畠山義英(はたけやまよしひで 1487~1522?)とは、紀伊国・河内国に拠点をおいた戦国武将である。畠山総州家4代当主。官位は上総介。
『後法興院記』は1487年説、『後慈眼院殿御記』は1488年説があるが大百科ではwikipediaと同じく前者を採用する。
没年は1522年ごろではないかとされているが、信長の野望・蒼天録PKでは1526年没となっている。
父は畠山総州家3代当主・畠山義豊。子は畠山総州家5代当主・畠山義堯。
細川勝元と山名宗全の対立が波及して畠山家の内紛が起き、畠山政長と畠山義就が応仁の乱の前哨戦を行って以来継続的に尾州家の畠山政長・畠山尚順父子と争っていた。
1487年に義豊の嫡男として誕生し、1494年に父がわずか8歳で万が一のことを考えて元服させた。
その理由は前年に父が政長を自害に追い込んでおり、子・尚順の逆襲を警戒してのものだった。
父の危惧は現実のものとなり1499年に尚順によって戦死した。
尚順は武勇に恵まれた人物であり終生これに苦慮した。
家督継承当初は畿内最大の実力者である細川政元の存在もあり、これを庇護者として尚順と対抗した。
1504年には仇敵である尚順と和睦を締結するも政元の死により事実上3年で崩壊した。
政元の死で混乱した細川家中で河内高屋城を奪取するも、翌年尚順に落とされ河内国を失陥した。
これ以降は畠山義英─足利義澄─細川澄元のラインで畠山尚順─足利義稙─細川高国─大内義興ラインと対抗する。1511年に義澄が病没し、船岡山合戦で大敗を喫してしまい、勢力を衰退させてしまう。
このあとも尚順とその子・畠山稙長相手に敗戦を続けた。
しかし、領国経営における基盤が制定され、子・義堯の代になると一時的ではあるが勢力を盛り返すこととなる。
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最終更新:2024/03/29(金) 20:00
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