白河天皇 単語

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シラカワテンノウ

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白河天皇1053~1129、在位:1073~1087)とは、日本の第72天皇である。諱は貞仁。

平安時代後期の天皇で、院政を初めて行うなど日本史において多大なを与えた天皇ひとりである。

概要

三条天皇の第一皇子に生まれるが、彼が生まれた頃はまだ摂関の長である関白藤原頼通が権勢を振るっていた時代であり、摂関を外戚に持たないもろとも不遇であった。しかし、後冷泉天皇に皇子が生まれずし、後三条天皇が即位すると政情は一変。藤原摂関の支配下から離れ、様々な政治革を行うの姿を見てきた彼は、志半ばで病に倒れたに代わり、20歳で即位する。

院政の開始

即位して間もなくの頃はまだ若年だったこともあり、頼通の嫡子・師実と協調政治を行っていたが、彼には一つの悩みがあった。後三条天皇は、天皇の座を自分に譲る際、異の実仁王を皇太に、さらにその次の後継者はもう一人の異王(実仁王の同)に名していた。つまり、白河天皇は曾孫の後白河天皇と同じく、中継ぎ天皇だった可性が高い。ところが、実仁王が疱瘡で急死すると、白河天皇は先年に亡くなった寵する藤原賢子との間に生まれた第一皇子の善仁王(天皇)を皇太子にして、その日のうちに譲位してしまった。自らの直系の子孫による皇位継承をすと同時に、の位から離れた自由な立場で新たな政治を行う彼の院政はこの時から始まった。

天皇の代は、まだ藤原摂関も健在だったが、氏長者の師通・師実子が相次いで亡くなり、さらには天皇も若くして崩御したことにより、外戚の座を失った摂関は衰退の一途を辿る。白河院は天皇の遺児である孫の鳥羽天皇を即位させると、引き続き治の君として君臨。師実の子で次期氏長者藤原忠実を寺社とのトラブルを理由に失脚させ、政治の実権を全に独占した。これにより朝廷政治形態は、系の摂関政治から、系の院政へと全に移行したのである。

武士団の支配

白河院がまだ天皇の座にあった頃、東北では後三年の役が起こった。この戦いで率いる河内源氏を持つことを恐れた彼は、この戦いを私闘とみなし、義に一切恩賞を与えなかっただけでなく、陸奥守をもう一人の勝者である藤原清衡に任じ、源氏を削ごうとした。義は身を削って、自分の領土を部下に与えることで武士団の心を掴むことに成功したが、白河院は義義綱を優遇することで源氏の分裂を論んだ。

また、白河院は伊勢平氏の棟梁・正盛にを付けた。白河院は、義の子・が反乱を起こすと、正盛にこれを討伐させる。河内源氏に対抗すべき勢に育てるため、白河院は正盛とその子・忠盛を重用し、この結果、伊勢平氏は後の一門繁栄へと繫がっていくのである。大河ドラマ平清盛」で白河院は、平氏を王と蔑んでいたが、実際には正盛・忠盛・清盛の三代にわたって優遇しており、平家にとって白河院は自分を引き上げてくれた恩人と言える存在である。

さらに白河院は、北面の武士と呼ばれる自らを護衛する武装集団を創設。当時の有力武士を自らの支配下に治めることで、武握にも成功した。上記の伊勢平氏も正盛・忠盛・清盛の三代にわたって属し、後の大歌人西行も出前の佐藤義清と名乗っていた頃は北面の武士メンバーであった。

爛れた男女関係

平清盛の落胤伝承や、崇徳院の出生疑惑などからもわかるように、白河院は大の色好みだった。とは言っても若い頃は、中宮の藤原賢子を大層愛しており、彼女が若くして亡くなると人もはばからず、その亡骸を抱いて号泣したと言われている。また、賢子との間に生まれた媞子内王も折すると、そのショックで白河院は出し、法皇になったのである。

女性関係が手になるのは年を取ってからである。白河院の寵として特に知られているのが園女御であり、後述の藤原子(待賢門院)の養育を任されるなど、白河院からの信頼は厚かった。「平家物語」では、白河院が忠盛に彼女を与え、生まれてきた子が女子だったら院が引き取って育て、男子だったら忠盛の跡継ぎにするように命じ、結果生まれてきたのが平清盛だったと記している。実際の園女御は白河院が死ぬまで近侍していたが、清盛代わりとなって養育したことから、清盛の落胤伝承が生まれたとも言われている。

そして彼女が育てた待賢門院子は、白河院の孫・鳥羽天皇の中宮となったが、実は鳥羽天皇に入内する前から、白河院と男女の仲だったと言われており、崇徳天皇の実鳥羽天皇ではなく白河院だったとも言われる。白河院と待賢門院の年齢差は48歳、彼女ローティーンの頃から同衾していたという記録もある。まったくもって、とんでもないロリコンじじいである。この疑惑による鳥羽天皇崇徳天皇の不仲が、結果的に保元の乱の一因となる。そしてこの乱で白河院の住んでいた白河殿消失してしまうのは、なんとも皮な話である。また、白河院は曾孫の後白河院と同じく両だったらしく、院と男色関係を持った近臣も少なかったらしい。

天下三不如意

白河院と言えば、「加茂双六の賽、山法師は、これ朕が心に従わざるもの」と嘆いたことで有名だが、逆に言えば加茂洪水双六、強訴などを行う僧兵の三つ以外は、全て思うがままに動かしたと言われるほど、その権は絶大なものであった。

そんな彼も晩年は浄土信仰に傾倒し、たびたび熊野詣を行った他、江戸時代に生類憐みのを発布した徳川綱吉と同様に、動物の殺傷禁止を出して、人民は疲弊したという。また、天皇に在位していた頃から、法勝寺など多くの寺院を建立したが、こちらは寺院からの財をあてにした面もある(白河院をはじめ、院政期に造られた寺院の多くは、後の応仁の乱などでほとんどが消失し、残っているものは非常に少ない)。

彼の治世は77歳で亡くなるまで半世紀以上にわたり、彼に長年仕えた中御門宗忠は自身の日記「中右記」に、「意のままに除叙位を行い、その威と権は四に満ち、下はこれに帰した。判断があって思い切りが良かったが、好き嫌いがしく、えこひいきも多かったので、秩序が乱れ、人民は休まることなかった」と記している。言わば、白河院は日本版・ルイ14世のような人物だったと言えるかもしれない。

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