皇帝(こうてい)とは、君主の称号の一つ。俗語的には、独裁的・高圧的な指導者や、極めて優秀なスポーツ選手なども皇帝と呼ばれることがある。
皇帝とは、秦の始皇帝を最初とし、清朝の終焉までの中華文明の統一政権の最高権力者が帯びた称号である。英語では Huang Di と表記される。
殷や周の時代には中華の最高統治者の称号は「王」だった。しかし、紀元前3世紀に秦の秦王『政』(始皇帝)が中原を統一すると、秦王・政は自身を中国神話上の3人の神君(三皇)と5人の聖君(五帝)を超える存在とし、新たな称号「皇帝」を名乗るようになった。この称号は秦以降の中華王朝でも用いられ、清朝最後の皇帝である宣統帝(愛新覚羅溥儀)まで中華の最高統治者の称号として認識され続けた。
中華王朝以外では、高麗やベトナム(6世紀~20世紀)の君主が国内向けに「皇帝」を名乗っている。また、大日本帝国時代の天皇も日本国皇帝を名乗っていた時期がある。
さて、中華の最高統治者の称号が「王」から「皇帝」に移り変わると、中華文明において「王」は『皇帝が授ける爵位の一つ』と認識されるようになった。そんなわけで日本においても、当時の君主号「大王(おおきみ)」に含まれる王の字が嫌われるようになり、「中華帝国と対等の立場であるもうひとつの国」を作るために「天皇」という語が捻出されたのだった。そんなわけで足利義満が明の皇帝より「日本国王」の称号を授かったときには「テメー日本を勝手に中華の属国にするんじゃねーぞ!!」とあちこちから文句を言われたのだとか。
ただし、漢字文化圏では同じ「王」の文字を使う「君主としての王」と「爵位としての王」だが、英語圏では爵位としての「王」は King ではなく Prince と訳される。逆に日本の大王や朝鮮の太王などは王の字を含んでいようとも Emperor と訳されている。こういった翻訳の問題や文化の違いには幕末に西洋と国交を始めた江戸幕府も苦労したらしく、西洋における King と Emperor の関係を東洋における王と皇帝の関係と混同して国書で王を皇帝より格下に扱ってしまい大変な目にあったとか。その反動からなのか、明治から昭和にかけての日本政府は他国の君主をやたらと皇帝と訳している。
前述の通り、原義では、皇帝とは中華文明における君主の称号の一つである。しかし現在の日本では、英語でエンペラー(emperor)と訳される君主の一部の称号にも皇帝の訳語を用いることがある。ここで「一部」と断っているのは、英語圏で emperor とされる君主の殆どは日本では皇帝ではなく、単に国王や首長と翻訳されているからである。
とはいえ、あくまで彼らは本来の皇帝と同じ存在ではなく、単に皇帝と翻訳されているだけの全く別種の存在であるので、同じ皇帝と訳されている君主であっても、それぞれの出自・実権・制度は大きく異なっている。例えばムガル帝国の君主のように世襲制の場合もあればローマ皇帝のように世襲制でない場合もあるし、エジプトのファラオのように特定の宗教に対して何らかの特権がある場合もあれば逆に神聖ローマ皇帝のように宗教上の権力者から地位が与えられている場合もある。
また、何をもって皇帝や emperor と訳すかについてのルールも存在しない。例えばローマ皇帝は古くは「大秦王」であったし、ルクセンブルク大公は戦前の日本ではルクセンブルク皇帝とされていた。ただし、ある勢力圏における複数の君主号のなかでは、より上位の称号に皇帝の訳語を当てるのが一般的な傾向という程度のことは言える。例えば、オスマン帝国にはエンペラーよりも上の位としてパーディシャーが存在するので、パーディシャーをオスマン帝国の皇帝と訳し、エンペラーをオスマン帝国の皇帝とは訳さない。これがペルシア帝国へ目を向けるとパーディシャーよりも上の位としてシャーハンシャーが存在し、このシャーハンシャーがペルシア帝国の皇帝と訳され、オスマン帝国の場合に皇帝と訳したパーディシャーは今度は皇帝とは訳されなくなる。
ちなみに、『日本の天皇は一時期まで王侯扱いだったが日英同盟の際にイギリス領インドで皇帝を名乗っていた英国が対等な立場での同盟国としてお互いを皇帝としたため、そのときの扱いが今も生きている』なんて話もあるらしいが、それ以前から日本は天皇を皇帝や emperor と訳した外交文書をバラ撒いているし、さらに遡れば江戸時代には幕府の将軍が emperor と呼ばれているので、単にそれらを踏襲しただけだろう。そもそも当の英国ではイングランド王位(King)の方がインド皇帝位(Emperor)より格上として扱われていたしね。
なお本記事では説明の簡素化のために日本語と英語だけを特に重点的に取り扱っているが、いまさら言うのもアホらしいほど当たり前のこととして、世界には日本語や英語以外の言語が多数存在していると言うことを忘れてはならない。それらの言語の特定の君主号を皇帝やエンペラーに一対一で対応させることは不可能である。そのため最近の傾向としては、他の文化圏の君主号を無理に王や皇帝、あるいは king や emperor といった特定の文化圏の枠組みに押し込めるのではなく、できるだけ当時や現地の概念・発音に近い形で理解・表現しようとする努力がなされている。
次節では、特に皇帝と訳される地位の一つであるローマ皇帝について説明する。
ローマ皇帝は、紀元前27年にローマ共和政末期の混乱を制したオクタウィアヌス(Octavianus, オクターウィアーヌス)によって確立された地位である。
帝政ローマはオクタウィアヌスが終身最高軍司令官となったことが始まりであり、その司令官の称号インペラートル(Imperator, 「命令権(imperium, インペリウム)を持つ者」)がエンペラーの語源である。またドイツ語のカイザー(Kaiser)やロシア語のツァーリ(царь, tsar')は亡き養父から受け継いだ彼の家族名であり後に称号化したカエサル(Caesar)から。つまり、帝政初期には「ローマ皇帝」を意味する単独の称号は存在しなかった。
実態は帝政であったといえオクタウィアヌスは、例外的な終身独裁官(Dictator Perpetuo, ディクタートル・ペルペトゥオー)に強引に就任して性急な独裁制移行を進め、あげくに反対派に抹殺された養父カエサルと同じ轍は踏まなかった。彼による初期の帝政である元首政(Principatus, プリーンキパートゥス)は建前上は既存の共和政のシステムを重んじ、これまでの枠組みの中にあった以下のような複数の肩書き・権利を「たまたま相応しい資質と実績を備えた同一の人物が兼任する」ことによって合法的に多大な権限を一手に掌握したものである。
概説すると、1 で百戦錬磨のローマ軍の威容をチラつかせながら 4, 5 でローマ帝国全土における行政・軍事に容喙し、さらにあらゆる階級の市民に対しても 2, 3, 6 で強い政治的影響力を持ちつつ身の安全も保障される。
このような茶番が通ったのは、彼らカエサル派がカエサル暗殺後の内乱をうまく制して逆に反カエサル派を完全に封殺し、元老院をはじめとした全てのローマ市民がその一部始終を目の当たりにしていたから。もちろん英雄カエサルの遺産たるユーリウス家の地位と名誉と権威があっての話であるが・・・・・・。
さて、この「類稀な『尊厳・威厳』ゆえに神に選ばれ数多の職掌を担うことになった者」に与えられるのが「尊厳者/威厳者」(Augustus, アウグストゥス)の称号であり、これがローマ皇帝の実質的な称号として定着していく。
元首政は建前とはいえ既存の共和政の枠組みを維持したものであったから、ひとたび強権を発動して市民の信頼を損なえば後のカリグラ帝やネロ帝のような暗君はカエサルよろしくあっさりと死に追いやられることもあり、たとえ危機的な状況であっても(いやだからこそ)市民にへつらうあまり農民や属州民を無視した施策になったり(苛烈な重税や理不尽な収奪のため地方では反乱が頻発し、脱走した自由農民は大土地所有者の下で小作農化した)、近視眼的な泥縄式施策に陥る可能性があった(ローマ市民権のタダ売りにより軍事力の大暴落を招いた、カラカラ帝のアントニヌス勅令など)。更に言えば、これだけの強権を占有しているポストにも関わらず、後継者を決めるための明確な基準を持たないため、それが継承権を巡る属州軍閥による内乱(軍人皇帝時代など)を引き起こす原因となったりと、パークス・ローマーナ(Pax Romana)と呼ばれる稀に見る安定期でもない限りは、決して盤石な体制とはいえない。
そこで284年、最後の軍人皇帝であるディオクレティアヌス(Diocletianus, ディオクレーティアーヌス)帝はオリエント風の強権と兵力で以て綱紀粛正を図る専制君主制(Dominatus, ドミナートゥス)に移行する。相次ぐ内乱による混迷の中でもはや元首政は機能不全に陥っていたため、こうした強硬手段が可能だった。まあこれこそが我々が「帝国」と聞いてまずイメージする帝国に近い姿だろう。しかし、その威光もそう長くは続かない。
ローマ帝国はローマ皇帝の絶対的権力を以ってしても統治するには広大すぎる版図を統治、維持するために293年にディオクレティアヌス帝によって共同皇帝による四分統治(ローマ帝国の版図を東西に二分し、それぞれに正帝と副帝を立てる四頭体制)が始められ、キリスト教を公認したコンスタンティヌス(Constantinus, コーンスタンティーヌス)帝によって330年にはローマからコンスタンティノープルへと遷都することとなる。そしてキリスト教を国教に定めたテオドシウス(Theodosius)帝は最晩年の394年に東西ローマ皇帝位を再統一、395年に改めて2人の息子に東西ローマ皇帝位を分割相続して息を引き取るが、これはそれまで行われてきた継承権争いを防ぐための一時的な分割統治とそう変わりは無く、まさかこのままローマ帝国の東と西とが永遠に分裂したまま戻らなくなるとは、当事者を含めて誰も想像していなかった。その後、476年に、ゲルマン人傭兵隊長オドアケル(Odoacer)によって西ローマ帝国は滅ぼされ、オドアケルは西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝に返上することで、イタリア王として即位した(後に東ローマ帝国の内政に干渉し、逆に討伐軍を送られて降服、しかし暗殺される)。
したがって、形式上は、この時点でコンスタンティノープルにいる東方の皇帝が東西を統合する唯一正統のローマ皇帝となった。だがそもそも東ローマ帝国としてもゲルマン諸民族の侵入が無ければ西ローマ帝国との統合を果たしていただろうし、実際に西ローマ帝国滅亡後もかつての西ローマ帝国領を奪還・再興しようとしたが、これもやはりゲルマン諸民族により果たせなかった。その上、フランク王国のカール大帝が「ローマ皇帝」として戴冠した途端に、東ローマ帝国は西ヨーロッパへの実効権力を急速に失っていき、東西で領土を取りつ取られつを繰り返しながらも徐々に蚕食され、ついには地方政権化した。このため、これ以降のローマ帝国の東方は単に「東ローマ帝国」あるいは「ビザンツ帝国」と呼ばれることが多い。東ローマ帝国はその後も1453年5月29日のオスマン帝国のスルタン(皇帝)メフメト2世によるコンスタンティノープル陥落まで存続した。
さて、ギリシア語圏であった東ローマ帝国でローマ皇帝は「(ストラティゴス・)アウトクラトール(アフトクラトル)*」((Στρατηγός) Αὐτοκράτωρ, (Stratigos) Avtocrator, 「(将軍たる)全権者」(インペラートルに相当))や「(カイサル・)セバストス」((Καῖσαρ) Σεβαστός, (Kaisar) Sebastos, 「(カエサルたる)尊厳者」(アウグストゥスに相当))などの称号を冠して呼ばれていたものの、俗には広く「バシレウス(バシレフス)*」(Βασιλεύς, Basilevs, 「王」)と呼ばれていた。が、基本的にバシレウスは東ローマ皇帝と対等なペルシア皇帝などを指す称号だった。ちなみに西ローマ皇帝のことはリフス*(Ῥῆξ, rikhs, ラテン語レークス rex 「王」より)と呼んだ。
時代が下ると、6世紀末には公式の書簡で東ローマ皇帝の自称としてもバシレウスが使われるようになり、ついに629年にヘラクレイオス(Ἡράκλειος, Irakrios, イラクリオス*)帝が「忠実なる信徒にしてキリストに依りて即位せしバシレウス」(πιστός ἐν Χριστῷ βασιλεύς, Pistos en Khristo Basileus)を名乗ってからは「バシレウス」がローマ皇帝の公式の称号として定着していく。キリスト教が国教となって以降はコンスタンティノープル総主教に宗教上の最高権力を譲ったが、ローマ皇帝は依然として宗教に対しても相当に巨大な実権を持っていた。とはいえ実質的に地方領主化してしまったローマ皇帝がかつて「王」に相当する呼称を名乗るようになった、というのはなんだか皮肉な話ではある。(* は当時のギリシア語(コイネー)の発音)
なお、セバストスはローマ皇帝の兄弟やその息子に、カイサルは位の高い東方諸国の支配者に送られる称号となった。後にモスクワ大公国の支配者が東ローマ皇帝の正統な後継者を自認してロシア帝国を興し、カエサル由来のツァーリを自称したのはこうした経緯によるものである(更にいえば、ビザンツ帝国からカエサルと呼ばれたタタールのハーンによって支配されていた領土を奪い返してその権威を継承したという意味もある、とする研究者もいる)。ロシア帝国はロシア革命によってロシア皇帝が廃位される1917年までローマ帝国の後継者としての皇帝を戴く形となった。
一方、西ヨーロッパでは、しばらくローマ皇帝が存在しないままとなるもの、800年のクリスマスにフランクの王カール1世(大帝)にローマ教皇レオ三世が「Imperator et Augustus」、すなわちローマ皇帝の称号とともに戴冠させ、ローマ皇帝は再び復活した。これはローマ教皇と言う権威がローマ皇帝という権力を与えるという形となり、西ヨーロッパは二つの楕円形、すなわち教皇と皇帝という二つの頂点を持つ世界となった(一方、東ローマ帝国は“ローマ皇帝のみを頂点とする”円形の権威、権力の世界を構成していた)。後に西ヨーロッパにおけるローマ皇帝は基本的には「ローマ教皇が王に戴冠させる称号」としての存在となり、ローマ教皇が宗教上のトップであり、ローマ皇帝は世俗のトップという形となっている 。(この体制は西ローマ帝国では5世紀から確認できる)
まあこちらのローマ帝国もフランクの相続制度が分割相続であったため長く続くことなく息子たちの代で東中西3つの王国に分裂するが、962年に東フランク王オットー1世が再び帝位を授けられ、神聖ローマ帝国と言う形でローマ帝国は復活する。
が、ゲルマンの独立的気風を堅持するが故に中央集権化の進まない神聖ローマ帝国は次第に名前だけの集合体、つまり自己主張の強い大小300以上の領邦と多様な民族が互いに犇めき合うサラダボウルと化し、神聖ローマ皇帝にしても一握りの有力な選帝侯たちの選挙によって選ばれる非世襲の一地方領主に過ぎなくなった。曰く、「神聖ローマ帝国とは亡霊である。姿かたちは見えないのに、確かに存在する」とのことで、これではまるでトトロである。
啓蒙思想家ヴォルテールに至っては「神聖でもなければローマでもなく帝国ですらない」とバッサリ全否定であり、さすがにちょっと気の毒になってくる。
そして時代は流れ1804年12月、フランス革命のなかで台頭したナポレオンはフランス皇帝(Empereur, アンプルール)となる。ナポレオンはローマに行くのではなく、ローマ教皇をパリまで呼びつけ、ローマ教皇の手ではなく自らの手で頭に帝冠をかぶせたという。ちなみに、このフランス皇帝と言う称号自体、ローマ教皇から与えられると言う形をとっているため、広く見れば「ローマ皇帝」ということである。その後ナポレオンは「二人皇帝がいるのはおかしいだろう」と実にはた迷惑なことを言って神聖ローマ帝国を解体してしまう。そもそもローマ帝国時代からローマ皇帝を一人に限るという法は存在しないんですが……
さらに対イギリス貿易を独占すべく各国に「大陸封鎖令」を発布すると、先進工業国イギリスとの貿易で大きな利益を上げていた同盟諸国は不満を募らせ、さらに封鎖令に非協力的な諸国を征伐するためにフランスは余計な戦争をしなくてはならなくなった。そうしたわけで「東ローマ皇帝の後継者」ロシア皇帝を征伐するためにロシア帝国に攻め込んだものの、結局は冬将軍のためにフランス大陸軍は9割を越える大量の歴戦の将兵を失い、ナポレオンはフランス皇帝の座から転落していくこととなった。
すなわち、ローマ皇帝とは広く見れば1917年のロシア革命によってロシア帝国が打ち倒されるまでの期間存続していた、と言うことなのだが、・・・・・・神聖ローマ帝国の表現のように、全く持ってその実態がつかめない、まさに亡霊のような存在として西洋の歴史の上に存在しているものであった。
例えばナチス・ドイツは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国(プロイセン王をドイツ皇帝に推戴した帝国。3代50年弱で消滅)を継承したドイツ人帝国として「第三帝国」を標榜(ただし原語Driittes Reichの「ライヒ」自体は帝国を意味するとは限らない)し、第二次世界大戦で欧州中に多大な災厄を振り撒いた(更にナポレオンと同じ轍を幾つも踏んだ)。
一方、現在の欧州連合(EU)の思想的背景である汎欧州主義の根底にも、古代ローマ帝国の存在が大きく横たわっている。亡霊が安らかに招天される機会はまだまだ先のようだ。
ただし漢字圏で皇帝だからといって英語圏でも Emperor だとは限らないし、逆に英語圏で Emperor だからといって漢字圏で皇帝としているとは限らない。元々は英語でも日本語でもないものを勝手に訳しているだけだから仕方がないね。
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最終更新:2024/12/10(火) 14:00
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