石井四郎(1892‐1959)とは、日本の陸軍軍人および軍医である。最終階級は陸軍軍医中将。
千葉県山武郡千代田村にて、大地主の四男として生まれ育つ。金沢の第四高等学校を経て京都帝国大学医学部に進み、1920年に卒業。そして陸軍軍医学校に進み、軍人となった。
1923年には東京第一衛戍病院に勤める陸軍二等軍医だった。この年には関東大震災が起きているが、石井のその際の働きが素晴らしかったとのことで、東京市が出版した『東京震災録 別輯』に掲載された「勳勞者」の一覧に氏名と活躍内容が掲載されている。その記述によれば、震災発生後に石井は多くの患者の避難指揮を成功させ、その後火事が病院に迫った際には芭蕉の葉で体を覆いつつ決死の防火活動を昏倒するまで行うなど、「勇敢機敏にして犠牲的精神の発露にして功績偉大」であったとのこと。[1]
後に京都帝国大学大学院にも派遣され、細菌の研究によって1927年に医学博士号を取得。さらに同年には当時の京都帝国大学総長の娘と結婚している。[2]
1936年には5月に浜松市で起きた大規模な食中毒事件「大福餅事件」に際して、東京の陸軍軍医学校防疫研究室から浜松市に出向き、食中毒の原因追究に協力している。
1939年のノモンハン事件においては関東軍防疫部の長として防疫給水に活躍した。効果的な濾水機を発明し、これは「石井式濾水機」として試用された後に実用性ありとみなされ「九八式衛生濾水機」として陸軍に制式採用もされている[3]。1941年には「軍陣衛生に関する研究発明考案」について「陸軍技術有功賞」を授与されている[4]。石井式濾水器は東京大空襲の際にも救護所において使用されたという[5]。
この濾水器に関連して、石井個人として複数の特許も取得している[6]。また、他にも「細菌培養罐」という一時に多量の細菌を培養しうる器具も開発しており、こちらも特許を取得している。[7]
第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍において、関東軍防疫給水部(満洲第六五九部隊、659部隊)の長を務めた。この関東軍防疫給水部の中で、満州のハルビンにあった本部こそがかの有名な731部隊(満洲第七三一部隊)である。
この731部隊においては、表向きの任務である防疫・給水だけではなく生物・化学兵器の開発が行われ、さらに数多くの非道な人体実験を行われていたとする数多くの証言と、少数の文書資料が存在する。詳細は「731部隊」 の記事を参照されたい。
ちなみにこの731部隊が発足したのは1940年であるが、上記のように1939年のノモンハン事件で活躍していることからもわかるように、それ以前から既に石井が率いる部隊は活動していた。その頃には「加茂部隊」「東郷部隊」等の名称で呼ばれていたとされており、「加茂部隊長石井四郎」の名は国立公文書館アジア歴史資料センターで公開されている軍の公文書内にも登場する[8]。
なお戦後にGHQによって行われた731部隊関連人物への取り調べに際して、「Ryoichi NAITO」[9]や「Enryo HOJO」[10]は、「石井四郎は「Hajime TOGO」[11]という変名(alias)を用いていた」と供述したという[12]。「東郷部隊」の「東郷」はこの変名に由来するものか。あるいは部隊名に由来する変名を用いたのかもしれないが。
細菌戦の効果について石井が「ABEDO」理論という基礎理論を打ち立てたとする資料もある(『金子順一論文集』に含まれる『PXノ効果略算法』内に「ABEDO説」として、また後述する「フェル・レポート」に「"ABEDO" theory」として登場する)。
終戦間際、ソビエト連邦が参戦して731部隊が所在するハルビンに迫った。731部隊員の中には脱出に失敗してソ連軍に身柄を拘束された者も居たが、石井を含む多くの幹部は日本への帰還に成功した。
当時大本営参謀だった陸軍中佐の朝枝繁春がインタビューで語ったとされる内容によれば、この帰還の手はずを整えたのは朝枝であったという。これに先立って朝枝は石井四郎と会見を持ち、撤退の具体的な方法、全ての痕跡の抹消、施設の破壊、マルタ(人体実験の対象者)の焼却廃棄などを石井に伝達した。この時石井は朝枝に対して「研究データだけは持ち帰りたい」と食い下がったが、却下されたという。[13]しかし後述するが、結局石井はこの命令を遵守せずデータや標本を持ち帰っていたようだ。
終戦後、アメリカは731部隊の幹部の身柄を押さえて尋問しはじめた。アメリカが機密指定を解除して公開した資料によればアメリカは、石井が上記の表彰を受けたという情報や捕らえた日本人捕虜から得た情報などから、終戦の前から既に「石井率いる731部隊が細菌兵器を開発しているのではないか」と疑っていたようだ。
石井は当初アメリカ側の追及をごまかして切り抜けようとしたようで、731部隊に関する著作のある「青木冨喜子」氏が入手した石井による当時のメモには、1945年11月の日記としてアメリカ軍情報部の将校6人を自宅に呼んで接待したという記述があり、その晩のメニューまで細かく書いてあるという。
さらに1945年11月10日には、姿を隠そうとしたのか、出生地である千葉県で石井の偽装葬儀までが行われたようだ。しかし翌月12月のアメリカ側の資料に既に「Report of 11/10/45 on ISHII's staged funeral in Chiba & accusations of atrocities & human experiments」(和訳例:「45年11月10日の千葉にての石井の偽装葬儀、そして残虐行為と人体実験の疑惑に関する報告」)と題した書類が存在するため、偽装はバレバレだったようだ。
1. The Imperial Japanese Government will immediately escort Major General ISHII to Tokyo and hold him at the disposal of General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers.
2. Imperial Japanese Government will advise This Headquarters immediately upon General ISHII's arrival in Tokyo and will report in detail, giving the present whereabouts of General ISHII, reason for non-appearance and date by which his arrival may be expected, provided he has not reached Tokyo by 2400 (Midnight) 16 January 1946.
3. General ISHII was appointed Commanding General of the Kanto Gun, Boeki-Kyusui Bu on 1 March 1945. It is reported that he is now in the Kanazawa Area and that his whereabouts are known to ISHIKAWA Tatsuo, Professor of Pathology at Kanazawa Medical College.
(簡略化して超意訳:「もしもし大日本帝国政府?お前らの関東軍の防疫給水部の長だった石井軍医中将って奴な、俺らGHQの所に連れてこいや。もし一週間以内に連れてこれなかったら、今どこに居ていつ東京に来るのか教えろ。それと、どうもこいつ今は金沢あたりに居て、金沢医科大学の病理学教授のイシカワタツオ[18]って奴が居場所知ってるっぽいかんな」)
という要求も突き付けられているが、一週間後の1月16日には日本政府側から「居場所がわかりませんでした」という回答が届いている。
しかしそれから間もない1月24日付の「石井が自宅で尋問を受けている」という内容のアメリカ側文書があるようなので、結局居場所を突き止められてしまったようだ。
こうして結局GHQに身柄を押さえられた石井は、他の731部隊幹部とともにアメリカ側から部隊での活動に関する調査・尋問を受けた。しかし4つ存在する調査・尋問報告書のうち、前半の2回の報告書(1945年11月1日の第一次『サンダース・レポート』、1946年5月31日の『トムソン・レポート』)においては人体実験に関する内容は含まれておらず、情報の秘匿に成功していたものと思われる。
しかし1947年1月にソ連側が石井らの尋問を要求したことで風向きが変わる。ソ連は身柄を拘束した731部隊を独自に尋問し、731部隊において人体実験が行われていたとの証言を得ていた。その証言に基づいて、ソ連側代表による石井らの尋問を要求したのである。これはアメリカ側にとっては寝耳に水の情報であったらしく、その後にわかにGHQと米国国務省の電報記録などで「石井らの尋問をソ連に許すか否か」「石井らからの情報を戦犯訴追の証拠とするべきか(石井らを戦犯として裁くべきか否か)」等が盛んに議論されていたという。
そして、アメリカは石井ら731部隊幹部に対して追加の尋問を行い、多くの情報やデータを引き出した。それらは1947年6月20日『フェル・レポート』と1947年12月12日の『ヒル・レポート』の2つのレポートにまとめられ、それらの中には前記の2つのレポートには無かった人体実験に関する記述が盛り込まれた。
なお、「終戦後に、『ゲイシャ・ガール』の接待などによりGHQの高官らの懐柔を試みた」ことで知られる[19]実業家「安藤明」が、石井四郎が米軍からの罪の追及を免れたことに何らかの役割を果たしたという以下のような話もある[20]。だが、医師の集まりの席で安藤明が自己申告した話であるとのことで、その信頼性は不明。
氏の語る事実は奇々怪々で我々の意表をつくものばかりで完全に酔わされてしまつた。ところが石井軍医少将(当時)を氏がかばつて遂に米軍の追跡を免かれさせたくだりになると,N軍医少将(友人で中途退席)が「石井君は男らしくない人物だ」と例をあげて非難し「終戦の時彼は多くの部下を捨てて自分だけ逸早く飛行機で日本内地に逃げ返つたのは男の風上におけない振舞だ」と罵つた。
『フェル・レポート』では石井にインタビューするのみならず、石井に論文を書かせる予定であるという内容が含まれている。
h. General Ishii, the dominant figure in the B.W. program, is writing a treatise on the whole subject. This work will include his ideas about the strategical and tactical use of B.W. weapons, how these weapons should be used in various geographical areas, (particularly in cold climates), and a full description of his "ABEDO" theory about biological warfare. This treatise will represent a broad outline of General Ishii's 20-years' experience in the B.W. field and will be available about 15 July.
(和訳:「h. 石井中将(この生物兵器計画の主要人物である)、彼は全計画に関する論文を書いているところである。この論文は戦略的・戦術的な生物兵器使用に関する彼の着想を含むものとなるだろう。様々な地理学的地域(特に寒冷地)においてこれらの兵器をいかに運用するべきかについて、そして生物兵器に関する彼の「ABEDO」理論の余すところない概要についてである。この論文は石井の生物兵器分野における20年の経験の大綱を示すものとなると思われ、おそらく7月15日頃には入手できる。」)
その他の詳細は『フェル・レポート』の記事を参照されたい。
『ヒル・レポート』内では「BOTULISM」(ボツリヌス中毒)や「BRUCELLOSIS」(ブルセラ症)について「Dr. Shiro ISHII」(石井四郎博士)への尋問に基づく以下のような記述がある。文中の「M」は「人間」を指していると言われる。
November 22, 1947
INTERVIEW WITH:
Dr. Shiro ISHIIExperiments in M were conducted with 5 subjects who were fed a 2-day old culture. Two of the subjects died.
(※「Experiments in M~」以下の和訳:「Mを対象とした実験は、2日間培養された検体を5被験体に投与することによって実施された。これらの被験体のうち2体が死亡した。」)
November 22, 1947
INTERVIEW WITH:
Dr. Shiro ISHIIExperiments in M were carried out by the subcutaneous injection of more than 20 subjects. Does not remember the result of such experiments except that undulant fever followed injection and persisted for many months.
(※「Experiments in M~」以下の和訳:「Mを対象とした実験は、20体以上の被験体に皮下注射することによって実行された。これらの実験がどういった結果を迎えたかについては、注射に続いて波状熱が生じ何か月間も遷延したことを除いては記憶に無い。」)
『ヒル・レポート』には多数の標本を入手したことも記されている。つまり石井(あるいはその部下)は朝枝から通達された軍命を厳守せず、標本を持ち帰っていたと思われる。
これらの情報はアメリカにとって貴重で有用なものであり、他者の手(other hands)に渡すわけにはいかない、と『ヒル・レポート』は明記している。このあたりが、これらの証言が公開軍事法廷の裁判資料とされず石井ら731部隊員が戦犯として訴追を受けなかった理由に関連していると思われる。
上記の、アメリカ側が作成したレポートや青木冨貴子氏が入手したメモ以外には、戦後の石井の発言などはあまり残されていない。ただし「殺人事件の捜査資料」という意外なところに石井の発言記録が残されている。
この、1948年に起きた有名な殺人事件「帝銀事件」は毒物を使用した殺人事件であったが、その毒物の使用法が非常に特殊であったために素人ではありえないとされた。そして警察は「戦時中に日本軍内で毒物を研究した何者かが犯人ではないか」と睨んで、可能性がある部隊をリストアップし、その中に731部隊も含まれていたのである。
そして当時の捜査官は石井四郎に面会しており、その証言内容が捜査記録として残されていたという。
【資料4】『甲斐捜査手記』第5巻(1948 年4月 27 日)
(二)坂和―仲西
(1)石井四郎に面会
アセトンシアンヒドリン[青酸ニトリール]
分子式は分るが自分の部隊では研究して/ないので効果は判らぬ
アンプルを終戦当時持って行ったものや効果は/調べてやる/一口に言って毒ガス
青酸加里は分量により時間的に生命を保持させられるか否か出来る 致死量多くすればすぐ倒れる
分量により五分―八分 一時間三時間翌日/どうでも出来る(之は絶対的のものである)
研究したものでないと判らぬ
ソ聯に包囲された時の自決用に/富永の部下軍医中尉二人が貰いに来た[25 頁]
ドラムカン半分位分けてやった/俺の方でもそんな事があった/二時間半位やった(話をした)
俺の部下にいるような気がする 君等が行っても/言わぬだろう
一々俺らの処へ聞きに来る/十五年二十年俺の力で軍の機密は厳格で/あるので仲々本当の事は言はぬだろう/俺が真から言ふているを信じてないだらう 極力協力しているが非常に忙しい(一時間も話をした仕末で――)/参謀本部も手を廻して聞いてやる
九研は石井さんの反動部隊である/(俺が行かなかったので下ツパを集めて何かコソコソやっていたらしい)/何時でも俺の処へ来い出典:捜査一課係長・甲斐文助『帝銀事件捜査手記』第5巻(帝銀事件再審弁護団所蔵)25- 26 頁。/は原文の改行。下線は原文で右傍線。[ ]内は山田の補足。
短い証言内容であるが、「俺の力で」「参謀本部も手を廻して聞いてやる」「何時でも俺の処へ来い」などと、自分の影響力について非常に自負のある人物であったようだ。
そうでありつつも「俺が真から言ふているを信じてないだらう」「俺が行かなかったので下ツパを集めて何かコソコソやっていたらしい」などと、自分を信じなかったり蔑ろにする人々への反感を持ちやすい人物であったらしいことも伺える。
ただし録音記録などではなく書き留められた手記のようなものであるため、捜査官の主観が入っている可能性はある。
なお、この捜査資料の中には他にも元731部隊の人物である「岡本耕三」[22]や「早川清」の証言が含まれており、米軍/GHQとの取引についてや生体解剖についてを短いながらも証言している。
この捜査資料以外に、医学・医療業界の業界紙である『日本医事新報』の1948年10月号に以下のような文章が掲載されている[23]ことからも、「石井部隊の隊員の関与が疑われ、石井四郎も捜査に応じた」ことは確かであるようだ。
ハルピンの石井四郞氏はいち疾く引揚げて來たが追放の爲めたつきに窮し牛込邊りで宿屋を營んで居る。今度の帝銀事件はその殘虐さから云つて、警視廳では恐らく舊石井部隊の兵員であろうというのでその方面を探索し、石井氏も搜査に協力したそうである。
戦犯を免れた石井はその後、東京の若松町の自宅で公的な立場からは退いて暮らした。
1952年の国会議事録には「石井四郎は若松町で「博愛医院」という医院を開業していたが、業務不振のため1951年までで廃業した」という政府委員からの答弁の記録もある[24]。
上記の青木冨貴子氏が若松町で石井四郎を知る者がいないか聞き込みをしたところ、生前の石井を知る人物から「終戦当時は、今で俗にいうパンパン屋をやっていた」「石井荘とか若松荘とか、そんな看板があった」「間違えてうちに“ハロー”ってアメリカ人が入ってきた」といった証言を得たという。ただし単なる風聞であるとも言え、実際のところは不詳。
しかし、石井と親交があった陸軍大将「岡村寧次」が「当時石井は、自宅を以て旅館を経営していた」と記している[25]し、また上記の1948年の『日本医事新報』の文章にも「たつきに窮し牛込邊りで宿屋を營んで居る」とあり、さらに上記の1952年の国会議事録においても、「石井の妻が「旅館若松荘」を1951年まで経営していた」といった内容があるので、「パンパン屋」であったのかはともかく、宿屋を経営していたのはおそらく確実であり、「若松荘」という看板があったとしてもおかしくはない。
「純粋に旅館を経営していただけだが、米軍との人脈から米軍人が出入りしており、それを見た周辺住民が「パンパン屋」だと勘違いした」ということも考えられるだろう。あるいは前述のように、「米軍を女性による接待によって懐柔しようとした」ことで知られる安藤明と石井四郎につながりがあったという話がもし事実であるとしたなら、あながち「荒唐無稽で唐突な話」とも言えないかもしれない。
また米国のCIAが機密保持期間が終了して公開した内部資料の中には石井四郎に関するものも少数ながらあり[26]、その中に「財政状況のために自宅を旅館に転用しているが、所在地に問題があり経営状態は悪い」という記述があり、さらにその旅館の所在地を説明する走り描き程度の地図も掲載されている[27]。つまり米国の人間が何らかの目的でこの旅館に足を運んでいたらしいことも伺われる。
晩年には近所の寺に通って禅問答に明け暮れたり、キリスト教の洗礼を受けようともしていたという情報もあるという。
1959年に病没。戒名は「忠誠院殿大医博学大居士」だったという[28]。上記の岡村陸軍大将は
わが医学界でも、伝染病研究所関係者を始め石井の研究を高く評価する者があり、既に結論は出ているのであるから、モルモットその他の動物で再試験して学界に公表すべしと石井を激励してくれる者もあり、石井は将来を楽んでいたが病死したのは惜しいことであった。
と記し、その死を惜しんでいる。
掲示板
8 ななしのよっしん
2020/08/20(木) 18:09:39 ID: w4PFu6fh9s
ぶっちゃけ細菌兵器の開発とか人体実験なんて当時の列強各国が挙ってやってた事なんだから日本だけやってなかったなんてことは無いんじゃねーかな
結局は勝てば官軍って事だろ
9 ななしのよっしん
2021/02/21(日) 12:43:13 ID: 4Prz0qfp+R
>>8
勝てば官軍ってソ連はしらんけど少なくともそれ以外の連合側は
同意のない民間人やら捕虜使って人体実験なんてしてないし
10 ななしのよっしん
2021/04/21(水) 11:23:46 ID: 7ojhP7Lhw0
>>9
アメリカのMKウルトラ計画をご存じない?
それとも陰謀論扱いにする?どこの国も生物兵器を研究するなら人体実験やってたぞ、というか人体に試すんだから検証は絶対に必要だからやらないのはむしろおかしい
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/23(木) 16:00
最終更新:2025/01/23(木) 16:00
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