OB | |
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立花義家 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 福岡県大牟田市 |
生年月日 | 1958年10月27日 |
身長 体重 |
180cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手、内野手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト1位 |
引退 | 1993年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1958年10月27日生まれ。福岡県大牟田市出身。中学時代にはエースで4番として活躍し、地区でも有名な選手であったという。
柳川商業高等学校に進学。同期には久保康生がおり、久保がエースとして起用されたため、外野やファーストでの起用が中心であった。九州きっての巧打者として名を馳せ、2年時に春の甲子園大会に、3年時に夏の甲子園大会に出場している。
1976年ドラフト会議にて、クラウンライターライオンズから3位指名を受けて入団。指名時には広島東洋カープ以外の球団は拒否し、広島以外から指名された場合は松下電器へ進むという姿勢であったが、周囲から「高校生野手の1位指名なんてめったに無いことだから」と説得され、クラウン入団を決めた。ポジションは外野手として登録された。
入団初年度は一軍出場は無かったが、2年目の1978年は春のキャンプで臨時コーチを務めていた松木謙治郎コーチから高い評価を受け、一軍メンバー入り。主に2番センターとして起用され、124試合に出場。規定打席にも到達し、打率.250、39打点、13犠打を記録。
1980年、田淵幸一や土井正博、大田卓司といったベテラン陣や、新加入のスティーブ・オンティベロスの好調もあり、下位打線を任され7番打者として起用されたが、チームトップとなる打率.301を記録し、18本塁打、60打点と好成績を残し、恐怖の7番打者として存在感を放った。
1982年、スタメン出場を減らし、打率.251、1本塁打、25打点と成績を落としたが、要所で活躍し、パ・リーグ制覇・日本一に貢献。
1983年は復調し、規定打席には届かなかったものの、打率.309、8本塁打、42打点を記録し、パ・リーグ連覇に貢献。日本シリーズでも、加藤初から逆転本塁打を放っている。
1984年以降は伸び悩んだことに加え、田尾安志の加入や金森栄治の台頭もあり出場機会は激減。それでも左の代打としてしぶとく活躍し、1986年には打率.268を記録。1989年・1990年には11打点を記録している。
1991年、一軍出場無しに終わると、金銭トレードで阪神タイガースへ移籍。
阪神でも代打の切り札として起用され、59試合に出場して、打率.237、1本塁打、7打点を記録し、2位躍進に貢献したが、同年限りで阪神を退団。
1993年、台湾プロ野球の俊国ベアーズで1年間プレーした後、現役を引退。
引退後、サラリーマンとして働いた後、1998年に福岡ダイエーホークスのコーチに就任して球界に復帰。以降、古巣の西武をはじめ、オリックス・ブルーウェーブ、千葉ロッテマリーンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスなどでコーチを務めた。
勝負強い打撃で活躍した左打者。特に満塁の場面に強く、通算で5本の満塁本塁打を記録している。
プロ初本塁打は、西武ライオンズ球場(現:ベルーナドーム)公式戦第1号本塁打であった。
通算:14年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1149 | 3369 | 3053 | 317 | 801 | 51 | 318 | 33 | 83 | 19 | 185 | 29 | 475 | 48 | .262 | .309 |
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最終更新:2025/04/09(水) 06:00
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