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片山 哲(かたやま てつ、1887年7月28日~1978年5月30日)とは、日本の政治家である。
1887年7月28日に和歌山県西牟婁郡田辺上屋敷町に生まれる。旧制和歌山県立田辺中学校と京都市の第三高等学校を卒業して、東京帝国大学法学部を卒業した。卒業後は弁護士として活動を開始。
1926年に社会民衆党の結党に参加し、政治活動をスタート。1930年の第17回衆議院議員選挙に立候補して当選し、政治家としての活動を始める。
後に社会大衆党を除名され、1942年の翼賛選挙である第21回衆議院議員選挙には翼賛政治体制協議会(大政翼賛会)非推薦で立候補して落選している。
戦後の1945年に日本社会党が結党されると初代委員長に就任。1946年の第22回衆議院議員選挙で国政にも復帰している。
新憲法(日本国憲法下)で初となる1947年の第23回衆議院議員選挙で日本社会党は第1党・最大会派となった。日本社会党は日本民主党と国民協同党との連立により与党となり、党委員長である片山哲は日本社会党政権の片山哲内閣における内閣総理大臣となった。
労働省の設置や失業保険の創設、更には公団・公社の相次ぐ設立など日本社会党政権らしい社会主義的な政策を多く打ち出した。他に内務省の解体も片山哲内閣下の政策である。
農林大臣の平野力三の罷免を巡って日本社会党内の対立を招いてしまい、与党の後ろ盾を得られなくなったために8か月で内閣総辞職。同じ連立枠組みにより民主党の芦田均を首相とする芦田均内閣が発足したため連立与党として日本社会党の下野は避けられたが、その芦田均内閣は昭和電工疑獄事件により短期政権となった。対する吉田茂は野党だった民主自由党を少数与党とする吉田茂内閣を発足させ、日本社会党は以降1993年まで野党となってしまう。
日本社会党の下野後も片山哲は委員長の座に留まり続けたが、「馴れ合い解散」による1949年の第24回衆議院議員選挙では芦田均内閣の連立与党であった日本社会党も昭和電工疑獄事件の影響を避けられずに惨敗。更にこの選挙では片山哲自身も落選し、日本社会党は委員長の落選、更には野党第一党の党首落選という状態に陥る。片山哲は日本社会党委員長を引責辞任した。なお、野党第一党党首の落選はこれ以降2014年の民主党の海江田万里の落選まで無い。
1952年に第25回衆議院議員選挙で社会党右派から当選して国政に復帰。1955年の社会党再統一でも引き続き日本社会党に在籍するが、1960年には民社党の結党に参加して移籍する。
1963年の第30回衆議院議員選挙で落選。これを機に政界を引退した。なお、2回の国政選挙落選経験がある首相経験者は片山哲のみである。
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最終更新:2026/10/12(月) 15:00
最終更新:2026/10/12(月) 14:00
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