渋川幸子渋川氏の女性たちが直頼の元まで支えとなっていった。直頼の活動は1345年ごろからみられるようになり、高師直であったこと、足利義詮の妻であったことから、観応の擾乱では尊氏として活動し、見事政治生命を保ったのである。が、1356年に直頼は23歳の若さで亡くなった。

そして渋川氏の台頭が著しくなってくるのは渋川直頼の子・渋川義行の代である。彼はいわゆる斯波の一人であり、丹後、備中、備後、そして九州探題を務めたのだ。ところがである。南の意気なお盛んな九州に上陸することはできず、帰1375年そのまま28歳でこの世を去ったのだ(この一族は呪われているのか)。こうして九州今川了俊が北の勢圏にしていく中、渋川満頼は育っていくのである。

九州探題渋川満頼

渋川満頼はの死後わずか3歳で督を継ぎ、備中守護に任じられた。その後守護職自体は摂津・安芸の二カになったようだ。さて今川了俊の記事を見ればわかる通り、1396年に了俊は足利義満によって更迭。渋川満頼がこれを引き継ぐことになったのである。同年、彼はの悲願であった九州に上陸・博多に本拠地を構え子息や被官を配していった。当時少弐氏肥前千葉氏らが渋川氏に対抗を試みており、満頼はこの対処を行う任についたのである。

ところが、先代だった今川了俊九州に大きく勢を伸ばしたこともあって、幕府からの支援は限定的であった。それでも大内氏、大友氏といった大勢に頼り、寺社との関係構築や朝鮮との貿易など少しづつ勢基盤を築いていったのである。こうして満頼は少弐貞頼、菊池千葉胤基らと戦っていったのだ。

1415年になると肥前守護を兼ねるようになり、1419年に応永の外が起こると、対立していた少弐氏と協してこれに対処。今川了俊ほどではないものの、着実な成果をあげていった。そして1419年に渋川満頼は息子渋川義俊に督を譲り引退。義俊の後は満頼の渋川満行の系統が九州探題を代々務めていった。

そして1424年に渋川満頼は上し、以後御一家のいわば御三家と機する京都渋川氏が誕生したのである。また満頼のもう一人のである渋川義長が関東におり、こちらが鎌倉府で御一家となっていく関東渋川氏となる。こうして京都九州関東の三に分かれた渋川氏は足利氏御一家として高い権威を有する一門になったのであった。

その後の渋川氏

京都渋川氏

京都渋川氏といえば渋川義俊の子である渋川が権勢を得、何より有名であろう。堀越方・足利政知の補佐役として、享徳の乱において関東に下向した彼である。また息子渋川義廉を督継承でもめている斯波氏に送りこんだ彼である。しかし渋川氏は御一家の中であまりにも政治的存在になってしまったためか、吉良氏、石橋氏が応仁の乱以降も中央で政治生命を保ったのに対し、大幅に落してしまったのであった。

その後の渋川氏は所領のあった備後に下向したとされ、毛利中である程度崇敬されてはいたものの、一門衆よりも下の扱いを受けるという有様であった。そして渋川義満が1572年に亡くなったことで、里民となったようである。

九州渋川氏

詳しくは渋川尹繁の記事に記載されているが、大内氏と大友氏の争いに巻き込まれる有様であった。途中までは御一家の一門としての権威から、旗頭として利用されるも、戦国時代も進んでいくと、そうした意味合いも薄れ、中の分裂した渋川氏は人知れず消えていったのである。

なお、小城鍋島士として一応は存続はして言った模様である。

関東渋川氏

京都渋川氏と同様、御一家として高い権威を有していた。しかし鎌倉府と京都の幕府の対立の仲、方として京都渋川氏と連携していったようである。やがて戦国時代に入り北条氏が席巻する中、北条氏の勢圏を避け、房総の里見氏や下野に一門が散らばっていったようである。しかし西渋川氏と異なり、御一家としての地位は保ち続けられたようだ。

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