OB | |
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神部年男 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 兵庫県加古郡 |
生年月日 | 1935年1月20日 |
身長 体重 |
175cm 78kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1969年 ドラフト2位 |
引退 | 1982年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高砂高等学校に進学。在学3年間で甲子園大会には手が届かなかった。
卒業後、三菱製紙に入社し、準硬式野球で活躍。その後、富士製鐵広畑へ移籍。1966年の都市対抗野球大会に住友金属の補強選手として出場して完封勝利を挙げるなど活躍。同年のドラフト会議で読売ジャイアンツから3位氏名を受けたが、プロへは進まず残留。1968年の都市対抗野球では松下電器の補強選手として出場し、優勝に貢献して橋戸賞を受賞。翌1969年の都市対抗野球にも出場している。
1969年ドラフト会議にて、近鉄バファローズから2位指名を受けて入団。同期入団には、甲子園を沸かせた太田幸司がいた。
入団初年度の1970年から登板機会を得て、38試合に登板。8勝7敗、防御率3.25と好成績を残した。
1971年、チーム最多の51試合に登板して10勝9敗、防御率3.21を記録。
1972年、先発ローテーションの一角に定着し、13勝9敗、防御率2.39を記録。オールスターゲームにも初出場している。
1973年は7勝にとどまったが、1974年には12勝7敗、防御率2.38と安定感を発揮。
1975年、開幕投手を任されると、4月の南海ホークス戦でノーヒットノーラン達成するなど、10勝を挙げる活躍を見せた。
以降も近鉄の先発投手として活躍を続けたが、1979年、チャーリー・マニエルらとのトレードで、ヤクルトスワローズへ移籍。
ヤクルト移籍後も先発投手として起用され、1979年は6勝、1980年は3勝を挙げている。1981年は抑え投手を任され、1勝3敗10セーブ、防御率3.54という成績を残した。
引退後は、ヤクルト、近鉄、オリックス・ブルーウェーブ、オリックス・バファローズ、起亜タイガースなどで投手コーチを務めた。
クセのない投球フォームと持ち球のカーブ、完投能力の高さが特徴の右腕。牽制を得意としており、数多くの名スプリンターたちを苦しめた。
通算:12年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 370 | 57 | 15 | 90 | 89 | 16 | --- | .503 | 1577.1 | 510 | 762 | 608 | 552 | 3.15 |
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最終更新:2025/04/26(土) 19:00
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