真里谷信興 単語

マリヤツノブオキ

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真里谷信興(まりやつ・のぶおき 1433 ~ 1511)とは、上総戦国大名である。武田初代当武田信高の子。武田信。子に信勝、信清がいる。

概要

甲斐武田氏から独立して上総武田氏をした武田信長の孫にあたる。
当時の甲斐武田氏は上杉禅秀の乱上杉方に味方したことで当武田信満(信の曽祖)が追討を受けて自害したため、甲斐が不在となって内は群雄割拠の様となった。
信満の子である武田信重・武田信長兄弟甲斐内で獅子奮の働きを見せ、所領を守っている。
のちに甲斐武田氏は足利成氏に属し変えている。

1456年に成氏の命により、山内上杉氏の所領であった上総に兵を進めてこれを奪った。詳細は不明だが、恐らく信長・信高・信子3代で行われたものと思われる。
これを機に信長1458年にと庁南城の2つを本拠として築した。ここに上総武田氏が成立した。
には信長と信が、庁南城には信高と信が入った。

信長が老齢を更に過ぎても信高に督を継がせなかったようであり、1477年に病してからやっと信高が督を継いだとされる。
しかし信高も3年後の1480年に病している。

自身は1464年に上総如寺(現在千葉県木更津市)を開基している。
ちなみに当時の関東永享の乱が絶賛開催中であり、成氏に味方していた上総武田氏も巻き込まれていた。

1479年ごろからどうやら信高が病でせっており、太田道灌武蔵千葉氏の千葉自胤を誘って成氏に味方する下総千葉氏の千葉孝胤と共に攻撃を受けた。
上総武田氏もこのころには2つの本拠兄弟で分け合っていたこともあり、と庁南(上総武田)に分裂したようである。
それでもの攻撃に対して兄弟力を合わせて必死抵抗を見せた。
しかし結局降を余儀なくされ、両武田氏の勢力は一時的に衰退した。

普通ならば、上総・下総の大半を制圧した武蔵千葉氏の優勢は揺ぎかったが、下総千葉氏・両武田氏の領民武士が反抗して従わなかったため、武蔵千葉氏の領内経営はうまくいかず、1483年の永享の乱の終了、1486年の太田道灌君による暗殺ならび1487年の享徳の乱の勃発で千葉自胤が全撤退を余儀なくされ、1493年の自胤の死去により外敵の心配がくなり、勢力も回復し維持することができた。
こうして氏の難局を切り抜けた信は、督を嫡男・信勝に譲って1511年に病した。

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