「王賁」(おう・ほん ? ~ ?)とは、中国の戦国時代の秦の国の名将「王翦(おうせん)」の子であり、燕・代・斉の国を滅ぼして秦の始皇帝の中華統一に尽力した将軍である。
字(あざな)は「典」。息子は、項羽と戦った「王離(おうり)」。
秦の名将である「王翦」の子に産まれる。王翦は、頻陽東郷(ヒンヨウトウキョウ、現在の陝西省富平県東北部)の出身であるため、王賁も同じ土地に生まれたと考えられる。
頻陽東郷は、秦の古くからの領土である「関中」に含まれている。王賁は、他国の出身者が登用されがちな秦において、生粋の秦人でありながら、父に従い、武将として従軍したものと考えられる。
また、王賁は、兵法を好んだとされる父の王翦について兵法を学んだものと考えられ、父とともに秦王・嬴政(エイセイ、後の始皇帝)に仕えていた。
紀元前236年、王翦は秦の将軍として、趙の城を攻め落としていた。王賁の生年や年齢は不明であるが、この頃には王賁は成人しており、父に従軍していたものと思われる。
紀元前229年、王翦は将軍として、趙を攻める。趙は、趙無恤(チョウムジュツ)の手により、晋の国を三分割して出来た三晋と呼ばれる魏・韓・趙の一国であり、軍事強国であった。
紀元前228年、王翦は、趙に勝利し、趙の都である邯鄲(カンタン)と落とし、趙王である「趙遷(チョウセン)」を捕らえた。このため、趙は滅んでしまう。
ただ、趙王の一族であった趙嘉(チョウカ)は北の地に逃れ、代王を名乗り、秦に抵抗を続けた。
紀元前226年に、王賁は、父の王翦と共に燕の国を攻めて国都の薊を陥とし、燕王「姫喜(キキ)」を遼東の地へと追いやった。
同年、王賁は、秦王・嬴政に命じられ、父とは独立して単独で楚の国を攻め、10の楚の城を奪っている。
紀元前225年には秦の隣国の魏の国(趙と同じく魏駒(ギク)の手により、晋の国を三分割して出来た三晋と呼ばれる魏・韓・趙のひとつ)を攻める。魏軍は都である大梁(ダイリョウ)を守ったが、王賁は黄河から水を引いて、大梁を水攻めにする。魏は3か月守ったが、大梁の城壁は崩壊し、魏王「魏仮(ギカ)」は降伏した。
紀元前222年、秦の将軍である李信(リシン)とともに、遼東の地を攻撃して燕王・姫喜(キキ)を捕らえ、周建国時の功労者である召公奭(ショウコウセキ)が起こした燕の国を滅ぼす。
さらに、趙の国の残党である代国に攻め込み、代王を名乗った趙嘉を捕らえる。
紀元前221年には、燕の国から軍を南下して、李信、蒙恬(モウテン)の二将軍と共に斉の国を攻撃し、斉王・田建(デンケン)を捕らえる。これにより、周建国時の功労者である太公望・呂尚(リョショウ)から始まり、田氏により簒奪された斉の国は滅びてしまう。
王賁が滅ぼした国は「代」を「趙」として数えると、韓と楚を除く、魏・燕・趙・斉の秦の宿敵である六国のうち四国にのぼっている。
王賁は、秦の最高位の爵位である「徹侯」となり、「通武侯(ツウブコウ)」に封じられ、子の王離も徹侯となり、「武城侯(ブジョウコウ)」に封じられた(正確には、この二人が封じられた時期は不明。ただし、紀元前219年までには確実に親子とも封じられている)。
紀元前219年、子の王離とともに、始皇帝の二回目の巡幸に同行して、東国の琅邪(ロウヤ)まで赴く。この時、始皇帝の功績と徳を称える石碑である「始皇七刻石」の一つである「瑯琊(ロウヤ)台刻石」が建てられる。
王賁は、王離や丞相の王綰(オウワン)、李斯(リシ)ら同行していた秦の群臣たちと話し合い、語った。
「いにしえの帝は、領有する土地は狭かった。諸侯は土地を封じられたが、帝に忠誠を誓わず、互い侵略しあったので、戦乱は止むことはなかった。それでも、いにしえの帝は金石に自分たちの功績を刻んで、自らの徳を称して、規範とした。いにしえの帝の教えや法は明確ではなく、迷信深かった。また、実力がないため、治世は長くは続かなかった。
皇帝(始皇帝)が天下を統一して、その全てを秦の直轄の土地である郡県にして、天下はやっと平和になった。宗廟の霊のご加護は明らかで、(始皇帝が)道理にかない、徳を行ったからこそ、皇帝の尊号は大成した。群臣は皆、(始)皇帝の功徳をたたえて、金石に刻み、守るべき規範とするのだ」。
この話し合いは史書に、王賁・王離親子の名前が、丞相たちより前、その筆頭として名を挙げられているため、この親子の主導であった可能性は高い。
その後の事績は不明であるが、始皇帝が死去するまでには亡くなっていたものと考えられる。
主人公は、秦の将軍として知られる「李信」、準主人公は王賁が仕えた「始皇帝」であり、王賁は二人と同年代の人物として登場する。
王賁は、李信率いる平民出身者の歩兵が多い「飛信隊」に対して、貴族出身の騎兵が多い「玉鳳隊」を率いる将として登場する。この作品での王賁は槍の使い手とされる。
王賁は、貴族出身ゆえのエリート意識があり、味方の李信に必殺の一撃を叩き込んで身分の違いをわからせようとするところもあったが、次第に李信や蒙恬と協力して戦うようになる。
字は明(めい)。
上述の通り、紀元前219年、父の王賁とともに、始皇帝の二回目の巡幸に同行して、始皇帝の功績と徳を称える石碑を建てさせる。
この時にはすでに、王離は、徹侯である武城侯に封じられており、父の爵位を継ぐだけならともかく、何の功績もなく、父と同列の徹侯となるとは思えないため、秦の統一戦争においてもかなりの功績をあげていたと考えられる(後に、王離は「秦の名将」と言われている)。
紀元前215年、始皇帝は蒙恬に命じて、北のオルドス地方という草原地帯にいた騎馬民族の国である匈奴(キョウド)に30万人の兵で攻めさせる。蒙恬は、匈奴に勝利し、オルドス地方を制した。
蒙恬は兵を率いて、上郡(ジョウグン)にとどまることとなった。
特に、史書に明確な記述はないが、後の記述や「秦の名将」という評価を考えるに、王離も蒙恬に従軍して、匈奴討伐において功績をあげ、そのまま上郡にとどまったものと考えられる。
紀元前210年、始皇帝が死去し、二世皇帝として、始皇帝の末子である胡亥(コガイ)が即位する。胡亥とその腹心である趙高(チョウコウ)が放ったいつわりの始皇帝の命令によって、蒙恬の軍の監督にあった扶蘇(フソ、胡亥の兄)は自害し、蒙恬は逮捕され、処刑される。
蒙恬の副将であった王離は蒙恬の軍を引き継ぎ、匈奴へ対応するための軍を率いることとなった。
その後、胡亥と趙高の行った恐怖政治と暴政により、秦帝国に大きな反乱が起きる。秦軍を率いた章邯(ショウカン)は勝利を重ねたが、苦戦していた。
紀元前208年、王離は命令を受けて、軍を率いて、反乱を起こし、復興した趙の国討伐におもむく。
秦の人は、「王離は名将だから必ず勝利するだろう」と話していたが、「将軍として三代続いたものは必ず敗北している。王離は王翦・王賁・王離という三代の将軍だから、危ないぞ」と評するものもいた。
王離は趙王や張耳(チョウジ)のこもる鉅鹿(キョロク)城を包囲する。秦軍の兵力は圧倒的であった。趙へ各国から援軍が送られてきたが、彼らは遠巻きで見ているだけであった。王離は、彼らを放置して、章邯からの補給を受けて、鉅鹿城を攻めることにした。
しかし、楚の国の反乱軍はいまだ勢いがあり、その将である項羽(コウウ)、劉邦(リュウホウ)、黥布(ゲイフ)ら名将・勇将・猛将ぞろいであった。
王離は引き続き、鉅鹿城を攻撃したが、楚軍の黥布の攻撃をうけた。黥布は撃退したが、王離の軍の兵糧の補給もまたとぼしくなった。
そこに、楚軍本隊を率いた項羽の軍に襲われる。王離の軍は包囲され、9度も戦ったが敗北し、武将の蘇角(ソカク)も戦死する。
王離は継続して戦ったが、各国の軍を率いた項羽によって敗北する。武将の渉間(ショウカン)は自害し、王離は捕らえられた(『史記』の本文の記述ではすぐに捕らえられたように書かれているが、実際は、月を越えて戦うぐらいにはふんばっている)。
その後の処遇は不明であるが、講談小説である『通俗漢楚軍談』(横山光輝『項羽と劉邦』の原作)においては、降伏せずに処刑されている。
司馬遼太郎『項羽と劉邦』と『史記』、久松文雄の『史記』(原作:久保田千太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。
北斗の拳やドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。
王離は、北にいるのではなく、秦の都である咸陽(カンヨウ)を守る秦の精鋭である「黒狼軍(コクロウグン)」を率いる将軍とされる。
章邯と親しく、二人で秦の再興を図る。普通の中年男性に見える容貌であるが、仮面をかぶり、黒いヨロイを全身にまとうと、いきなり「強敵」であることがはっきり分かるような存在となる。
項羽のおじである項梁を討ち取るが、鉅鹿の戦いでは項羽と激しい一騎打ちを行った。
『史記』によると王賁や王離の子孫のその後は伝わらないが、怪しげで有名な『新唐書』「表第十二中・宰相世系二中」によれば、王離には、王元と王威という二人の子がいた。
二人は秦の乱を避け、兄の王元は中国の東端にある琅邪や臨沂(リンキン)地方へ逃れた。
なぜ、秦の土地である関中から、わざわざ危険な項羽の本拠地に近い琅邪に逃げなければならないのか、さっぱり分からないが、王元の子孫は栄えて、漢に仕えるようになり、名門豪族である「琅邪王氏」にまで発展するようになった。
琅邪王氏としては、有名な人物として、魏の王祥(オウショウ)、西晋の王衍(オウエン)、東晋の王導(オウドウ)、王惇(オウトン)、王羲之(オウギシ)らがいる。
また、弟の王元もまた逃れて、その子孫は太原(タイゲン)、晋陽(シンヨウ)という山西地方に住みつき、これまた、名門豪族である「太原王氏」に発展する。
太原王氏としては、有名な人物として、後漢の王允(オウイン)、魏の王浚(オウシュン)、西晋の王渾(オウコン)がいる。
これが事実だとすれば、子孫を名乗る人物に著名人が多い李信に負けないほど、王賁や王離の子孫は繁栄したと言える。
王賁が率いた秦軍の武具については、始皇帝の墓である始皇帝陵から多くの「兵馬俑(へいばよう、当時の秦兵の等身大の石像)」が出土し、正確に再現することができる。
兵馬俑の秦軍の兵士の持っていた武器はほとんどが青銅製であった。中国の戦国時代では鉄器の武器も増えていたとされるが、秦では伝統的な青銅製の武器の使用にこだわったのかもしれない。
兵馬俑の秦軍の持つ青銅製の武器は、かなり高度な技術で作られており、実戦に用いられたものと同じものであると思われる。
秦軍の兵士は、指揮官以外はすべてが皮よろいの装備であり、頑丈な兜(かぶと)はしていない。当時は頭に冠をかぶるだけで、ほとんどが兜をしていなかったという説もある。機敏な動きを必要とする弓兵と下級の歩兵以外は、全て皮ヨロイを装備しており、ヨロイの普及率は相当に高かった。
下級の歩兵と弓兵は、戦袍(せんほう)という丈の長い衣を着て、戦った。
ヨロイは、歩兵や騎兵、戦車の馭者、指揮官などで、それぞれに違いがある。
一般歩兵のヨロイは、厚い皮の札を縫ってあわせたものをつけて、胸と背中を守った。肩と腰の部分はひもでつないで、体の動きを邪魔しないようにしていた。騎兵は肩の部分のヨロイは省かれ、無防備となる戦車の馭者は手足や首まで守るヨロイをつけ、青銅製であった。
指揮官のヨロイは、皮の表面上に青銅の札をはりつけたもので、縁取りに色鮮やかな模様が描かれており、兵士の中では目立つものとなっている。
中国の戦国時代は歩兵の重要性が増した時代であり、そのために一般歩兵へのヨロイが普及したものと考えられる。このヨロイの普及により、歩兵の重要性がさらに増し、戦場に欠かせないものになったと思われる。
秦軍の兵士が持つ武器には、長い柄(え)を持つ「長柄武器」、短い柄の「短柄武器」、「遠距離用武器」がある。武器は青銅製が中心だったと思われるが、中国の戦国時代に鉄製の武器も増えており、一部、鋼鉄製もあったと考えられる。
「長柄武器」には、「矛(ほこ)」、「戈(か)」、「戟(げき)」がある。
矛は、敵の突き刺すための武器であり、刃渡りは30センチメートル、柄の長さは2メートル前後までなった。
戈は戦車に乗る時に使う武器であり、横向きの刃を柄の先端につけ、敵の首をかき切るための武器である。
戟は矛と戈の刃をあわせて付けた武器であり、柄の先端に2種類の刃がつけられている。騎兵や歩兵が使ったものと思われ、突いても、はらっても、敵を刃で攻撃できる。
「短柄武器」には「剣」がある。秦代には青銅製の剣の技術が発達し、長さ90センチメートルを超えるものもあった。柄には縄をまきつけて使用した。
「遠距離用武器」には「弓」と「弩」がある。「弩」は器械仕掛けの横弓であり、(中国の)戦国時代に本格的な運用がはじまっている。矢を固定して、標準をあわせて、引き金を引けば、矢が放たれる。
「弩」の射程距離は「弓」よりも遠く、より安全な場所から敵を攻撃できる。また、矢を固定した状態で長時間維持でき、身を伏せたまま、射ることができため、待ち伏せにも有利である。
ただし、「弩」には欠点もあり、振動が大きい馬上では、矢が固定できないため使えない。また、矢をつがえなおすために時間が「弓」よりもはるかにかかった。
史実では、王賁は戦争用の馬車である「戦車」に乗って指揮したと思われるが、『キングダム(漫画)』などの創作作品では馬上で指揮や戦闘を行っている。
秦軍の騎兵は、戦国時代に趙の国で武霊王(ぶれいおう)が騎兵を導入してから後に、それをまねて、編成されたものと思われる。
当時の騎兵は、皮でできた座布団のような鞍(くら)を馬に乗せていただけであった。まだ、足をかける鐙(あぶみ)は存在していない。騎兵は足をぶらつかせたまま、両手で武器を操った。
武器としては、「矛」、「戈」、「戟」、「弓」が使われ、特に、「戟」が好まれた。
騎兵の数は秦軍全体の1%ほどであったが、機動力と突進力のすぐれた騎兵は、偵察や奇襲、追撃などのための軍の大事な戦力であった。
騎兵に使う馬を体格の大きい馬だけが選ばれ、騎兵も体格の良いものだけにしぼられた。戦国時代の他の国の騎兵はヨロイを着なかったが、秦軍は軽量のヨロイを装備し、その精強さで恐れられるようになった。
王賁は魏の大梁を攻める時に水攻めを使っている。この時、大梁をさらに攻めるため、秦の水軍が使われた可能性がある。
当時は丸太をけずって作った丸太船が主流であったが、秦軍では二つの丸太船を板でつないで連結した「双体船(そうたいせん)」が使われた。「双体船」により、船体の横幅を大きくなった船底は浅くなり、より大きな武器や人間を載せることができるようになっている。
秦軍が行軍し、対陣し、攻城するためには多くの兵糧が必要となった。
中国では古来、収穫した穀物を保存するための方法が農業や社会の発展とともに開発されていった。穀物を保存する「貯蔵」の技術が、蓄財をうながし、貧富の差の拡大とともに、社会の発展をうながしてきた。その貯蔵を可能したものが「倉庫」である。
「倉庫」のうち、特に、穀物を保存する「倉」は欠かせぬものであった。「倉」は大きく三種類あり、「窖穴(こうけつ)」、「囷(きん)」、「倉(くら)」に分かれる。
「窖穴」は中国の農耕社会の開始から存在する。これは、地面に深い穴を掘って穀物をいれたものである。深さは7~8メートルあるものもあり、穴の形は円形となっていて、たくさん貯蔵するため底の方の穴が広く、ふたをしやすいために入口は狭くなっているものがほとんどである。
「囷」は地上に穀物をいれるため、建てられた円形の屋根をもつ「筒形」の建物である。壁の上部に四角い入口が設けられており、そこから穀物を注ぎ入れる。高床式のものや、地面を掘り下げて半地下式にしたものが存在する。春秋時代から存在するようである。
「倉」は、床の地面を掘って床にした上で、四角い建物での半地下式になっており、窓のような入口から穀物を注ぎ込むようにしたものである。秦代になってはじめてつくられたようである。
穀物の貯蔵として、この3つの方法で、地理環境や目的に応じて分けて保存された。そのため、種類の異なる保存方法で穀物が保存される現象も発生している。
殷代や周代から穀物をいれた倉庫は、城内やその周辺に置かれ、籠城や飢饉に備えて準備された。
兵糧の輸送は、できるだけ、運河や河川を利用して船によって運ばれたが、それができない場合は人力や牛車により、運ばれた。
この運搬力をあげるために、秦の天下統一後には各地へつなぐ道路が整備され、匈奴や百越討伐のための兵站(へいたん)を支えた。また、山地がけわしい蜀への道となる桟道(さんどう、山を歩くための階段からなる山道)もこの時代に整備されている。
王賁たちが、その建設と刻まれた文章の内容に賛同した「瑯琊台刻石」と同じような、始皇帝の功績と徳を称えるための顕彰碑が、始皇帝の5回の巡幸中に7つ、建てられている。
これは、後世に、「始皇七刻石」と呼ばれるものである。
「始皇七刻石」は秦の統一時に、公文書などに中国全土で統一して使われるようになった小篆(ショウテン)文字によって書かれて、石に内容が刻まれている。
「始皇七刻石」の一覧は次の通り。
1 嶧山(エキザン)刻石 紀元前219年 2回目の巡幸の時に建立
4 之罘(シフウ)刻石 紀元前218年 3回目の巡幸の時に建立
5 之罘東観(トウカン)刻石 紀元前218年 3回目の巡幸の時に建立
6 碣石(ケッセキ)刻石 紀元前215年 4回目の巡幸の時に建立
7 会稽(カイケイ)刻石 紀元前210年 5回目の巡幸の時に建立
その主な内容は、
を記している。
その内容は、「美辞麗句」と、始皇帝や秦帝国の臣下たちの「自己満足」と「自分たちへの顕彰」、「秦の法による一方的な強制の肯定」に満ちているともいえる。
だが、同時に、秦帝国や始皇帝が「軍事力で六国を討伐し、その民を従属させたこと」、「法律で天下の民を支配したこと」、「天下の民は秦帝国に一方的に従属すべきこと」については、自慢も主張もしておらず、秦帝国でも必ずしも儒教の原型となった道徳が軽視されていないことは注目してよい。
なお、最後の「会稽刻石」では、ふしだら(と秦帝国がみなした)な地元の風俗を是正したことを誇っているところに特徴が見られる。
これにより、秦帝国の方針としてうかがえるとともに、会稽が、のちに秦帝国を亡ぼした項羽の決起したところになっており、反発が強かったであろうと想像できるところも注目してもいい。
王賁が率いた秦軍や戦国時代の群雄たちの史実上の軍事や、創作作品と史実との違いを調べたい人にすすめたい書籍。イラストや写真、地図が豊富である。
似たような書籍が同じ出版社からいくつも出版されているが、「(中国の)戦国時代」や「秦代」に限定するなら、この書籍が最も詳しい。
秦の時代の軍事は「兵馬俑」などの発掘によりかなり詳しく分かっているため、2,000年以上昔でありながら、詳細に判明している。
本文の軍事や兵器、兵種や兵法、実戦における戦法などに関する図解や写真による説明だけでなく、巻末に簡単な地図つきの中国古代の戦争解説や、兵法書の簡略な解説もとても参考になる。
掲示板
8 ななしのよっしん
2016/07/22(金) 20:27:18 ID: 6SOFHtdj+c
>>7
しかし項羽は気まぐれ千万だから、なにかのはずみで気に入られたら生き延びたのかなとも。
李信とかもそうだけど、子孫が残ってるにもかかわらず最期がはっきりしないって、どういうことなんだろな。
当人の代では追放されて公には行方知れずになったけど、漢代になって復権したとかかな。
李広とか李信の子孫だって同時代には知られていたが、先祖がなくて詐称するには微妙だと思うし。
いくら血筋が大事な世界でも、詐称するなら李姓でもっと有名な人間いただろうし。
9 ななしん
2019/07/21(日) 00:52:17 ID: BafK4VHu/D
10 ななしのよっしん
2021/10/12(火) 05:50:00 ID: 4fQ2dZkhyx
王賁の記事の内容を『史記』をふまえて、大幅に加筆したよ。別項目にすることも考えたけど、ここで話題になっている王離に関することもここで取り上げた。
おまけで、「秦軍の兵器」と「秦軍の兵種」、王賁が作ることに賛同した「始皇七刻石」についても書いている。
内容について意見あったらお願いしたい。
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最終更新:2024/04/25(木) 08:00
最終更新:2024/04/25(木) 08:00
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