文化7年(1810年)3月17日、侍従・山本公弘の次男に生まれる。法名猶海。画号毅軒。本名山本真弘。のち玉松操と改める。
醍醐寺にて出家し、僧律の改革を主張したが受け入れられず還俗。還俗後は国学者・大国隆正の門人になる。
大国の元を去ってから各地を渡り歩き、慶応2年(1866年)~慶応3年(1867年)頃に、弟子の三宮義胤の紹介により岩倉具視の書記になった。
猛烈な尊王家であり、岩倉の企図した王政復古に賛同して討幕の密勅や王政復古の大号令詔勅を起草し、錦旗の図案を作成して岩倉を補佐した。
維新後、新政府に内国事務局権判事、大学中博士兼侍読として出仕したが、岩倉ら政府首脳の開国・欧化政策に反発し、「岩倉に欺かれた」と憤慨して明治3年(1870年)に退官した。
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最終更新:2024/04/23(火) 18:00
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