牛島和彦 単語

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牛島和彦とは、中日ドラゴンズ千葉ロッテマリーンズに所属したインテリヤクザプロ野球選手である。

引退後はTBS解説者を経て2005年から2年間横浜ベイスターズ監督を勤めていた。

現在解説者に復帰している。
一時期「インテリヤクザ」でググる横浜ベイスターズ公式サイトプロフィールトップにきたことはここだけの秘密(現在は本来の意味についてのページが出てくるものの、同時に勧めてくる「牛島和彦 インテリヤクザ」で検索すると…)。

現役〜くみt・・・監督まで

OB
牛島和彦
基本情報
出身地 大阪府
生年 1961年4月13日
身長
体重
177 cm
70 kg
選手情報
投球・打撃 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1979年
引退 1993年
経歴
選手歴 監督
プロ野球選手テンプレート

プロ入り前は893界のエリート校「浪商学園」のエースであったが、それと同時に、浪商の総番だったり練習時間に女連れで登校、さらには関東名古屋関西それぞれで100人切り達成など様々な伝説が残っている(島本人は「確かにヤンチャな時期もあったけど、そこまでしとらんわ!」と否定しているが、表の不良では最強喧嘩番長だったボクシングスター浪速のロッキーこと井英和をして「なんかよりさんの方がやんちゃだった」)。 

もちろん練習サボりがちであったが、試合の時だけ現れて結果を残していた。

ドカベンこと香川伸行バッテリーを組んでいた。

そして1979年ドラフト1位中日ドラゴンズに入団。このときの髪型リーゼントで、雰囲気はまさにヤンキーのそれであった。

この経歴だけ見れば何故893の前にインテリが付くのか疑問に思えるだろうがプレースタイル高校時代から大人びていてクールだった、それを徴するエピソードルーキーの年にあったミーティングでの逸話

稲尾和久投手コーチ(当時)が「9回2死満塁カウント2-3からどんな球を投げるか?」という質問をし、ほとんどの投手が自分の決め球を答える中ただ1人「自分は分かりません」と答えたのがルーキーだった。怪訝そうな顔の稲尾に対しては「どのような状況で2-3となったかによって、最後に投げる球も変わってくる。2-3となるまでの経緯がないと、最後の球も決められない。点差によっても投げる球は変わるし、一概に決められるものではない」と持論を述べた。これは稲尾が現役時代に実践していた考えと一致していた。この事からも、当時から卓越した投球術の持ちであったことが分かる。島本人は後年この時のことについて「稲尾さんでなくもっと頭の固いコーチだったら、きっと嫌われてをつけられていただろう」とっている。

高校時代から精度の高いフォークを操っていたがの手はごく普通の大きさしかない、その為関節を外したり挟まないで落ちるフォーク等の技術を研究し技術でセーブ王いた(漫画ストッパー」のモデルとなった)

1981年に開幕一軍の座をつかみ、中継ぎとして一軍に定着。

1982年にはシーズン中にそれまで抑えを務めていた鈴木孝政の故障離脱に伴い、当時の監督近藤貞雄から自慢のフォークボールヤクザ顔負けの心臓を評価され21歳の若さストッパーに抜、最終歴に7勝17セーブ防御率1.40という成績で中日優勝に貢献した。

1985年シーズン途中に先発に転向し、投6回に完封1回に6勝(8敗)とそこそこの結果を残す。

そして1987年落合博満との4対1交換トレードで上川誠二平沼定晴桑田茂と共にロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に移籍、抑えに再転向する。
すると、この年2勝24セーブで最優秀救援投手タイトルを獲得。翌年も25セーブで最多セーブ記録

1989年に再び先発に転向。今度は12勝(5敗)と結果を残す。

しかし、度重なる転向が祟ったのか、1990年に右肩を故障。1993年に現役引退する。

引退後は解説者となり、理論解説人気を博した(これがインテリと呼ばれる理由の一つ)。

そして2005年横浜ベイスターズ監督に就任する。

くm・・・監督時代

マーク・クルーン2008年シーズンより読売ジャイアンツに移籍)の制球難を「このなら矯正が可」と直し、絶対的守護に育て上げるなど投手育成については一定の評価があったものの、野手に関してはオーダー固定にこだわり続けた故に不振の選手でも代打を出さず、控え選手や二軍選手にあまり出番を与えなかったが村田修一の成長を見ると一概に否定はできない

また、投手に関しても先発を引っる事が多く、大抵7イニング以上投げさせていた。これが後の投手崩壊につながったと言う意見もある。

結局就任一年は3位になったものの、二年は最下位の責任をとって辞任。

大の飛行機嫌いでも有名で、飛行機に乗ったのはキャンプのため沖縄に行った時ぐらいしかない。

通算成績

選手時代

通算:14年 登板 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 防御率
NPB 395 17 1 53 64 126 - .453 905.0 391 746 3.26

監督時代 

通算:2年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 292 127 154 11 .452 Aクラス1回、Bクラス1回

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