源為義 単語

ミナモトノタメヨシ

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源為義(1096~1156)とは、平安時代末期の武将。

河内源氏5代棟梁とされるが、河内守には任ぜられていない。 一般的には源義朝源為朝源行家らのとして知られる。

概要

の後を継いだ義忠が志半ばで斃れると、14歳にして左衛門少尉に任ぜられるなど白河院から河内源氏の後継として期待される。

しかし自身や郎党に問題行動が多かった事で信頼を失うと藤原忠実・頼長子に近づき、摂関の武としての立場を得ることに成功するも、今度は妻の実家である熱田大宮パイプから鳥羽院に近づいた長男義朝と対立する。

子で骨肉の争いを繰り広げる事となり、保元の乱では忠実・頼長の武として崇徳上皇側に付くも敗北義朝の懸命な助命活動も虚しく、息子の手で斬首された。

自らの行動京都における河内源氏凋落の要因の一つになってしまったこともあり、特に同い年であり後の平氏の栄の礎を築いた忠盛とは悪い意味で較されることが多い。

非常な子沢山に恵まれたことで知られており、男女合わせて40人以上の子供が居たとされる。

新世代として抜擢される

永長元年(1096年)に八幡太郎の子で「悪対馬守」で知られるの四男として産まれたとされるが、資料によっては義の子という説もある。(※後述)

嘉承元年(1106年)に義が亡くなると、その三男・義忠が後継となるもわずか3年後に暗殺されてしまう。物的拠などから義で賀茂二郎義綱の一族が疑われる事になるも、実を訴える義綱一族は抗議のために甲賀山に立て籠もってしまった。

追討使として抜された為義は新羅三郎・義の協もあって義綱を捕縛する事に成功する。この功により為義は左衛門少尉に任ぜられる。なお義綱の子は全員自害している。

かしこの事件の黒幕は義であり、義綱に罪を着せるように拠を仕込んだとされる。これは義が義忠・義綱といった実者を排して自身が河内源氏の棟梁を望んだが故での行動と見られている。しかし陰謀が露見したため義は本拠から出ることが出来なくなった…とされている。

正確なところはハッキリしていないが、この時期に河内源氏内での勢争いがあり、その結果義亡き後の短期間に義忠・義綱・義といった実者が一気に歴史の表舞台から去った事は事実であるようだ。この一族いつも内輪揉めしてんな?

義親の子?義家の子?

「為義が義の四男である」というのは室町時代に成立した尊卑分脈の記述であるのだが、平安時代の資料には義の四男とも書かれて居るため、どちらが正解かはハッキリしていない。

尊卑分脈を尊重して「義は義の嫡男であったが、素行不良のため後継を外されて急遽義忠が後を継いだ」という説に基づく場合は、義の四男と捉える方が妥当と見える。しかし為義を義の子にした場合、義の他の兄弟達の名乗りなどから為義は正室の子ではないと考えられるため、なぜ庶子で四男の為義が後継になったかに対する明確な答えが必要と思われる。

一方で「義存命中から嫡男は義忠に決まっており、義ハナから後継争いからは外されていた」のであれば義の子である方が自然である。なお義忠の一つ下のも義同様に素行不良で知られているため、ここも後継からは外されていた可性が高い。

なお、当記事では通説である義四男説を取る。

狼 藉 三 昧

ここに同い年で1年前に13歳で左衛門少尉に任ぜられた忠盛が現れる。忠盛は白河院の絶大な信頼の元に20年の間に次々と昇進を重ね受領を歴任し従四位下まで上り詰めた。

その一方為義は20年で検非違使になる事は出来たもののそれ以上は望めず、官位も正六位上に留まり昇進することは出来なかった。

これは摂関と縁の深い河内源氏の勢叩き、対抗勢として伊勢平氏の武に期待するいう白河院政治的要因もあるのだが、それ以上にかに大きい要因となってしまったのが本人及び郎党たちの行動である。

というのも中右記や長記といった当時の貴族たちの日記に「犯人逮捕派遣させたら容疑者を匿う」「犯人逮捕派遣させたら逆に殺人事件を起こす」「郎党の暴力・略奪」「同僚と揉める」といったものが十回近く記録されており、鳥羽上皇にいたっては「為義を海賊追討に派遣するのはそのを自ら滅ぼすようなもの(意訳)」とまで発言した記録が残っているなど、相当に厄介な扱いをされている事がわかる。

同時代に書かれた資料にここまで記録されているのは、相当しいことである。おそらく記録に残っていないものも含めればこれでも氷山の一角である事は容易に想像できる。

それでも為義はなんとか首を繋いでいたが、保延2年(1136年)ついに左衛門少尉を辞任に追い込まれ官となってしまった。なおこの頃のの苦を見た事がきっかけかどうかは分からないが、この間に少年期義朝を離れ東へと移住している。

摂関家にすり寄る

拠り所を失った為義は康治期(1142年~)になると藤原忠実・頼長子に接近し、摂関の武としての活動が見られるようになる。忠実は為義を高く評価しており、久安2年(1146年)には10年ぶりに中央政府に復帰すると左衛門大尉に栄転・検非違使として返り咲くこととなる。

なお藤原忠実は、一族の有者達が次々にこの世を去り若くして一族を背負う事になるも、その若年から来る経験不足によって失敗を繰り返して対抗勢に辛めさせられる、という為義と似た青年期を過ごしており、このあたりに為義とシンシーを感じた事が高く評価した事のキッカケだったかもしれない。

骨肉の争い

藤原忠実によって為義が中央に復帰するのとほぼ同じ時期に、関東から息子義朝に戻ってくる。義朝源氏御曹司として立場を活かして関東武士達と抗争を繰り広げて勢拡大を続けた結果、自身の武士団を築き上げ南関東覇権を握る事に成功しており、その武名を利用して中央へと進出してきたのであった。

これは従来では為義の示によって関東武士団を組織化する事が的だったとされているが、近年では義朝は為義の嫡男から外れておりむしろへの対抗を的とした地盤作りであったと見られている。そしてに進出した義朝は、正妻由良御前の実家である熱田大宮院近臣である事を利用して鳥羽院に取り入ることに成功する。

これにより摂関側の為義院近臣側の義朝で勢が分かれ、での政権争いと連動する形で対立が化する事になる。


仁平3年(1153年)に義朝河内源氏としては50年ぶりに受領に任ぜられ、従五位下へと昇進した。これは検非違使である越した大抜であった。一方為義は翌久寿元年(1154年)に八男・為の乱行を理由に解官の憂いに合う。これは院近臣による摂関の追い落としの側面が大きいと見られている。

翌久寿2年(1155年)、南関東に勢を持つ義朝への対抗策として北関東で勢を伸ばしていた次男・義賢が、義朝長男・義によって討たれる事件が発生する(大蔵合戦)。この軍事行動院近臣である武蔵藤原信頼が黙認したため、義行動は問題視されず処罰されなかった。これを恨んだ為義の四男・頼賢がを取るべく挙兵したため、義朝が頼賢追討に関東に出向く事態に発展している。このときの衝突は直前で回避されているが、両の対立は修復不可能に陥った。

なお大蔵合戦でわずか2歳で・義賢をくし斉藤実盛の手によって中原兼遠の元に送られたのが駒王丸…後の木曽義仲である。

為義と義朝がここまで対立する事になった直接の原因は分かっていないが、義朝の勢圏の多くが鳥羽院知行国であったために東での勢の維持のためには鳥羽院との連携が必要であり、摂関距離を取らざるをえない立場であった事が義朝との距離を取る理由になった可性がある。

保元の乱

鳥羽法皇の崩御により院近臣と摂関政治対立の最後のストッパーが失われてしまった事で、保元元年(1156年)、保元の乱が勃発する。

当然ながら為義は忠通・頼長子が属する崇徳上皇方として武士団を率いて参することになったため、後白河天皇方についた義朝とは敵対することとなった。

義朝清盛夜襲をきっかけに乱は天皇方の勝利に終わり、為義は義朝の元に出頭する。義朝は自身の功と替えてでも達の助命を訴えたものの聞き入れられず、最期は義朝の手によって処刑された。

主な息子達

なお郎党の藉行為の多さは前述の通りだが、息子達にも藉行為が多かったようで、後継であった次男・義賢も殺人犯に加担した事で帯先生の役職を解任され、その後仕えた藤原頼長知行国能登預所の任に就くも年貢未納でこれも解任させられ、頼長の男色の相手にされたとされている。

八男・為は、為義にすら手に負えないほどの荒くれ者であったためにわずか13歳で九州に放逐されるも、今度は九州で大暴れを繰り広げてわずか三年の間に九州族たちをまとめ上げてしまった。

なお長男義朝であっても南関東をまとめ上げるのに抗争を繰り広げた結果、伊勢神宮領である大庭御厨に攻め入り藉行為を働く事件を起こしているなど、とかく自身・周りを含めて気性の荒いエピソードが多い。

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