第11号輸送艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した一等輸送艦11番艦である。1944年11月5日竣工。多号作戦第八次輸送に参加し、12月7日、サンイシドロ湾で撃沈された。
第一号型輸送艦とは帝国海軍初の一等輸送艦である。特務艦特型とも。正式名称は第一号型輸送艦なのだが、他に分類された艦が無かった事から、艦種名の一等輸送艦とも呼ばれていた。
今まで輸送任務は駆逐艦や水上機母艦、民間から接収した輸送「船」が担っていたが、1942年8月より始まったガダルカナル島争奪戦にて、多くの駆逐艦や輸送船を強行輸送の末に失った事により、1943年中期に軍令部から2種類の輸送艦の計画要求が出された。この計画案から誕生したのが一等輸送艦と二等輸送艦だった。
第一号型輸送艦は最初から輸送任務を念頭に置いて設計。生産性を高めるため、丙型海防艦や丁型海防艦に用いられている簡易線図を流用し、ブロック工法と電気溶接を採用して工期を大幅に短縮、およそ1ヶ月程度の工事で完成出来るよう目指している。敵勢力圏内での強行輸送を視野に入れ、12.7cm連装高角砲、25mm対空機銃(艦によって数と位置が変動)、爆雷投下軌道1条、九三式探信儀、九三式水中聴音機、22号水上電探を装備。電探装備に限れば駆逐艦並みもしくはそれ以上の充実が図られた。一等輸送艦は駆逐艦そっくりの見た目をしていたためアメリカ軍から駆逐艦と誤認される事もたびたびあったという。
肝心な輸送能力は補給物件260トンを積載可能、浜辺への緊急輸送を可能とする大発4隻を持ち、これらの舟艇は艦尾に設置されたスロープからそのまま海へ発進出来るため、洋上停止せずとも補給任務が可能だった。戻って来た舟艇は3基のデリックで回収する。
1944年7月18日に呉海軍工廠で起工、8月25日発令の達第279号で第11号輸送艦と命名され、同日中に進水、9月30日に艤装員長として石井泰介少佐が着任し、そして11月5日に無事竣工を果たした。艦長には石井少佐が据えられるとともに戦時編制で連合艦隊附属となる。
第11号が就役した頃、本土・南方資源地帯を結ぶフィリピンは奪還を目指すアメリカ軍の上陸を受け、帝國海軍の総力を挙げた捷一号作戦も大損害をこうむって敗退、アメリカ軍の撃退は現地を守備する帝國陸軍の奮戦に委ねるしかなくなった。
陸軍は当初のルソン島地上決戦の方針からレイテ島決戦に切り替え、これに伴って海軍はルソン在中の陸軍兵力をレイテに輸送する多号作戦を開始。マニラを策源地とし強行輸送を行っていた。だが、道中の制海権・制空権はともにアメリカ軍に握られ、「船の墓場」と比喩されるほど駆逐艦、海防艦、輸送船の被害が増大。1隻でも船が欲しい南西方面艦隊の意向で、第11号は大した訓練期間も無く、地獄が顕現したフィリピン方面へ駆り出される事となる。
11月19日に呉を出港、12月3日、多号作戦の出撃拠点となっているマニラに進出した。マニラ港内には、米機動部隊の執拗な空襲で撃沈された船舶のマストが墓標のように乱立し、地上施設も多くが無残に破壊されているなど、これらの破壊的風景が、策源地であっても決して安全ではない事を物語っている。これまで多号作戦の護衛を担っていた駆逐艦竹、霞、潮、初霜、朝霜も全滅を避けるためブルネイに退避していて、護衛兵力は駆潜艇や海防艦のみに限られていた。
第11号輸送艦は第八次輸送作戦への参加が決定。第68旅団の主力約4000名を分乗させた赤城山丸、白馬丸、第5眞盛丸、日洋丸を、駆逐艦桃、梅、杉、第18号及び第38号駆潜艇、そして第11号輸送艦が護衛する。指揮を執るのは梅に座乗する第43駆逐隊司令・菅間良吉大佐。第68旅団とは、1941年6月、満州公主嶺の陸軍教導学校の生徒で編成された遊撃専門の部隊で、全国から選抜された優秀な兵のみが所属する精鋭であった。
12月5日午前10時30分、オルモックを目指して第八次輸送部隊がマニラを出撃。速力6ノットで突き進む。オルモック湾への突入予定日は7日17時30分としていたが…。
その矢先の12月7日、オルモック南東約7kmの集落デポジト南方海岸でもアメリカ軍の上陸が始まり、またレイテに近づくにつれ敵の妨害も激しくなってきた上、アルベラ方面にもアメリカ軍が揚陸中との報告が入ったため、菅間大佐は予定を変更し、揚陸地点をオルモックの北方約48kmのサンイシドロとした。
一方、アメリカ軍はと言うとデポジト上陸作戦に忙殺され、第78.3任務群司令アーサー・W・ストラーブル少将がオルモック北西約120kmのビサヤ海を南下する第八次輸送部隊の存在を知ったのは、12月7日午前8時15分の事だった。彼の指揮下には16隻の駆逐艦いたが、上陸作戦で忙しいので第5航空軍に船団攻撃を要請。第5航空軍はタクロバン飛行場で待機していたF4Uコルセア21機、P-40ウォーホークとP-47サンダーボルト各16機に1000ポンドもしくは500ポンド爆弾を搭載させ、緊急出撃させた。
1944年12月7日午前10時にサンイシドロまで到達した第八次輸送部隊は早速揚陸作業を開始。だがその30分後、B-24リベレーター爆撃機70機が大挙襲来し、それが終わると次は戦爆連合98機が出現、絶え間のない波状攻撃を仕掛けてきた。直ちに駆逐艦3隻が応戦してコルセア2機を撃墜。上空援護の零戦約10機も決死の覚悟で敵機の群れを押し留めようとする。
輸送船4隻と第11号輸送艦は浜辺に乗り上げて物資の揚陸をしていたので、空襲下にあってマトモな回避運動が取れず、降り注ぐ爆弾や機銃掃射の嵐に、ひたすらじっと耐えるしかなかった。一番不運なのは白馬丸だった。B-24の集中爆撃により2分で沈没。船員、陸兵、船砲兵隊員、物資全てが海没して生存者ゼロとなってしまう。他の船も人的被害は凄まじく日洋丸の船員4名だけが生き残ったという。
激しい空襲の中、第11号輸送艦は第68旅団の兵員の大半を揚陸成功。続いて野砲の揚陸を開始するも、正午にコルセアから4発の爆弾を喰らって浅瀬に着底。強行輸送の結果、第11号輸送艦と輸送船4隻は全て大破放棄と相成り、護衛艦艇も敵機から機銃掃射を受けて杉が小破、梅は前方機関室に不発弾を喰らって軽微な損傷を負っている。
空襲が終わった後、第11号輸送艦や輸送船から物資の運び出しが行われ、若干の軍需品と野砲2門は陸兵が担いで持っていたため、物資全損という最悪の結末だけは辛くも避けられた。弾薬も半分程度は持ち出す事に成功している。空襲時の死傷者は350名。生き残った船員たちは第68旅団とともに山の中へと入っていったという。
これ以上空襲を受けると全滅の危険性がある事から第八次輸送部隊はオルモックより退却。第5航空軍の追撃をも振り切って何とか生き延びた。17時31分、菅間大佐は桃に対してサンイシドロの輸送船の状態を調査するよう命令、しかしもはやどうする事も出来ず、そのままマニラへ帰投した。
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最終更新:2025/12/07(日) 23:00
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