王濬(206~285)とは、三国時代の武将である。魏、西晋に仕えた。
字は士治。弘農郡湖県(河南省霊宝市)の出身。二千石の高官を輩出した家の出身で、博学で容姿も美しかった。最初は名声を進んで求める行為をしなかったが、後に大志を抱き州役所に出仕し、長官だった徐邈の娘を娶った。
後に羊祜に取り立てられた。羊祜の甥は「王濬は志ばかり大きくて、奢侈を好み節義が無いので用いるべきではありません」と反対したが羊祜は王濬の才能を見抜いており、全く取り合わなかった。
後に王濬は益州巴郡太守、広漢太守に出世する。兵役を緩め恩徳を施したため住民に喜ばれ、当時の益州刺史が殺される反乱が起きると代わって刺史となって反乱を鎮圧し、周辺の異民族も多数懐柔させた。
一度は褒賞のため中央に召還されるが羊祜の上奏により再び益州刺史となった。
羊祜は蜀漢亡き後、孫呉を滅ぼすための才能が王濬に備わっていると確信していた。果たして王濬は羊祜や彼の後を継いだ杜預、旧蜀臣の何攀らと計って呉を征伐するための大艦を建造し水軍の訓練に勤しんだ。呉でも陸抗や吾彦のように晋が侵攻してくると警戒した人物もいたが、この方面の防備は強化されなかった。
王濬の旗艦は二千人が乗船でき、櫓が立ち、4つの門が備わり、甲板は馬を走らせることができ、船首に鳥の頭や怪獣を描き長江の河神への魔除けとしていたという。
279年(咸寧5年)王濬と杜預は晋帝司馬炎に呉征伐を上奏、12月についに晋は生前の羊祜が立てた戦略を元に二十数万の大軍を呉に六方面から差し向けた。龍驤将軍、監梁益諸軍事だった王濬この時74歳。
王濬は唐彬と共に水軍を使って長江を下り、各地で沿岸の呉軍を打ち破った。呉軍は長江を鉄鎖や鉄錐で封鎖しようとしたが、王濬が人形を乗せた大筏を流し鉄錐を取り除かせ、筏に火を放つと鉄鎖も溶かされた。
翌280年3月に王濬は呉の首都建業に迫る。揚州方面の指揮官である王渾は呉の中軍を破り張悌らを打ち取る大功をあげていたが中央の命令で待機しており、王濬にも前進を待つよう指示を出した。しかし王濬は「風が強く、留まることはではない」とこれを聞かず建業攻略に取り掛かる。対する呉軍は、張象の軍が投降し、陶濬が2万の軍を率いて反撃しようとするも一夜のうちにほとんどの将兵が逃げてしまい、晋の指揮官らに対する離間策も不発に終わり3月15日、ついに呉帝孫晧は古礼に則って王濬の軍に降伏、三国の時代はここに終わりを告げた。
王濬は呉を滅ぼした大功を賞され撫軍大将軍、開府儀同三司、特進、散騎常侍、襄陽侯となった。しかし怒りが収まらないのは呉一番乗りを逃した王渾であり、王濬を弾劾告発したが司馬炎は王濬の命令違反を咎めただけだった。
285年(太康6年)、80歳で没。武侯の諡号を贈られ柏谷山に葬られ、息子の王矩が跡を継いだ。
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4 ななしのよっしん
2017/07/20(木) 21:18:43 ID: 79zaVIZ/VK
「留まることはではない」は「留まることは得策ではない」とかの脱字?
5 ななしのよっしん
2017/07/30(日) 15:35:29 ID: z7lXQkfobp
原文の「風利,不得泊也。」を見ると「こんなにいい風が吹いているのに止まるバカがどこにいる」というニュアンスに見えるな
6 ななしのよっしん
2018/06/27(水) 14:00:12 ID: CuWZSjtwu4
王濬が率いて呉を落とした主力軍が、元蜀の益州の軍団ってのがドラマチック。
王濬に引き立てられて西晋で出世した益州人士もおおい(本文にある李毅とか)し、なんとなく西晋期の益州の庇護者というイメージがある。
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最終更新:2024/11/15(金) 01:00
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