稲川誠 単語

イナガワマコト

1.5千文字の記事

稲川誠(いながわ まこと)とは、元プロ野球選手である。

概要

1936年7月25日生まれ。福岡県福岡市出身。

生まれは満州国の新であったが、戦後に引き揚げ、福岡県福岡市で育ち、中学時代には県内でも有数の投手として知られていた。

修猷館高等学校に進学。ただ、高校時代は野球よりハワイアンバンドを組んだり、生物部や山岳部に所属し昆虫採集登山を楽しむなど学生生活謳歌していたようである。

卒業後、立教大学へ進学。2学年上には「立教三羽」と称された長島茂雄杉浦忠本屋敷錦吾らがいた。大学時代は日本学生野球協会結成記念野球大会で完封勝利を挙げる活躍を見せたが、3年時に背筋を故障したリーグ戦では1勝も挙げることはできなかった。

卒業後、富士室蘭に入社。1960年都市対抗野球大会エースとして出場したが1回戦敗退。日本産業対抗野球大会では八幡の補強選手として出場し、チーム優勝に貢献。翌1961年都市対抗にも出場している。

1962年大洋ホエールズに入団。

初年度から先発聴取の一を担い、12勝7敗、セ・リーグ5位の防御率1.98と新人ながら好成績を残した。

1963年、開幕から勝ちを積み重ね、オールスターゲームにも初出場し、1965年まで3年連続で出場している。最終的には26勝17敗、防御率2.42を記録。年間26勝は球団(大洋横浜大洋横浜DeNA)の歴代シーズン最多勝利記録となっている。

1964年リーグ最多の40試合先発し、21勝13敗、防御率2.91をマーク

その後も1965年には11勝、1966年には10勝と大洋先発投手を支えた。

だが、肩を痛めたことやこれまでの酷使もしたか、以降は低迷。1967年は3勝、1968年には二軍イースタン・リーグ記録の11連勝を記録するも一軍では0勝に終わり、同年限りで現役を引退

引退後も大洋に残り、一軍投手コーチ二軍投手コーチスカウト、寮長などを務め、スカウト時代には佐々木主浩斎藤隆鈴木尚典多村仁志ら球界を代表する選手たちを担当。球団がDeNAに変わった2012年まで横浜一筋を貫いた。

人物・エピソード

キレのある直球と2種類のカーブ武器秋山登とともに大洋エースとして活躍した右腕。

王貞治が一本足打法本塁打を放った最初の投手でもある。

スカウト時代には松坂大輔を担当していたが、クジを外した際には人をはばからず流したそうである。

満州国にいた頃には、中国軍に追い立てられ収容所に送られた挙げ句病に冒され生死のをさまよい、帰後にはから「中国に置いていくことも考えた」と告白される、という壮絶な少年時代を過ごしている。

趣味ウクレレの収集・飼育キャンプの宿舎でサナギを育てていたというエピソードも残っている。

通算成績

投手成績

通算:7年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 304 50 18 83 70 --- --- .542 1343.2 484 785 488 415 2.78

記録

関連項目

この記事を編集する

掲示板

  • 1 ななしのよっしん

    2025/09/23(火) 09:51:23 ID: juHxmU+iaa

    時代が時代なら余裕で100勝はできていただろうから惜しまれる
    長く球団に携わったことから当時の大洋横浜に関する述懐も多く生き字引的な意味での貢献度も高い

  • 👍
    0
    👎
    0

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/10(水) 00:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/10(水) 00:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP