湾岸戦争(GULF WAR)とは、1990年8月のイラクによるクウェート侵攻によって始まった、中東ペルシャ湾北部からイラク南部を舞台にイラクとアメリカを中心とする多国籍軍によって行われた戦争である。
中東では「第二次湾岸戦争」(イラン・イラク戦争が第一次に相当する)、あるいは日本などでは後年行われたイラク戦争との関連性をもとに「第一次湾岸戦争」という場合もあるようである。
1980年のイラクによる先制攻撃から、1988年のイランの敗北宣言まで続いた、イラン・イラク戦争が終結したあと、イラクは戦争の痛手から回復できずにいた。
長期に渡る戦争で積み重なった多額の戦時債務を払うためには、原油輸出による外貨獲得しかなかった。
しかし当時原油価格は低く推移しており、原油価格の値上げも要望したもののOPECは聞き入れず、特に隣国のクウェートは、原油輸出により得た資金を欧米の企業への投資する事によっても外貨を獲得していた為、投資した企業の業績を好転させて収入を得る目的で、OPECの指示を無視して原油を採掘・輸出することで原油価格の値崩れを招いていおり、アラブの君主を自任するフセインの怒りは、長期間戦火を交えたイランではなく、経済面からイラクの生殺与奪の権を握った、クウェートに向けられていた。
もともとイラクとクウェートの間には衝突する火種もあった。
1932年にイギリスの傀儡政権であったが、表面上はイギリスから独立した、イスラム系譜学上のファーティマ家の末裔と自称する、ハシーム王家を首班とするイラク王国が、独立に際して、オスマン朝とイギリスの承認を得た領土のうち、ペルシャ湾と接する部分は約77キロの海岸線しか無く、海岸線部分も港湾開発には不向きな湿地帯が殆どで、ハシーム王家の政権は、20世紀初頭にイギリスが乗り込んでくるまで、オスマン朝領であったと言う歴史的経緯(ただし、オスマン朝側は自国の版図としていたが、事実上の放置状態で、2012年現在のクウェート王室の先祖に当たる、アニザバ族分派ウトーブ族の名家サバーハ家が18世紀中ごろから実効支配しているという、どっかのオバサンが修羅の国と思い込んで遺書を書いて視察に行った、ソマリランドの様な状態であった。)を根拠に、クウェートの領有を主張したが、当時のクウェートはイギリスの植民地であった為、言うだけならタダだから言ってみた程度の意味しか無かった。
クウェートがイギリスの植民地となった経緯をかいつまんで説明すると、ベルリンからイスタンブールを経由してバグダッドへと続く鉄路を建設していた帝政ドイツと、現在のイラン北部と接する地域を支配していた、ロシア帝国の中東進出を阻むため、この地域に足場を探していたイギリスと、1899年にサバーハ家の内紛で二人の兄を殺害し、一族内での実権を握ったムバラクの利害が一致、オスマン朝の干渉からクウェートを守る事と引き換えに、外交上の権利をイギリス側に譲渡し植民地となった。
1958年の反英、反王室クーデターで成立した、アブド・アル=カリーム・カーシムを首班とするイラク軍事政権は、1961年にクウェートがイギリスから独立した際に、オスマントルコ時代の行政区分を根拠とするクウェート全土の領有を主張し、クウェート併合を目的とした軍の集結を行ったが、周辺のアラブ諸国の反対やイギリスがクウェート防衛を目的とした部隊派遣を行い、この時の侵攻計画は頓挫し、政治的な実務能力に欠けてたことで政権から放逐されていた事への反発に加え、この侵攻作戦の頓挫が、1968年にイラクのバース党がクーデターを起こす原因となった。
以後、事有るごとに「クウェートはイラク固有の領土である」と主張し、後にサダム・フセインによって政権を追われる事となる、バクル政権下の1973年と翌74年には小規模イラク軍部隊による侵攻も行われた他、クウェートによる原油の盗掘、イラン革命の自国への波及を恐れたクウェートが引き受けたイラン・イラク戦争の債務支払い問題(クウェートは150億ドルの献金と100億ドルの貸付を行っていた。)などである。
イラク側の外交筋の発言が次第に危険なものになっていくことを察したクウェートは中東諸国に問題の解決を訴え、エジプトなどが動くが状況は改善しなかった。
またイラク国内にも問題があった。自らの権力と統治に国内の民族・宗教問題を上手く役立てていたサダム・フセイン大統領にとって、これ以上の問題は自らの統治能力を疑われることにもなりかねない。このためフセインは、クウェート北部への限定的な攻撃を計画し、7月半ば頃から近隣部隊の国境地帯への集結が行われたほか、7月20日には、イラク軍で最良の装備を持つ共和国親衛隊二個師団がイラク南部へ展開を開始した。この大規模なイラク軍の展開は、アメリカの偵察衛星や各国の在中武官により察知されていたほか、現場の分析官等からは,イラクによるクエート侵攻の可能性が高いと言う警告が、アメリカ政府高官等に送られていたが、戦車等は送られているが、前線部隊の継戦能力を維持する、補給部隊や重砲部隊が随伴しおらず、弾薬の集積も行われていない、部隊間の通信量増加が全くない等、アメリカやソビエトで通用する軍事常識を当てはめた上で、恫喝目的で軍を集結させていると認識されていた。
事態が急速に悪化していた7月25日、このイラクとクウェートの問題についてサダム・フセイン大統領はアメリカの特命全権大使との会談を行うことになった。席上、アメリカ側大使がこの問題についての不介入を表明したうえ、(つまり国境・経済問題には不介入という話だったが、フセイン大統領はこれを拡大解釈した。武力による解決まで不介入というわけではなかったのである。)7月31日にBBCで放送された、アメリカ国務省(日本では外務省+αに相当する省庁)の中東担当次官による『アメリカと湾岸諸国の間に防衛協定は存在しない』と言う発言により、最後の引き金が引かれてしまうことになった。
31日深夜のフセインによる決断から2日後、8月2日にイラクがクウェートに侵攻する。8月1日の時点で、クエート側もイラク侵攻計画を察知し、王族の脱出準備は始められていたのもの、一般国民には知らされていなかった。まともな兵力を持たないクウェートは、奇襲による混乱で指揮系統が機能せず,即日に首都を放棄し、8月4日に反国王派のクウェート陸軍大佐と自称するイラク軍将校を首班とする、傀儡政権が成立する(のちにイラクへ編入)。同日に国連の安全保障理事会はクウェートからの無条件での撤退を求める決議を採択した。
このときイラクの機甲師団が見せた迅速な前線突破は第二次世界大戦以降もっとも成功した電撃作戦とも評価されることになるが、本格的な侵攻の決断から、作戦実施までの期間が短かった事も有り、2個中隊の戦車部隊を除き、最小限の装備や補給物資のみで、作戦に参加する事となった。また、PLOの指示を受けた一部のパレスチナ人の労働者による、侵攻の手引きや暴動も発生したが、暴動のツケは中東諸国で湾岸戦争後のパレスチナ人労働者受け入れ拒否と言う形で帰ってきた。
この問題にアメリカ合衆国の大統領ジョージ・H・W・ブッシュは、即座にサウジアラビアへ軍を派遣することを決め、8月7日にアメリカ軍に対する湾岸地域への展開命令がくだされ、同日、イラン・イラク戦争中から恒常化していた、東インド洋でのペルシャ湾岸地域での不測の事態(旧ソビエトの中東侵攻)に備えた待機を行っていた、空母インディペンデンスを中心とする艦隊がオマーン湾に到着、翌8日には既に展開しているAWACSの増強と護衛のF-15が、9日には82空挺師団の先遣部隊がサウジアラビアに到着した。
アラブの聖地を抱えたサウジアラビアにとって、イランアメリカ大使館人質事件の際も救出部隊の出撃基地の提供要請を拒む等、戦闘行為を目的とした異教徒の軍隊は受け入れがたいものであったが、原油価格を低く抑えた一因に、自国王家筋の所有油田などの理由もあったことで、クウェートの次は自国という恐れもあり、これを受け入れざるを得なかった。
一方のアメリカ軍にしてみれば建国以来まともな砂漠戦(第二次世界大戦のアフリカ戦線もごく僅かの期間)を行ったことのない、しかも地球の反対側ということもあって大騒動だった。
「砂漠の盾」作戦として航空部隊や陸上兵力の緊急展開部隊(RDF)がイラク・クウェート国境付近に即座に展開したものの、輸送力の不足分を民間予備航空隊として、アメリカ籍の航空会社が保有する旅客機を動員しても、迅速に持ち込める装備は軽装備ということもあり、当初数週間は危険な時期であった。
「砂漠の盾」作戦に動員された軍の輸送機や民間機のパイロットの多くは、アメリカ連邦航空局(FAA)が定める、一月の乗務時間の基準値を越える乗務を行わざるえなかった。
派遣されたアメリカ軍の主力はアメリカ本土の部隊で、世界中に展開する事前集積船に搭載されている重装備をも含めた軍需品を海上輸送で持ち込むために、数週間の時間が必要としていたためでもある。
ただし、アメリカ側にとって幸いなことがあったとすれば、現場の上級指揮官から首脳部までベトナム戦を経験したものが多く、特に陸軍や空軍では、その後の暗黒期から苦労を味わって再建まで漕ぎつけた経験豊富な者達ばかりであった事(ベトナム戦以後、アメリカ軍の士気やモラルはがた落ちで、アメリカ陸軍に至っては、装備もNATO諸国と比較した場合に一世代旧式化していた。80年代初頭から始まっていた装備の更新も、湾岸戦争の直前になって、ようやく現役部隊での正面装備更新が終了した状態であった。)や、同年の7月に行われた、イラクによるサウジアラビア北部への侵攻を主題としたアメリカ中央軍(US CENTCOM)の指揮所演習で、サウジアラビア防衛に必要とされる兵力見積もりがすで出来ていた事であろう。
複雑に絡んだ国際情勢では国連軍の発足は難しいと見たアメリカは巧みに「多国籍軍」の設立を促すことに成功した。アラブ側にも配慮し、サウジ王室の将官をトップにすえたアラブ合同軍(サウジ、エジプト、シリア、クゥエート軍残余)の設立。立場上、アメリカ・英国・仏を中心とした西欧軍と同列とした(実際は中央軍の指揮官であるシュワルツコフ大将が指揮をとる形となった)。
この多国籍軍の総勢は、中央軍陸軍部隊(米・英・仏)33万、海兵隊7万、特殊作戦コマンド7千、アラブ合同軍10万。総勢50万余という破格の動員となったが、シュワルツコフ大将らスタッフはこれでも兵力に不安を感じていた。
げに恐ろしきはこの動員した兵力の兵站を維持したアメリカ中央軍兵站チームだろう。指揮をとったパゴニス准将は当初持ち込んだドル札を手に、わずか数人のスタッフと借り上げた車の中で兵站チームを創設。40,000個のコンテナをさばいた。…とはいえ、コンテナが港に届いたあと部隊に送り届けることが困難であった(コンテナの中身は空けてみないとわからない)。この教訓は後のイラク戦争で解決することになる。
この間、イラクは、クウェート侵攻作戦の主力であった、共和国親衛隊をバスラ周辺へと撤退させる代わりに、徴兵と予備役によって構成された、通常の軍を動員する一方で、在留外国人たちを使った「人間の盾」を使った、ある種の人質外交で時間を稼ぎつつ、アメリカの敵である、ソビエトに支援を求めていたが、イラクによる侵略戦争である事を理由に支援を断られていた。その一方でアメリカ側はこの時期、欧州から展開した部隊の装備の最適化、訓練などを行い砂漠戦に備える貴重な時間を得ることができたともいえるだろう。
一方、海軍のほうも予想外の展開が続いていた。ちょうど折り悪く、アメリカ海軍空母群のうち原子力空母の大半が母港でのオーバーホールにかかっていたため、参加した空母の大半が通常動力型空母だった。参加空母は、セオドア・ルーズベルト、ドワイト・D・アイゼンハワー(原子力空母)、ミッドウェイ、レンジャー、サラトガ、ジョン・F・ケネディ(通常動力空母)の6隻であった。
1991年1月17日に多国籍軍はイラクへの爆撃を開始(「砂漠の嵐」作戦)。
先行してF-117などのステルス戦闘機や陸軍のヘリコプター部隊を使ってイラク軍レーダーサイト、通信設備を破壊。イラクの組織だった防空能力を喪失させ、順次他の航空機が空爆を重ねることとなった。
準備された最新装備の航空兵力は猛威をふるい、各所でイラク軍を寸断する形となった。
この攻撃の有様はCNNのリアルタイム映像やアメリカ軍が公表した正確に目標を捉えて爆発する画像誘導爆弾の着弾シーンなどで流され、「テレビゲームのような戦争」=「ニンテンドーウォー」などと言われる原因にもなった。
何しろ空軍兵力だけでクウェートに展開するイラク軍陸上兵力の二割を喪失させたという話もある…もはや、なんというかとんでもない物量である。
また、少なからず多国籍軍航空機にも被害が生じたものの、許容できる範囲であるともいえた。またA-10のようにそれまでの低評価が一変、高い評価を得た例や、事前に攻撃ルートが読まれやすい、低高度で航空基地に突入し滑走路を破壊するという戦術で、損害の多さから戦術転換を行わざるえなかったトーネード、現地の悪天候と精密誘導兵器の運用能力を欠いてたため、想定を下回る戦果しか上げられなかったF-16、高い対空戦闘能力が災いし、海軍が艦隊の防空用として手放さなかった上、数少ない航空優勢獲得への投入も、空軍による虐待で、何の為に出撃させたのかも判らなくなったF-14の様な例もある。
この攻撃をうけ、イラクは戦争の枠組みを変えるべく、スカッドミサイルによる、イスラエルの都市部への攻撃を行うようになる。イスラエル政府が、報復に沸き立つイスラエル国内の世論に反応すれば、クエートを解放する為の湾岸戦争が、アラブ対イスラエル問題へとすり替わることを目的にした攻撃だった。
アメリカは急いで対スカッド対策用にパトリオット対空ミサイル部隊を送る一方、イスラエルに対して自重を求める動きに出た。次に湾岸諸国(サウジ、バーレーン)に対しても攻撃が行われ、パトリオット部隊の展開が進むことになる。
ただしイラク領内各所に潜伏するスカッド部隊の追撃は困難を極めた。
中央軍指揮官シュワルツコフ大将が伝統的な陸軍将官らしく、あまり特殊部隊を重用しないこともあり(とはいえ、それでも特殊部隊の作戦参加は認められ、彼らは長距離進出して航空機を誘導するなどの活躍を行った)、トラックと大差のない発射ステーションを空から突き止めることは難しく、航空機や特殊部隊による「スカッド狩り」が行われたものの効果的ではなく、またパトリオットも効果的に働いたとはいいづらいものがあった。この動きはミサイル防衛(BMD/MD)へと続くことになる。
イスラエルを戦争へ巻き込む事による、多国籍軍の解体が出来なかった事から、1月29日に、部隊配備の済んでいない多国籍軍を誘い出し、地上戦を泥沼化を目的に、サウジアラビア-クエート国境から20kmの町、カフジを占拠したが、航空戦力と海兵隊を中心とした多国籍軍の反撃に遭い、イラク軍のサウジアラビア侵攻は頓挫し、翌30日には、イラク軍の残存兵力はクエートへ撤退した。
航空戦はその後も継続したが、ここで地上偵察の結果、クウェート-イラク国境付近に展開していたイラク軍主力がイラク領内に撤退する気配を見せたことに気が付いた多国籍軍は、当初予定していた2月25日からの地上戦開始を一日繰り上げ、24日に「砂漠の剣」作戦を開始することを決定した。
おりしも中東地区には珍しく雨が降る10年に一度の気象条件であったが、もはや是非もない状況だったともいえる。
多国籍軍を指揮するアメリカ中央軍司令、シュワルツコフ大将の作戦目的は極めて明快だった。
右翼側、海兵隊及び多国籍軍歩兵を中心とする部隊により、クウェートに対して攻撃を行うことでイラクの目をクウェート及びその国境付近に釘付けにするやいなや、中央に位置する多国籍軍の中でも中核の機甲師団(アメリカ第1・第3機甲師団、英国第1装甲師団)を中心とした主力、第7軍団が大きく前線を迂回。
イラク南部から侵入するや右回転を描くようにイラク軍主力の後背を遮断し、イラク軍主力の6個師団(うち、3個機甲師団。1個機械化師団。2個自動車化師団)を捕捉・殲滅することを目的としていた。機甲師団による理想的な電撃戦を予定していたといってもいいだろう。
戦線左翼を受け持つ第101空挺師団+装輪装甲車などを中心としたフランス軍部隊(ダゲ)などを中核とした第18空挺軍団は、長躯イラク領内南部へと突進。空挺部隊も途中、数箇所の給油ポイントを経由してバグダットとイラク領内南部の都市との連絡線を断ち切る予定となっていた。
(主力と対峙しないで済むよう戦域最左翼を走るように命令されたフランス軍のあまりの扱いの悪さを見ているとアメリカ軍中央がこの手の部隊をどう思っているかがそこはかとなく伺いしれるといえるかもしれない)
だが、地上戦が開始して数時間で、シェワルツコフ大将ら指導部は予期しない展開に驚くことになった。
作戦の中心である第7軍団がほぼ1晩(8時間)、戦場で進軍停止してしまうアクシデントが発生してしまったのだ。
第7軍団を指揮するフランクス中将が進撃の快調さに驚いたのか、はたまた最前衛と主力部隊間の距離が開くことを恐れたのか、とにもかくにも指揮する師団すべての行進を一晩の間やめてしまっていた(自身の回顧録の中では、海兵隊に貸した部隊が戻ってきてない事や開戦直後に進撃開始予定時刻を8時間繰り上げられた為一部の部隊しか準備が整っていなかった事を理由としている)。せめてここで停止したのが最前衛のみであればよかったのだが。
この致命的な進軍停止によって、イラク軍は後背に進出する米軍の存在を確認。脱出できる師団はイラク領を目指したことで多国籍軍はイラク軍主力部隊の包囲殲滅に失敗することになる。
シュワルツコフ大将が戦後、フランクス司令官を強烈に批判するのはこのせいであった。
・・・最前衛で進軍停止を命じられた第2機甲騎兵連隊は、その後東側へと転進する命令を受け、担当戦域の西から東を駆け抜けるという展開に(主力である第7機甲師団のルートを開ける目的もあったといわれる)。
ところが彼らはのちにイラク軍の主力の一つ、タワルカナ機甲師団と単独で遭遇することになってしまった。
実はフランクス司令官の当初の予定では後方にいる第1機械化歩兵師団が対応する予定だったがここでも失敗したためだった。
10年に一度の悪天候、その後も続く断続的な砂嵐など視界不良の中、連隊規模の機甲兵力がほぼ完全装備のイラク軍機甲師団と遭遇・衝突するという予期しない形で始まったこの戦車戦は、湾岸戦争中もっとも苛烈な戦車戦として、「73イースティングの戦い」と呼ばれることになる。
この戦いで彼ら第2機甲騎兵連隊は優れた暗視装置などにより優勢を保ち、これに勝利することになった。
このように連隊規模でも師団兵力を撃破するなど、欧州を舞台に第三次世界大戦でソ連軍を迎い撃つために作り出されたアメリカ軍のエアランドバトル・ドクトリンとそれを実現するための装備した部隊はその威力を完全に世界に示したといってもいいだろう。
(もっとも、前述したように作戦指揮ではかなり不満が残り、イラク軍主力の拘束に失敗、その大半を取り逃してしまった)
イラクのクウェート駐留部隊主力(一部)の拘束・殲滅に成功したことから多国籍軍内部やアメリカ政府内でもこのままイラク領内奥深くへと侵攻して、包囲を逃れて離脱した部隊への攻撃、バクダット占領と言う話も出たようだが、ヨーロッパ諸国による多国籍軍によるイラク侵攻への牽制もあり、ブッシュ大統領はこれを止め、多国籍軍は、1月17日の爆撃開始から約1000時間、地上戦開始から100時間で停戦すると決定、この判断の結果が、時間切れによる、共和国親衛隊の残存とイラク国内での戦前より厳しいクルド人弾圧、最終的にはフセインの口だけであった核兵器開発疑惑の調査不徹底により、後のイラク戦争にもつながることになる。
その後2月27日にクウェート市が解放され、3月3日に暫定停戦協定が結ばれ、ここに湾岸戦争は終了した。
この他、劣化ウラン弾や採油施設爆破などによる環境汚染問題もあった。
語るべき話はあまりない。当時の日本は国内事情(主に憲法解釈)により動きがとれなかった。これはNATO加盟国内への派遣しか認められていなかった、(統一直後の)ドイツも同様である。(とはいえドイツは統一後、憲法改正を行いNATO域外派兵の道筋をつけることになる。)
なんだかんだと国内での騒動のあと80億ドルという多額の援助(というか戦費負担)を行うが、クウェート政府がのちにアメリカの新聞に出した戦争解決に援助した国々(の国民)に対する感謝の広告に、日本の名前は無かった。これは、援助として拠出された資金の殆どがアメリカの戦費として使われた事やクウェートの外務大臣が70年代初頭の個人的な諍いによる逆恨みで出さなかったといった説も存在する。
反戦団体による、アメリカを主体とした多国籍軍参加国への反戦デモは多数合ったが、反戦団体の多くはイラクのクウェート侵攻を容認する姿勢を見せていた。
紛争解決後、湾岸海域の機雷除去のため海上自衛隊の掃海部隊が派遣された。戦後(公になった)初めての派遣活動は無事その任務を果たしたといえるだろう。
また、この問題を契機に日本において海外支援の必要性について議論が行われることとなっていった。
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最終更新:2025/04/13(日) 21:00
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