神保長職 単語

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ジンボウナガモト

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神保長職(じんぼう・ながもと ? ~ 1572?)とは、越中婦負(現富山市西部)・射水(現射水市高岡市西部氷見市)を中心に活動した武将。生涯の大部分を越中覇権獲得にそそぎ、上杉謙信に何度も勝負を挑んだドM武将不屈の武将である。

概要

神保家の没落

神保長職の属する神保室町幕府越中守護・畠山氏によって越中射水・婦負の守護代に任ぜられた系であり、現在富山市西部射水市あたりを領地としていた。ちなみに同様に新の守護代に任ぜられた系が神保の宿敵となる椎名であり、礪波の守護代に任ぜられたのが遊佐であった(礪波の支配権は後に瑞泉寺・勝寺ら一向一揆に奪われる)。

越中地図青色が礪波赤色射水黄色が婦負緑色が新神保領はの地域)

長職の祖神保の頃には明応の政変を追われた第10代将足利義材を放生(現射水市)に匿い、同じく足利義材を支持した周防大内義興日本海交易で結びつくなど神保越中で最大の勢を誇っていた。

しかし、長の子神保慶宗は当時急速に勢を拡大しつつあった一向宗と結びつく方針をとり、一向宗討伐のため越中に侵攻した越後の長尾を見殺しにした(諸説あり)ために越後長尾の恨みを買うこととなる。神保と狙うの子・長尾為景能登畠山氏の要請を受けて越中一向一揆討伐のため出し、神保慶宗を始めとし椎名慶胤・土肥氏といった越中の有力武将の多くを滅ぼした。

この時に神保は壊滅状態に陥り、神保長職は若くして神保の座に就きこれを復させることとなる。越中の東半を制圧した長尾為景事前の約定に従って畠山氏から新守護代に任ぜられたが、本越後の支配も盤石でない現状を顧みて椎名長常を又代官に任じて越中を間接統治する方策をとる(ちなみに婦負射水の新しい守護代は任じられてないため、畠山では神保の復暗黙の了解を得ていたものと考えられている)。

こうして長尾軍事背景とした椎名長常越中の均衡と安定を保つという体制が成立し、以後二十年ほど神保は逼塞の時代を送ることとなる。

神保家の最盛期

神保長職は椎名長常を中心とする安定した越中情勢の中で順調に勢回復させ、享4年(1531年)には本願寺内の内部抗争である大小一(享錯乱)で加賀に出兵できるほどをつけた(戦い自体には大敗したが)。

文十二年(1543年)に長尾為景が病死したとの報を聞いた長職はこれを好機とみて、婦負-新である神通を渡河して富山の築を行った。これは椎名長尾への実質的な宣戦布告に等しく、この動きを認めない椎名長常と長職の間で富山を中心として抗争が繰り広げられた。能登守護・畠山義続の介入によって長職の富山を条件として和は成立したものの、神保椎名の対立は越中全体を巻き込んでさらに拡大してゆくこととなる。

神保長職は神通(現富山市部)に進出するに当たって、富山郷に得分権を得つつ椎名長常によって排除されていた土肥を利用していた。椎名との和後は土肥支援を名に常願寺以西の地域への進出を進め、越中におけるを増大させていった。さらにこの間神保長職は一向宗を通じて武田信玄との同盟も結んでおり、越中における神保椎名の抗争は次第に武田信玄上杉謙信の代理戦争の形を取ってゆく。

1550年代には隣能登畠山において内紛が起こっていて兵を動かさなかったが、永二年(1559年)には再び椎名への攻撃を開始した。その頃、椎名では椎名康胤が、長尾では長尾景虎(以下上杉謙信)が新しく当となっており、一旦は上杉謙信の仲介を受けて兵を退けた。

しかし、翌永三年に長職は停戦協定を破って椎名康胤を攻撃したために初めて上杉謙信の攻撃を受けた。圧倒的な武を有する上杉謙信く間に富山攻略し、越中大山に数えられる堅・増山攻略してしまう。この時神保長職は瑞泉寺門徒衆の助けを得て五箇山に匿われたと言われるが、上杉謙信はこれで越中の大半を制したと考えて今度は関東への遠征に専念した。

謙信北陸を離れている間に長職は再び態勢を整え、永五年(1562年)には再び椎名との戦いを再開した。謙信椎名康胤の要請を受けて七月に長職を攻撃したが、短期間で一旦越後に帰する。その間に長職は神通の戦いで椎名軍を撃破、一気に椎名康胤の居(越中大山の一つ)まで攻め上がった。

…神保長職が越中統一に最も近づいた間であった。

家中の分裂

度重なる長職の攻撃にれを切らしたのか、同年十月上杉謙信は再び越中に侵攻し長職を増山に追い詰めた。絶体絶命危機に長職も謙信への対抗を諦めざるを得ず、能登畠山に仲介を頼むことでなんとか神保滅亡を免れた。

中の滅亡は逃れたものの、以後の神保では上杉と反上杉が対立して勢を衰退させていってしまう。神保長職の長男である神保長住一向宗との外交を担当していた寺嶋職定が従来よりの一向宗武田との同盟継続を支持していたのに対し、新に小島職鎮一向宗武田と断交して上杉との同盟を強化することをして台頭しつつあった。

九年には能登畠山において臣が畠山義続・義綱子を追放する事件が起こっており、これを保護した謙信越中の諸将に畠山子帰還作戦への協めた。この要請によって越中諸将は一向宗方につくか上杉方につくかの最終決断を迫られるようになり、畠山に恩義のある長職は上杉に協して畠山を救援するをとった。

十一年(1568年)謙信畠山子帰還作戦の準備を整える中で、椎名康胤上杉謙信に反旗を翻すという大事件が起こる。椎名康胤神保有利な和を結んだ謙信に不満を抱いており、密かに武田信玄の調略を受けて謙信越中を訪れた絶妙のタイミングで反乱を起こしたのだった。これと並行して神保中における内部分裂は一層化し、長職は徐々に中における実権を失っていった。最終的には謙信の介入を受けて神保長住を始めとする反上杉は追放されてしまい、また反椎名の感情から長職は上杉の路線を明確にするも実権は小島職鎮に握られつつあった。

晩年

神保長職は上杉謙信と協して椎名康胤一向宗と戦ったが、容易に決着はつかず戦線は一旦着した。堅に依った椎名康胤は長期間に渡る抵抗戦の末遂にを手放したものの、一向宗は依然として強固であった。

しかしへの上をなんとしても実現しようとする武田信玄の仲介によって神保長職は再び一向宗と同盟を組んで反上杉路線をとった何度の反上杉行動なのか

ここに一向宗神保椎名の旧越中の三大勢の同盟が成ったが、所詮越中一丸となって謙信に対抗するには遅すぎた。一向宗体とする大軍は一時富山を奪還して神通沿いに上杉との間で戦が行われたが、最終的には垂坂の戦いにて大敗し旧神保領の多くは上杉によって征されていった。

も、神保長職が神保落を見届けたかどうかは定かではない。元二年には出して宗を名のっているが、それ以降の記録が残っていないため程なくして長職は亡くなったと考えられている。

一生を戦乱に明け暮れつつも、実りの少ない一生であった。しかし、長職が築いた富山佐々成政の時代に越中全体の中心地として整備され、現代に続く富山市の基礎となった。富山と、そこから発展した富山市こそが神保の残した最大の遺産なのかもしれない。

一向宗との友好関係を築きつつ壊滅した神保を復椎名康胤といった宿敵を圧倒しているため、準以上の実はあったものと思えるが、如何せん相手が悪すぎた。もし長職が越中の守護代としてスタートしていれば、もしかしたら違った結果が得られたのかもしれない…

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける神保長職一覧

越中の武将」の代表扱いなのか、地味に皆勤である。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 44 政治 57 89 野望 70
武将風雲録(S1) 戦闘 56 政治 51 65 野望 58 教養 60
覇王 采配 60 戦闘 61 智謀 40 政治 52 野望 50
天翔記 戦才 126(B) 智才 80(B) 政才 124(B) 60 野望 51
将星 戦闘 59 智謀 44 政治 60
烈風 采配 55 戦闘 48 智謀 57 政治 59
世記 采配 49 智謀 51 政治 53 野望 46
蒼天録 統率 50 知略 46 政治 59
下創世 統率 51 知略 46 政治 60 教養 56
革新 統率 61 武勇 57 知略 52 政治 69
統率 61 武勇 57 知略 62 政治 69
創造 統率 58 武勇 58 知略 62 政治 67
大志 統率 57 武勇 57 知略 62 内政 66 外政 65

大体富山として登場するが、微妙値と少ない臣に加え、史実通りに東から軍が攻めてくることもあって結構なマゾプレイを強いられる(それでも一部の勢よりはマシだが)。

逆に上杉謙信プレイした場合はほぼ通り扱いであるorz

北陸の中でもかなりの地味大名であり、空気扱いされることも多い→ステルス神保家

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