第159号輸送艦とは、大日本帝國海軍が建造・運用した二等輸送艦の1隻である。1944年9月16日竣工。第七次多号輸送作戦に参加して見事成功させた。12月11日、オルモックへの敵前強行揚陸を行い、戦車隊や迫撃砲の集中砲火を受けて大破放棄されるという壮絶な最期を遂げた。総戦果は敵機1機撃墜。
大東亜戦争開戦当初、帝國海軍は輸送艦を持っておらず、輸送船や駆逐艦あるいは水上機母艦に物資を積載して輸送艦代わりにしていた。しかし1942年8月より始まったガダルカナル島争奪戦で多数の輸送船と駆逐艦を失い、敵制空権下を高速で突破する専用の輸送艦が必要だと痛感。独自に研究を開始した。
1943年6月に軍令部が艦政本部に設計を命令し、7月より開発に取り掛かった。幸運にも同年春に同盟国ドイツの仮装巡洋艦がイギリス軍の戦車揚陸艇LCT-Mk.5の図面(北アフリカ戦線でアメリカ軍から奪取)を持ってきており、また島嶼への逆上陸用揚陸艦を開発していた陸軍の興味も誘った事で、日本にしては珍しく陸海軍協力体制で開発が進められた。設計は海軍が担当し、LCT-Mk.5や大発動艇の設計を取り入れて艦政本部が基本的な設計を、詳細設計を呉海軍工廠が行って図面を完成させる。資材は陸軍側が工面。9月に入ってから建造が正式決定され、早くも11月には1番艦が起工した。最終的に75隻が量産されている。陸海軍協同で造ったため陸軍でも運用、その際の名称はSB艇(Sは戦車、Bは海軍設計を意味)となった。
コンセプトは敵勢力圏下への強行輸送。このため高速性と強力な兵装が与えられたが、その一方で形状に直線や平面を多用したり、電気溶接やブロック工法の導入で生産性の向上にも力を入れている。建造の際は前部・中央部・後部の3つの区画に分けて製造され、電気溶接または鋲接で接合。船型は長船尾楼型を採用。中央から前方に向かって盛り上がり艦首に平らな下開きランプを持つ。防水性には劣るが量産性に優れ、万が一浸水した時はビルジタンクに排水した。
何より特徴的なのは艦橋前方の3分の2を占める長大な車両甲板。船倉内の上甲板部を車両甲板とし、ここに戦車や車両などの輸送物件を積載する。車両甲板の両舷側は防水区画になっていて戦車兵や陸戦隊員の居住区に割り当てられた。揚陸の際は曲線を描いた艦首部分を浜辺に乗り上げ、艦首の門扉を開いて内部の戦車を発進させる方式であり、輸送船や駆逐艦を使った揚陸より遥かに迅速であった。船底は二重底になっているため擱座させても損傷を負わない。離岸する時は後部バラストタンクに注水して艦首を持ち上げ、揚陸地点の200~300m後方に投錨した艦尾の錨をウインチで巻き上げて後進する。船体が平板形状なので波の影響を受けやすく、本来であれば好天下を選んで輸送を行わなければならないのだが、輸送作戦時はそんな事言ってられないので四苦八苦しながら揚陸作業を行った。九五式軽戦車だと14輌、大型の特二式内火艇だと7隻、九七式中戦車だと9隻が搭載可能。煙突左後方には小発動艇を、右後方には9mカッターを艦載艇として装備。
第159号輸送艦は2A型戦時標準船型貨物船と同じ蒸気タービンを積載した第103号型に分類される。ディーゼルを積載した第101号型より煙突が長く、機関スペースが圧迫されて貨物積載能力が低下しているが、計画通りの速力を獲得している。元々兵装は8cm単装高角砲1門や25mm三連装機銃2基のみと貧弱なものだったが、マリアナ沖海戦の戦訓から対空機銃が増備され、更に爆雷投下台6基と爆雷12個を搭載した事で最低限の自衛が出来るようになった。また船体の強化も行われている。弱点は輸送艦特有のアンバランスな形状から荒天下での航行能力に劣る事(一応復原性能を高める事で対策している)、最大速力は13~16ノットと一等輸送艦と比べると低速な事、攻撃を受ければそのまま撃沈されかねない防御力の低さが挙げられる。敵勢力圏下への強行輸送というコンセプト上、過酷な戦場に投入される事が多く、平均寿命は僅か2ヶ月。3ヶ月近く生きられた第159号はまだ幸運な方だったと言える。
要目は排水量810トン、全長80.5m、全幅9.1m、出力1200馬力、最大速力16ノット、重油搭載量68トン、乗員89名。兵装は8cm単装高角砲1門、九六式25mm三連装機銃2基、同連装機銃2基、同単装機銃11丁、爆雷12個。他にも電波探知機と測探儀を持つ。積載能力は戦車135トン、戦車用燃料6.9トン、弾薬11.3トン、糧食33.6トン、真水24.2トン、その他軍需品15トン。
3ヶ月足らずの戦歴で第159号輸送艦は鹿児島→基隆へ第2航空艦隊の要員と物件の輸送を、基隆→コレヒドール島へ戦車隊の輸送を、第七次多号輸送と、最後の戦いとなった第九次多号輸送を見事成功。輸送中に航空攻撃を受ける事も多かったが対空射撃で1機撃墜している。また一時的ではあるが第1輸送戦隊の旗艦も務めた。二等輸送艦の中では珍しく、第九次輸送船団参加時に迷彩塗装をしていた事が分かっている(アメリカ軍が撮影した写真をよく見ると迷彩塗装らしきものが確認可能)。一等輸送艦・二等輸送艦ともに「迷彩塗装を施した」という記述が残っていないため第159号が唯一の例ではないかと思われる。ただし白黒写真であるため色合いまでは不明。
1944年2月5日、官房軍機密第136号により第159号特設輸送艦と命名される。6月10日に日立造船向島工場(広島県尾道市)で起工、7月8日に進水し、9月5日に第159号輸送艦へ改名するとともに艤装員長の白川壽大尉が着任。そして9月16日に艤装作業を完了して竣工。無事海軍に引き渡された。同日中に呉鎮守府へと編入、戦時編制により連合艦隊補給部隊に部署し、艤装員長の白川大尉がそのまま艦長に就任する。
兵科87名、機関科40名、工作科2名、看護科1名、主計科4名の134名が尾道で第159号輸送艦に乗艦したが、機関長の河野六郎中尉だけはいなかった(9月22日乗艦)。竣工した直後にも関わらず発電機燃料ポンプが原因不明の動作不良を起こしたため後に呉工廠で修理している。
産声を上げた第159号輸送艦が最初に行う作業は、呉へと回航して兵装を受け取る事だった。9月18日午前6時に尾道を出発、16時45分に呉へと入港して戦うための準備を開始。まず9月20日に重油を積載、21日に機銃を装備し、22日に糧食を、24日と25日の両日を使って清水と弾薬を積載した。続いて乗組員に対する訓練を9月26日より開始。広島湾にて25mm機銃の試射、公試、諸訓練、接岸訓練を行い、9月28日に呉へ帰投。連合艦隊司令部は海防艦八十島、第9号、第111号、第135号、第136号、第158号、第159号輸送艦の7隻で第1輸送戦隊を編制、特令あるまで待機を命じた。
10月2日午前8時35分に操舵機確認運転のため呉を出港。翌日の修理で不調だった舵取機械の修理が完了したため、来るべき前線投入に備えて広島湾で訓練を重ね続ける。第1輸送戦隊の旗艦は八十島であったが、旗艦設備搭載工事を佐世保工廠で行う予定があってしばらく動けないため、マニラ進出の足として出港が近い第159号輸送艦に戦隊司令の曾爾章少将が乗艦。将旗を掲げて旗艦となる。
そして10月5日午前9時45分、最初の任務である第2航空艦隊の展開輸送に従事するべく広島湾を出発。命令を円滑に出せるよう一時的に第2航空艦隊の指揮下に入った。翌6日午前6時37分に鹿児島湾へ到着して人員72名と物件約100トンを積載。22時に同じくフィリピン方面へ向かう第139号輸送艦が鹿児島湾に入泊、輸送戦隊司令部より極力行動を共にするよう命じられる。台風接近に伴って10月7日から8日にかけて警戒停泊。10月9日は敵情の関係で出港延期。
10月10日午前6時、駆逐艦霞、梅、桃の護衛を受けて第139号輸送艦とともに出港。台湾北東部基隆へ向かうが、運悪く米機動部隊が台湾方面に接近しているとの情報が入り、高雄航空基地から退避命令を受けて反転。午前11時には第2航空艦隊参謀より敵艦上機多数が沖縄、奄美大島、宮古島を襲撃しているとの続報がもたらされた。13時30分に山川港へと退避。結局出発出来たのは10月12日午前7時50分の事だった。
沖縄を眼前に控えた10月13日に第139号輸送艦が合流し、同日17時45分に経由地の那覇へ寄港。3日前に行われた十・十空襲により那覇の港湾施設は破壊し尽くされていた。
先の空襲で潜水母艦迅鯨が撃沈され、遭難者を出していた事から第159号輸送艦に捜索要請が出され、10月15日午前7時5分に那覇を出発、迅鯨が撃沈された地点である瀬底島へ移動する。10月17日に南西方面艦隊へ転属。本来基隆到着後は鹿児島へ帰投して第二次輸送に参加するはずだったが、この転属を以ってオルモック緊急輸送こと多号作戦の参加が実質決定した。10月18日午前10時30分に第159号は連合艦隊に高雄及び基隆への入港可否を問い合わせている。10月19日午前7時2分、捜索を切り上げて瀬底を出発。那覇へと向かっていた道中、偶然にも波間を漂う迅鯨の遭難者12名を発見・救助し、午後12時34分に那覇へと入港して遭難者を降ろした。後は目的地の基隆を目指すだけだったが台湾沖航空戦の影響で出入り禁止となっていたため那覇で待機。
10月24日午後12時5分に那覇を出発。ところが翌25日13時35分、基隆沖73度40海里の所で突如機械が故障して航行不能に陥ってしまう。自力復旧の見通しは立たず、米潜水艦が遊弋する危険な海域で身動きが取れなくなる最悪の事態になってしまうも、伴走者に第139号輸送艦がいたため14時より曳航を開始、攻撃を受ける前に基隆外港まで到着する事が出来た。
10月26日午前10時35分、曳船の支援を受けて何とか陸岸に係留。第2航空艦隊の人員及び物件を基隆へ揚陸して輸送任務を成功させる。その後は台湾船渠会社にてタービンの検査を実施。10月29日、マニラに拠点を置く第3南遣艦隊用の特二内火艇9隻、糧食、弾薬、燃料、その他軍需品、人員208名(内訳は内火艇分隊員85名、陸軍暗号員62名、陸軍兵61名)を積載。タービン検査によって第159号が思わぬ足止めを喰らったため、ここで第139号輸送艦と別れる事となり、第139号はタマ31A船団に加入して一足先に台湾を出発していった。
作業員102名による82時間の検査を受けて部品を換装し、10月30日に検査完了するとともに三号缶並びに二号送風機についた瑕疵の修理を行い、翌31日は艦内哨戒第二配備を発令しつつ乗組員25名で清掃を実施。11月3日に基隆港内で機関の試運転を行う。11月5日17時、空路でマニラに向かうべく曾爾少将が退艦。これに伴って将旗を降ろした。
その頃、フィリピン方面ではマニラを策源地にしてオルモック緊急輸送こと多号作戦が敢行され、レイテ島を攻略せんとするアメリカ軍を撃退するための増援を送り続けていた。しかし制海権と制空権は完全に敵に握られ、激しい空襲によってマニラ・オルモック間の航路は「船の墓場」と揶揄されるほどの大損害が発生。1隻でも輸送艦が欲しい南西方面艦隊は第1輸送戦隊に支援要請。11月7日、高雄で船団を編制したのち可及的速やかにマニラへの進出を命じられる。遂に地獄への入り口が開いた瞬間だった。同日18時、基隆武官府よりキタ2船団への加入命令が下る。
11月8日15時にキタ2船団と出港、翌9日15時30分に高雄へ到着する。
11月10日午前6時52分、第38号と第102号哨戒艇、第38号掃海艇、第43号駆潜艇が護衛する高雄発マニラ行きのタマ31B船団に加入して出発。ところが22時52分に第102号哨戒艇の舵が故障する事態に見舞われたため、翌11日16時12分に高雄近郊の左栄泊地へ臨時寄港して応急修理。11月13日午前1時29分に左栄を出発して激しい空襲下に置かれているマニラを目指す。
しかし最短ルートだと敵潜の襲撃を受ける危険性が高まるため、大陸接岸航路を取りながらまず海南島方面に向かい、同日23時26分、海南島北部の海口へ寄港。11月15日17時43分に海口を出港し、フィリピンと台湾の間にあるバタン諸島サブタン島、ムサ湾、クリマオを縫うように進む。
11月19日午前5時58分にルソン地区空襲警報発令。これに伴って午前7時17分、船団旗艦のさんとす丸から対空対潜警戒を厳にするよう指示が下る。タマ31B船団は中速の船舶で構成されていて、低速船団と比較すればまだマシだが、それでも敵襲を受ければひとたまりも無い。
午前11時9分、第38号哨戒艇が船団の170度方向に敵機を発見。白川艦長は直ちに対空戦闘用意の号令を下し乗組員が機銃にしがみつく。午前11時15分に船団は速力を上げながら対空射撃を開始。その直後に敵機が一斉に投弾を行い、第159号輸送艦の右舷艦首前方70m先に、さんとす丸の右舷船首付近に、陸軍第22号SS艇の付近に至近弾を示す水柱が築かれ、第22号SS艇が沈没。その4分後、第159号の25mm機銃が敵機を捉えて撃墜、さんとす丸の後部海中に突入した。喜ぶ間もなく午前11時21分に左舷100m先に爆弾が落下、10分後には新手の敵機16機が船団の左右を通過していくのが目撃される。無力なSS艇5隻は別の船にくっつく達着退避を実施。午前11時41分にさんとす丸が新たな敵機を発見、第二次攻撃が行われるかのように見えたが、午前11時45分、敵機約30機が左旋回して遠ざかっていたため攻撃は止まった。その間に沈没した船からの生存者収容が行われ、午後12時10分に第159号は戦闘配備のまま昼食を取る。13時30分に対空戦闘要具を収めて戦闘終了。
16時37分、船団に触接する敵機4機を発見して再び対空戦闘が開始されるも、すぐさま敵機が遁走したので1分後に要具を収める。一連の対空戦闘で第159号は1機撃墜の戦果を挙げた(船団全体で見ても2機撃墜のみと僅少だった)。18時8分にリンガエン湾口サンティアゴ島海峡で仮泊。夜になって空母艦載機27機による攻撃が行われたが船団への被害は最小限に留まる。
11月20日午前10時30分にサンティアゴ島を出発。日中に三度目となる敵の空襲を受けたが撃退し、翌21日17時30分にコレヒドール島へ戦車隊の揚陸を完了、19時45分にマニラ湾へ到着する。基地はアメリカ軍の激しい空襲を受け続け、軍港内は損傷した艦や多号作戦参加の輸送船、撃沈された艦船の残骸でひしめき合っていて簡単には入港出来ない有り様だった。11月24日午前6時50分にようやくマニラ港内へ到着。湾内には空襲で撃沈された重巡那智、軽巡木曾、駆逐艦初春、沖波、秋霜、曙、輸送船7隻、監視艇等の残骸が残り、破滅的光景を呈している。また基隆沖で第159号を曳航して救ってくれた第139号輸送艦も11月12日にルソン沖で航空攻撃を受けて沈没、マニラまで辿り着けなかった。
到着から翌日の11月25日午前7時40分、米機動部隊がルソン一帯を空襲。マニラ、クラーク、バタンガス、サンタクルーズ、サンフェルナンドが攻撃され、早速手荒い歓迎を受けた。この攻撃で重巡熊野、海防艦八十島、第10号、第113号、第142号、第161号輸送艦が撃沈される。
11月30日19時より多号作戦の打ち合わせを実施。第159号は7回目の輸送から参加する事になった。伴走者は第9号と第140号輸送艦、護衛は駆逐艦竹と桑が担当。マニラの陸海軍最高司令部はブラウエン飛行場攻略を企図し、当初の予定では第七次輸送で第68旅団を送り込むはずだった。しかし第三次と第四次が失敗に終わった事で軍需品が不足。大型船を以って第26師団用の軍需品を輸送する応急的な計画も、空襲によって輸送船に甚大な被害が発生して頓挫。急遽第七次輸送で軍需品を送らなければならなくなった。駆逐艦の不足は更に深刻で、駆潜艇や哨戒艇まで投入せざるを得なくなっている。
策源地のマニラと補給基地のあるオルモックは720km離れている。これは低速の輸送船では1日以上、高速艦でも17時間を要する遠い場所であり、道中には空襲や敵潜水艦の襲撃もある。これまで六次に渡って行われた輸送作戦は第二次と第四次を除いて失敗し、第三次に至っては加入艦船が駆逐艦朝霜以外全滅という惨憺たる結果に終わっていた。これには南方軍も衝撃を受け、大本営に作戦の続行不利を具申したが、方針の変更は無かった。優秀船舶や輸送艦にとって多号作戦は自ら死にに行くようなものと言えた。主力の第2遊撃部隊も11月中に引き揚げてしまい、今マニラに残っているのは僅かな駆逐艦や海防艦、輸送船、そして第159号のような輸送艦だけだった。そのマニラですら決して安全な場所ではなかったのである。輸送戦隊の機関参謀は各輸送艦を巡って「任務を果たさずして、絶対に帰ってくるな」と訓示しており、竹艦長の宇那木少佐は「陸上にいる参謀とは無責任なものだ」と思ったという。
12月1日18時、野戦高射砲大隊、独立工兵大隊を積載した第9号、第140号、第159号輸送艦からなる第七次輸送船団第3梯団が単縦陣を組んでマニラを出発。桑艦長の山下正倫中佐が船団の指揮を執る。出港直後に陸軍の三式潜航輸送艇(通称まるゆ)と遭遇した。多号作戦の輸送は往路のレイテ西方、もしくはオルモック湾で苛烈な空襲を受けて壊滅させられる事が多く、生還するだけで大成功扱いされるほどの難易度だった。したがって全滅を避ける目的で第七次輸送船団は3つに分割されている(本来は4分割であったが第3梯団と第4梯団が一纏めになった)。
幸運な事に第3梯団はスコールとローテーションの関係で空襲を全く受けず、12月2日の日中に敵哨戒機が飛来した程度であった。道中島影に隠れて時間調整を行い、空襲の危険性が無くなる夜半、23時30分にオルモック湾への突入に成功。順調な滑り出しを見せた。第159号輸送艦は他の輸送艦とともにイピルへの揚陸作業を開始。
日付が変わった12月3日午前0時、南方1万m先より3隻の艦影が湾内へと突入してきた。その正体は、航空偵察で第七次輸送船団の存在を把握し、レイテ湾から出撃してきた第120駆逐隊所属の米駆逐艦アレン・M・サムナー、モール、クーパーだった。1943年に就役したばかりの新鋭大型駆逐艦であり、小型で船団護衛を主任務とする松型駆逐艦には荷が重すぎる敵であった。実際迎撃に向かった桑が集中砲火を浴びて轟沈させられている。もし竹までやられてしまうと輸送艦を守る存在がいなくなる。桑がそうであったように無慈悲な火力の鉄槌が第159号輸送艦に下されるだろう。だが奇蹟は起きた。竹の孤軍奮闘によりクーパーを撃沈し、手酷くやられながらも残る2隻を撤退へと追いやったのである。戦闘が終わった頃に輸送艦も揚陸作業を完了。最初に第9号が、次に第140号が、最後に第159号が沖合いに出てきた。
しかし次なる脅威が輸送船団に襲い掛かろうとしていた。現在の時刻は午前3時。あと2時間で夜明けを迎えるのだが、それはすなわち敵の熾烈な航空攻撃が再開される事を意味していた。それまでに安全圏まで脱出しなければ今度こそ全滅は避けられない。竹は戦闘により大破状態、第140号と第159号は速力に劣る二等輸送艦なので時間的余裕は一切なく、やむなく桑の生存者を見捨てて脱出。第140号と第159号が先行してマニラを目指した。その途上で海面を漂う桑の生存者8名が声を上げて助けを求めてきたが船団は無視して突き進むしかなかった。彼らを助ければ自分たちが死ぬかもしれないのだ。しかし見捨てる事が出来なかったのか、最後尾の第140号が洋上停止して救助のカッターを降ろし始める。そんな第140号をも無視して竹、第9号、第159号はひたすら走り続けた(生存者8名を救助したのは第140号ではなく第159号とする情報もある)。
3日の朝、雲一つない快晴の空に9機の航空機が発見される。一時は対空戦闘が下令されたがよく見ると日の丸を付けた零戦であり、レイテ西方の危険海域を突破するまで上空援護をしてくれた。しかし昼頃にアメリカ軍の大型機が出現・触接してきたため竹が高角砲で追い払っている。夕刻、島影に隠れながら竹は第9号輸送艦から不足していた真水を受領。
そして12月4日18時45分にマニラへの帰投を果たした。後に第140号輸送艦も無事帰投している。ちなみに第1梯団は概ね揚陸成功、第2梯団は陸軍SS艇2隻撃沈の全滅であった。成功と言われた第七次輸送も明暗がはっきり分かれていたと言える。
地獄から帰投した先に待っていたのは別の地獄だった。12月6日13時27分、南西方面部隊電令作第793号により第九次輸送の実施が発令され、空知丸、美濃丸、たすまにや丸、第30駆逐隊の夕月と卯月、第21駆潜隊の第17号と第37号駆潜艇、第140号と第159号輸送艦の参加が決定。途中までだが第9号輸送艦も同行する事になった。マニラ停泊中のこの時に船体へ迷彩塗装を施したとされる。
12月7日午前3時5分、索敵のため出撃していた味方の水上爆撃機がオルモック湾175度35海里沖に約80隻からなる敵の輸送船団を発見。攻撃を加えたが護衛の敵駆逐艦5隻から砲撃を受ける。それから間もなくアメリカ軍の大部隊がオルモック南部のアルベイラへ上陸した。是が非でも揚陸地点を死守するため、伊藤徳夫少佐率いる海軍特別陸戦隊400名、特内火艇10輌を第140号と第159号に分乗させてオルモックに殴り込ませる敵前強行揚陸が立案された。同日午後に南西方面艦隊司令部にて輸送艦側と護衛側の第30駆逐隊が打ち合わせを実施するが、22時15分に出発日が延期となる。23時頃に米機動部隊接近の報がもたらされ、港外にはB-24が旋回しているなど、マニラ在泊中でさえ心休まる暇が無かった。
12月8日未明、敵機動部隊によるルソン島への空襲が予期される事から、湾口から約100海里の港外へ一時退避。正午頃に駆逐艦桐がマニラへ入港。桐も船団護衛に加わった。
12月9日14時、駆逐艦桐、卯月、夕月、第17号、第37号駆潜艇が護衛する第九次輸送船団に加わってマニラを出港。船団の指揮は第30駆逐隊司令の澤村成二大佐が執り、第140号と第159号は主力の高橋支隊4000名、糧食、弾薬、特式二型内火艇11輌、噴進砲26門を保有する海軍特別陸戦隊400名を乗せていた。19時30分に入った陸軍からの情報によると、アルベイラに上陸したアメリカ軍は戦車を揚陸してタクロバンを北上しているとの事だった。
翌10日午前1時10分にマリカバン海峡を通過、午前3時15分にベルテアイランド水道を通過、午前8時15分にタブラス海峡を通過。入港時刻を調節するため午前10時50分から一時的に反転。ここまでは何事も無かったが、14時11分にB-24が触接している事に気付いて夕月と卯月が対空射撃を行っている。天候不良のため味方の直掩機は飛んでこなかった。陸軍の偵察機からの報告によればオルモック湾内に敵船はいない様子だった。
当初はオルモックを目指して航行していた第九次輸送船団であったが、オルモックにて激しい戦闘が行われているとの情報が入り、揚陸地点を西方のパロンポンに変更。しかし間もなく南西方面艦隊からオルモックへの強行揚陸が命じられる(これは陸軍からの要請だった)。
12月11日午前4時17分に敵味方不明船舶を発見して戦闘準備が下令されたものの、午前4時25分に味方商船と判明。午前8時15分頃、77度方向に2機のB-24が第九次輸送船団を追跡しているのが発見され、第30駆逐隊が展開した煙幕の中に隠れる。だが敵機の触接は執拗を極め、午前10時38分にP-38戦闘機3機が右舷側より襲来し、味方直掩機と空戦を演じる。午前11時、レイテ島沖30海里で約40機のコルセアに襲われ直掩機とともに対空射撃で応戦、たすまにや丸が至近弾による浸水被害を受け、第159号輸送艦も若干の被害をこうむった。午後12時30分頃に第9号輸送艦がセブ島へ向かうため離脱。
この間にもオルモック方面ではアメリカ軍との戦闘が行われ、現地を守備する今堀部隊基幹約1200名は第140号と第159号が運んでいる増援部隊の到着を待ってアルベイラ方面の敵を撃破しようとしていた。
15時25分にコルセア約50機が襲来。迎撃により二十数機を叩き落としたが、美濃丸が大傾斜するほどの致命傷を受け、16時30分にたすまにや丸が轟沈、第159号もまた更なる被害を受けた。沈没寸前の美濃丸を救うため第九次輸送船団は行き足を止めて救難作業を行う。18時35分、卯月、第17号、第37号駆潜艇が生存者救助のため残留し、第159号輸送艦は第140号、空知丸とともに桐と夕月の護衛を受けながら南下を続けた。
1944年12月11日21時24分にオルモック湾へ突入。魚雷艇の侵入を阻むため桐と夕月は湾口を警泊し、第159号は新たな揚陸地点であるパロンポンの浜辺に艦首から突っ込んで敵前強行揚陸を開始、アメリカ軍の前面に殴り込みをかける。実はこの時、東へ数km先のイピルでもアメリカ軍が揚陸作業を行っており、もはや会敵は時間の問題だった。第140号より先に揚陸を開始したため水陸両用戦車・陸戦隊・機材全ての揚陸に成功。
しかし陸上のアメリカ軍第55師団から迎撃を受けて敵味方が入り乱れる乱戦へと発展。図体が大きい第159号輸送艦は集中攻撃を受ける。乗組員の中には未だオルモックを日本軍が維持していると思い込んでいた者もいたようで「撃つな!」「味方だ!」という絶叫が聞こえてきたという。皮肉な事にオルモックにはまだ第26師団が残っていたためその認識はあながち間違いではなかった。その悲痛な叫びを踏みにじるかのように駆逐戦車、迫撃砲、大砲から滅多打ちにされ、海上の米駆逐艦コグランからの砲撃も喰らって大破炎上。瞬時に着底させられてしまった。白川艦長が戦死した他、航海長の古賀三義中尉が行方不明になった。
近くにいた第140号輸送艦は揚陸地点付近での混戦を目の当たりにし離脱した事で助かったが、機材は6割程度しか揚陸出来なかったという。第159号輸送艦はその命を犠牲に全て揚陸させる壮絶なる最期を遂げた。12月15日にアメリカ軍がミンドロ島へ上陸したため第十次輸送は中止となり多号作戦は今回の第九次輸送が実質最後となった。実に49隻もの艦船が多号作戦で屍を晒してしまう結末に…。
伊藤少佐率いる上陸部隊は激しい攻撃を受けつつも敵の前哨線を突破、オルモックを防衛していた第26師団の一部と連絡を取り、2号ハイウェイに沿って北上を開始する。しかし米第77師団の妨害に遭ってルートを変更、北方にあるバレンシア飛行場の海軍設営隊と連絡を取ろうとしたがアメリカ軍の追撃により失敗し、上陸地点であるオルモック北西パロンポンの町へと追い詰められて壊滅した。
翌朝、廃墟と化した第159号の残骸がアメリカ軍に撮影されており、黒焦げになった船体からなおも二条の黒煙が噴き出しているのが分かる。陸上部隊とコグランは双方とも第159号撃沈の戦果を主張、コグランの記述が殆ど無いところから察するに陸上部隊の戦果として認められた模様(ちなみに第140号も第159号の大破原因を陸上砲としていた)。
1945年2月10日除籍。二等輸送艦の中で迫撃砲や戦車に撃沈されたのは第159号だけである。
第159号輸送艦は浜辺に擱座した状態で放置され、解体された記録は残っていない。その後、海面の上昇か風雨による移動かは不明ながら、海底に沈んで半ば漁礁になっているところをダイバーチームが発見。あちこちに亀裂が走って割れている部分もあるものの形を留めている。うっすらと迷彩らしき塗装も確認可能。
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最終更新:2025/12/10(水) 05:00
最終更新:2025/12/10(水) 04:00
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