真弓明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日-)とは、福岡県出身の元プロ野球選手・プロ野球監督である。
野球解説者 | |
---|---|
真弓明信 | |
基本情報 | |
出身地 | 福岡県大牟田市 |
生年月日 | 1953年7月12日 |
身長 体重 |
173cm 77kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手、遊撃手、二塁手 |
プロ入り | 1972年ドラフト3位 |
引退 | 1995年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1953年7月12日に熊本県で生まれ、福岡県大牟田市にて育つ。
高校は柳川商業(現・柳川)高校へ進学し、若菜嘉晴と同期となった。
1978年についにレギュラーに定着し、初のベストナイン(遊撃手)に選出された。しかし、オフには西武ライオンズとの「世紀のトレード」に指名され、若菜らと共に阪神タイガースに移籍することとなった(田淵幸一、古沢憲司←→真弓明信、若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史)。
阪神時代の初期は1番でスタメン出場し、走攻守と長打力を身につけた強打者として活躍。
1983年、自身の故障中に平田勝男が台頭する。復帰後、今度は岡田彰布が故障で離脱し、代わりにセカンドを守ることになった。全試合出場した前年より出場試合数は減少したものの、打率.353を残して自身初の打撃タイトルとなる首位打者に輝き、自身2度目となるベストナイン(二塁手)に選出された。
1984年シーズン中に岡田が復帰するが、岡田はライトを守ることになった。
しかし、翌1985年はやはり岡田を内野に戻そうということになる。当初はランディ・バースの解雇が内定していたが、新監督の吉田義男がこれを撤回させ、結局真弓が代わりにライトに回ることで岡田をセカンドに戻すことになった。真弓はこの件について、むしろ守備の負担が軽くなったと好意的に捉えるようにしたという。結果的に、打撃成績では前年を上回る3割30本を記録し、自身3度目となるベストナイン(外野手)に選出された。3つのポジションでの選出は、落合博満に続いて2人目の記録であった。
1988年に130試合全試合出場して以降、その後は出場機会が減って行った。
1991年は広島東洋カープが優勝した試合には、4番で出場し、9回に大野豊に抑えられた。
1994年は代打としてフル稼働し、代打30打点という驚異の記録を出した。
1995年、現役を引退し、その後はABCの解説者や日刊スポーツの評論家として活躍。
2000年に近鉄打撃コーチに就任し、2001年チームは優勝。翌年から近鉄消滅までヘッドコーチに就任。
2008年に阪神タイガースの監督として岡田彰布の後任監督に就任。就任直前の10月30日までABCの「おはよう朝日です」に出演していた。
2011年オフ、阪神の監督を辞任。2012年からは再び解説者に戻った。
某ネズミのマーチに似た曲で「真弓真弓ホームラン♪」と歌いながら往復してダンスする応援があった。
この応援は球団側から「危ないから止めてほしい」と言われ、以来行わなくなったが、応援歌自体は残った。
大阪近鉄バファローズの打撃コーチとして2001年に優勝。「いてまえ打線」の原動力となった打線を後から支えた。
翌年からヘッドコーチ就任。梨田昌孝監督退場で代理指揮を執った試合で、9点差をひっくり返されて敗戦。近鉄が優勝したあの伝説の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランであるが、打席に立つ北川に「思いっ切りいけ」と声をかけたのが真弓である。北川も「あれで落ち着くことができた」と語っている。
2009年より阪神タイガースの監督に就任。中継ぎ・抑え投手を酷使・若手よりベテラン(というか彼)重視した起用などで結果的に要所を勝てない采配をすることが多く、優勝しないための采配をしてるのではないかという疑念を抱くファンも少なくない。
結局在任3年で4位→2位→4位という成績に終わり、2011年シーズンをもって辞任した。
球界では人格者として知られ、辞任時にも「これだけの戦力を任されながら勝てなかったのは監督としての力が無かったということ」とBクラスの責任を背負い込んだ。采配に関する阪神ファンからのバッシングは非常に多かったが、結局「監督としては『いい人』過ぎた」ということに尽きるのかもしれない。実際、性格をバッシングするような記事は全くなかった。打撃コーチとしては極めて優秀と評判であり、監督辞任した後にソフトバンクホークスが打撃コーチとして招聘しようとした情報が出たぐらいである。
有名ではあるが、真弓明信の祖先は「広有射怪鳥事」の登場人物、隠岐次郎左衛門広有である。
広有は後醍醐天皇から、妖怪・以津真天を退治した褒章として、五位の位と、“真に弓を射る者”の意味として『真弓』の姓を賜れた。
この姓が現代まで続いているのである。
詳しくは当該記事を参照。
通算:23年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 2051 | 7270 | 6624 | 957 | 1888 | 292 | 886 | 200 | 55 | 40 | 534 | 17 | 953 | 139 | .285 | .338 |
掲示板
45 ななしのよっしん
2021/03/08(月) 20:09:14 ID: 3QArip+txP
当時の平均選手寿命で球団が42歳までサポートしても届かなかったからそれはもう仕方ないわな。
名球会は無理でも監督としての実績があれば殿堂入りを狙えたがそれも残念な結果だし。
怪我が多くなければ2000本安打と300本塁打を達成できたから色々惜しい。
ただそれでも真弓が人気も実力もあった名選手だったのも疑いようがない事実。
どのポジションに置いてもそつなくこなしていた万能性や、
今のところ球団唯一の日本一の立役者としてファン記憶に残り続ける。
46 ななしのよっしん
2021/07/27(火) 13:22:43 ID: FKDSong3hA
「1982年に首位打者を獲得。」とありますが真弓さんが首位打者を獲得したのは1983年です
47 ななしのよっしん
2023/10/19(木) 21:43:47 ID: out7SZC9Fq
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最終更新:2025/04/22(火) 03:00
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