王戎とは、
ここでは1について説明する。
字は濬沖。瑯邪郡臨沂県(山東省臨沂市)の出身、つまり名族である瑯邪王氏の一員。
幼い頃から神童ぶりを讃えられていた。「竹林の七賢」である阮籍は王戎の父の王渾と親しかったが、王渾より王戎と付き合うのを好んだ。
父の死後、その家来たちが送った香典を受け取らなかったことで名前を上げた。各職を歴任し、豫州刺史・建威将軍だった時に起きた279年(咸寧5年)の呉征伐に彼も従軍し、羅尚や劉喬らと共に武昌(湖北省鄂州市)を攻めて各地の呉軍を降伏させ、その功績で安豊県侯・侍中となった。
王戎は特別の功績があったわけではないが各職で実績を上げており、母の喪中に際しては普段と変わらぬ飲食し談笑していたが非常にやつれ、身の危険を心配した司馬炎は王戎の治療を命じている。
司馬炎死後、王戎は司徒まで出世したが八王の乱や異民族の侵入などで政権は不安定になっていく。王戎が考案した官僚の任用制度の不正を訴えられたり、娘婿の裴頠が誅殺され王戎が免官されても、積極的な発言をせず巧みな処世術をもってその場を切り抜けていった。
八王の乱が激化する中、都を脱出して305年(永興2年)に郟県(河南省平頂山市)で72歳で天寿を全うした。諡は元。
王戎といえば竹林の七賢の一人として有名である。ある時、かつての仲間らと酒を飲んだ酒屋を通りかかり「昔、叔夜(嵇康)や嗣宗(阮籍)らとここで酒を飲んで遊んだものだ。あの二人の死後わしは俗世につながれてしまったが、今日見ると近い場所も山河のように遥か遠くになってしまったものだ」と嘆じた逸話がある。
王戎は人物眼に優れた。呉の家臣だった石偉を推薦したり、鄧艾の孫の鄧千秋を召したこともある。
蜀漢征伐に赴く鍾会が策を聞いてきた時「道家の言葉に『為して恃まず』(老子)とあります。勝つのはたやすいですが、それを保持するのが難しいのです」と話し、後に鍾会の運命を的中させたと評された。
一方で、従弟の王敦を嫌い彼がやってくる度に病気として会うのを避けた。のちに王敦は東晋の重鎮として活躍するも謀反を起こしている。
しかし王戎といえばケチの逸話が最も有名である。
こうしたケチな話は、彼が生きた時代が政権の過渡期に当たり、嵇康などのように言動を危険視されて殺される文人が少なくなく、処世術を吝嗇に求めたという説明もある。
また王戎は職務には忠実だったが、収賄や不正などで何度も弾劾されており、羊祜に軍法違反で斬られそうになった事を根に持ち、従弟の王衍と共に羊祜の悪口を言い触らしたという話も残っている。
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最終更新:2023/03/21(火) 04:00
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