第四艦隊事件単語

ダイヨンカンタイジケン

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第四艦隊事件とは、1935年9月26日岩手県三陸で発生した台風による難破事件である。

概要

来るべきアメリカとの戦争を見越していた大日本帝國海軍は、1935年7月20日より大演習を開始。訓練中の拠点は函館港だった事から、演習や訓練は北海道東北で行われた。9月14日室蘭巡洋艦足柄爆発事故を起こしたものの、それ以外は順調に推移。最後は第一、第二艦隊からなる常備艦隊(軍)と、臨時で編成された第四艦隊(赤軍)に分かれ、対抗演習を行って締めくくる予定だった。

9月25日、旗艦足柄に率いられて軽空母龍驤鳳翔、潜水母大鯨巡洋艦14隻、駆逐艦20隻以上が函館を出発。決戦域である三陸東方へと向かった。この時、日本海には2つの台風が存在していた。しかしいずれも艦隊進路にいと予報がなされており、演習計画に変更はかった。それでも念のため、ランチや短艇などを固縛する荒準備を各艦しっかり整えていた。1つ台風は難なくかわしたが…。

翌26日、2つ台風が突如進路を変更。このままだと午後には艦隊に直撃すると予報された。この台風をかわすべきだと唱える意見もあったが、既に上は荒れ始めており、下手に一斉回頭を行えば衝突事故に発展しかねない危険性をんでいた。また実戦に即した訓練が出来るとして、第四艦隊は台風に自ら突っ込む進路を選択。航路は変更されなかった。ところが、この台風は史上まれに見る台風であり、第四艦隊は文字通り翻弄される事になる。

灰色に支配され、は大荒れになった。時折襲い来る驟が各艦の甲く。凄まじい波頭はぶつかり合い、三角波となって艦を飲み込もうとする。絶え間ないピッチング(縦揺れ)とローリング(横揺れ)は歴戦の乗りすら酔わせ、大鯨の艦では洗濯や洗面器が並べられた。何かに掴まっていないと立てないほどの動揺が続く。視界は2、300m程度も波は15~20mに達し、艦の外に立つ者はカッパを着て任務に臨んだ。14時頃、ついに暴圏に突入。風速50mのが襲来。各艦に損傷が続出し、めて自然の前では人間などである事が思い知らされた。夕方頃になってようやくが弱くなり、第四艦隊は自然の猛威から解放された。

台風は凄まじかった。大鯨は防が破壊され、電を喪失。人力での操を強いられた。駆逐艦初雪と夕は波濤により艦首切断、睦月は艦が圧壊。菊月夕月の4隻は艦損傷、と群体に裂が走った。空母龍驤は艦前部が損傷し、鳳翔は波浪により飛行甲板前端が損壊した。これ以外の艦も大小様々な被害を受け、乗員54名が死亡した。損傷が大きい艦は脱落を余儀なくされ、残った艦艇のみが対抗演習に参加。東京品川に集結し、伏見殿下臨席のもと講評を行って10月7日にどうにか終了させた。

影響

10月10日野村三郎大将委員長とする問会が開かれた。この第四艦隊事件で明らかになったのは、まず電気溶接部分の脆弱性であった。実際、電気溶接を多用した大鯨では体にシワが発生していた。同時に極端な軽量化と過度な重武装化が祟り、特型駆逐艦の強度不足が露わになった。このため問会は全艦艇の強度調と補強を実施し、以降の建艦には対策を加えた設計が施された。その甲斐あって、同様の事故は二度と発生しなくなった。

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最終更新:2024/03/29(金) 21:00

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