第207号海防艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した丙型海防艦の1隻である。1944年10月15日竣工。僚艦と協同で米潜水艦ボーンフィッシュを撃沈する戦果を挙げた。1947年7月4日、賠償艦としてアメリカに引き渡されて8月13日に撃沈処分。
丙型海防艦(第1号型海防艦)とは、生産性を高めた戦時急造型の海防艦である。開戦劈頭より輸送船団を護衛するための艦艇が不足していた帝國海軍だが、戦争激化に伴ってより一層不足するようになり、簡略化を進めた鵜来型や日振型海防艦を設計・建造するに至った。ところが戦況の悪化でそれ以上の護衛兵力増強が求められたため、1943年3月頃より小型化及び簡略化を突き詰めた新型海防艦の設計に着手。これが後の丙型海防艦と丁型海防艦となる。
戦時急造を考慮して船型を小型単純化。建造の手間が掛かる曲線状を極力廃して直線状に置き換え、上甲板より上の船首楼舷側に直線状のフレアを設置、更にブロック工法を採用して建造スピードの底上げを図った。これら涙ぐましい努力によって工数を2万8000(御蔵型の半分)にまで削減。心臓部とも呼べる機関には駆潜艇に装備されている艦本式23号乙8型ディーゼルエンジン2基を使用。過給機が付いていない量産性の高いものだが、その分性能の低下を甘受しなければならず、出力は前級鵜来型と比べて4600→1900馬力に、最大速力も19.5→16.5ノットに低下し、航続距離まで短くなってしまった。また小型化の弊害で居住性と燃料搭載量も低下している。爆雷搭載数(120個)だけは死守したものの量産性と引き換えに様々なものを失ってしまった。ちなみに丙型と丁型は設計が殆ど同じの準同型艦で、奇数番号は丙型、偶数番号は丁型に割り振られている。決定的な相違点は機関にある。丙型は低出力だが燃費に優れるディーゼル機関を、丁型は逆に燃費は悪いが出力に勝る戦時標準船用の蒸気タービンを使用。異なる機関を搭載しているため煙突の位置や形状が異なる。ちなみに第207号は後の改装で、石炭でも駆動するよう改良された珍しい海防艦だったりする。
要目は排水量740トン、全長69.5m、全幅8.6m、最大速力16.5ノット、機関出力2500馬力、燃料搭載量120トン。兵装は45口径12cm単装高角砲E型2門、九六式25mm三連装機銃2基、三式単装迫撃砲1基、三式爆雷投射機12基、爆雷投下軌条2条、爆雷120個。丙型は計56隻が就役しているが、浪速船渠で建造されたのは第207号を含めても僅か4隻のみ(うち1隻は建造中止となっている)。
1944年5月17日、第2504号艦の仮称を与えられて兵庫県西宮市の浪速船渠にて起工。8月24日に進水式を迎えるとともに翌日第207号海防艦と命名され、9月16日に浪速船渠内で艤装員事務所を設置、9月30日に古山修郎少佐が艤装員長に任命される(実際に着任したのは10月3日)。古山少佐は1944年7月1日までの約2年間、第30号駆潜艇の艇長を務めたベテランであった。そして10月15日に竣工を果たす。艤装員事務所を撤去して古山少佐が艦長に就任、内令第1192号により舞鶴鎮守府所属の警備海防艦となり、笠戸、第63号、第64号とともに海防艦の訓練を一手に引き受ける呉鎮守府部隊呉防備戦隊へ編入。しばらく慣熟訓練に従事する。
訓練を終えた第207号海防艦は11月23日午前7時に呉を出港し、同日19時にヒ83船団が待つ門司へと回航。11月25日には第1海上護衛隊に編入され、いよいよ外洋へと漕ぎ出す時が来た。
11月26日20時、ヒ83船団を商船改造空母海鷹、駆逐艦神風、夕月、第25号、第35号、第63号、第64号海防艦とともに護衛して門司を出発。今回の護衛には対潜哨戒機を擁した海鷹が参加していたため、日中は海鷹から飛び立った哨戒機が目を光らせ、米潜水艦の雷撃を未然に防いでくれた。11月30日午前6時に台湾南西部の高雄へ到着。ここでヒ83船団はマニラ行きとシンガポール行きの二手に分かれ、第207号は後者の護衛に回る。みりい丸と第102号哨戒艇を船団へと加えて12月1日に高雄を出港。
12月3日午前5時22分、みりい丸が浮上中の米潜水艦パンパニトを発見して体当たりを仕掛けようとしたが、先に潜航されたため爆雷を投下。しかしパンパニトを追い払う事が出来ず、約1時間後に雷撃を受けて誠心丸が航行不能に陥る。この時、海鷹は船団の前路哨戒のため先行していて不在であり、対潜哨戒機の援護を受けられない状況にあった。第207号が誠心丸の護衛として残り、他の船舶は海南島楡林への退避を試みるも、そこへ米潜パイプフィッシュが放った魚雷が襲い掛かって第64号海防艦が沈没。船団は分散しながら楡林へ逃げ込んだ。12月5日、第207号、第63号、海防艦沖縄の3隻は第31海防隊へ転属となる。同日未明、先に楡林へ退避した船団からみりい丸が派遣される。午前10時頃には通りがかった第102号哨戒艇が第207号と誠心丸を発見して護衛に参加。間もなくみりい丸が現れて誠心丸と合流、16時30分より6ノットの速力で曳航し、翌6日に海南島の南南西に位置するインドシナのトゥーランへ入港。そして12月13日18時45分にシンガポールへ無事到着した。現地で護衛部隊の再編制が行われ、駆逐艦2隻と第35号海防艦が離脱、代わりに機雷敷設艦新井埼と海防艦沖縄が加入して計7隻となる。
12月26日午前11時58分、ヒ84船団(ヒ83船団が改称したもの)を護衛してシンガポールを出港、12月29日午前11時57分にサンジャックへ寄港する。この時に明石丸と生田川丸が離脱し、代わりに第27号と第34号海防艦が護衛に参加した。12月30日、南シナ海にて南下中の航空戦艦伊勢、日向、重巡足柄、軽巡大淀、駆逐艦朝霜、霞とすれ違った。目視による対潜監視が難しい夜間航行を避けるため23時57分にインドシナのビンホアン湾へ入泊して一晩を明かす。12月31日午前7時45分、十分明るくなったのを確認してからビンホアン湾を発つが出港直後に米潜水艦デイスに捕捉され、3本の魚雷がヒ84船団目掛けて伸びてくるも、幸い魚雷は全て外れて難を逃れる。18時4分に次の仮泊地であるクインホンへ到着。
1945年1月1日午前0時57分にクインホンを出発し、1月2日午前1時5分から翌3日午前7時55分までトゥーランで仮泊。しかし、海南島南方にてみりい丸が磁気機雷に触れて損傷、機関室に浸水被害が及んで船団から落伍した。ヒ84船団は1月5日18時40分に香港へ寄港。後にみりい丸が合流するが、損傷の大きさから船団に同行出来なかったため単独高雄へ向かう事になり、みりい丸を残して19時37分に香港を出発。上海東方の舟山列島を経由して1月13日17時25分に門司への帰投を果たした。1月15日午前7時45分に呉へ入港した第207号は10日間に渡って呉工廠で主機械起動用気蓄器の修理を行う。
アメリカ軍のグラティテュード作戦により南シナ海に米機動部隊が侵入、インドシナ沿岸冲や香港在泊の船舶33隻と練習巡洋艦香椎や丙型海防艦6隻を含む戦闘艦13隻が撃沈される大損害が発生した。これにより南方航路の閉鎖が間近に迫っている事を悟った帝國海軍上層部は、生き残っているタンカーをかき集めて「特攻輸送」を行う南号作戦を発動。次に護衛するヒ93船団はその南号作戦に呼応したものであった。1月26日に呉を出港して門司に回航。
1945年1月29日午前7時30分、第61号と第63号海防艦が護衛するヒ93船団(1TL型戦時標準船東亜丸、給油艦針尾)に加わって門司を出港。是が非でも燃料を持ち帰るため、味方の援護を受けやすく、浅瀬が多くて敵潜の襲撃を受けにくい大陸接岸航路を使ってシンガポールを目指す。2月2日に大西洋山へ寄港した時に第53号海防艦と東邦丸が加入。2月6日20時にインドシナのバンフォン湾で仮泊して危険な夜の航海を回避。明るくなった翌朝午前7時にバンフォン湾を出発するが、午前10時50分、努力むなしくバンフォン湾沖で右舷側から米潜バーゴールの雷撃を受け、東邦丸が右舷船首と四番タンクに被雷。1分後には第53号海防艦も被雷、真っ二つに艦体を折って沈没した。東邦丸はかろうじて航行可能の状態だったため、ヒ93船団は東邦丸を守りながら16時15分にカムラン湾へ緊急避難、何とか敵潜の魔手から逃れた。2月8日13時にカムラン湾を出発。2月9日午前8時40分にサンジャック近海で第61号が触雷損傷、急遽サンジャックに立ち寄って手負いの第61号と東邦丸を船団から切り離し、2月12日午後12時30分にヒ93船団はシンガポールまで辿り着いた。
貴重な燃料を満載した東亜丸と針尾で帰路のヒ94船団を編制し、2月23日午前7時55分、第63号海防艦やヒ94船団とシンガポールを出発。2月26日午前8時14分にタイランド湾オビ島沖で漂泊。針尾にて船団会議が開かれ、後に取るべき航路などを話し合った。午後12時30分、第11海防隊(第1号、第18号、第130号海防艦)が護衛に参加。味方の水上偵察機も飛来して盤石な防御体勢を構築する。オビ島沖を出発した後はインドシナ沿岸にギリギリまで近づいて航行。3月1日午前0時33分、濃霧による視界不良で船団の行き足が乱れ、第207号と東亜丸は他の艦艇を見失ってしまう。幸運にも大きな事故は無く、翌2日に楡林へ入港して先に投錨していたヒ94船団と合流。
3月3日午前8時1分、ヒ94船団は楡林を出発。ところが知らず知らずのうちにPBYカタリナ飛行艇が敷設した機雷原へ突っ込んでしまい、午前9時47分にバスティアン岬沖で針尾が触雷、ヒ94船団は慌てて楡林へ引き返した。浸水を食い止めようとする乗組員の決死の努力も実を結ばず、針尾は翌4日15時7分に沈没した。21時9分と22時1分の二度に渡って楡林に敵機が襲来したため対空戦闘を実施。
ヒ94船団は3月5日に再び楡林を出港。翌6日午前2時17分、B-24爆撃機1機が船団上空に出現して対空射撃で応戦、すると敵機は第207号の右舷45度方向に爆弾を投下して逃げ去った。そのB-24は駆逐艦(第207号海防艦)を撃沈したと報告するが、実のところ第207号は無傷であった。午前10時45分には敵大型機が触接にされたものの対空射撃で追い払っている。3月10日午前6時34分に黒牛湾を出発した後、ヒ94船団は機雷敷設艦新井埼と海防艦沖縄と合流。ところが、3月12日15時35分から翌13日午前6時35分まで生日島で仮泊した際、沖縄が機関故障を訴えたため仮泊地に残留。3月14日午前6時45分に代艦の海防艦隠岐が護衛に加入した後、敵潜水艦を探知して午前9時45分より戦闘爆雷戦を開始、爆雷2個を投下した。数々の苦難を乗り越え、ヒ94船団は3月15日午前7時25分に門司へ入港。針尾の犠牲だけで生還を果たした。
3月18日16時15分より佐世保工廠第7船渠に入渠し、修理を受けるとともに大規模改修を実施。生糧品庫の仮設、三式一号電波探信儀三型及び電波探知機三型の新設、重油燃焼装置付浴槽を石炭燃焼式へ改造、二号電探二型改四電磁ラッパの拡大、九六式25mm単装機銃に防弾鈑新設、二式並びに三式爆雷兼用投下軌道の改造などを行った。3月27日13時8分出渠。
4月3日、第1護衛艦隊電令作第16号によりAS三部隊第3哨戒部隊第13哨戒隊へ編入され、4月4日午前7時に第63号海防艦や沖縄とともに佐世保を出港。残された数少ない航路である日本・朝鮮間の通商保護と対潜掃討に従事する。4月5日午前8時に済州島へ到着して海防艦対馬、第41号、第55号の3隻と合流、翌6日午前6時3分に済州島を発って対潜哨戒を行いつつ、上海へ向かうモシ03船団の通過を援護した。その後も対潜哨戒を行いながら中国大陸方面へ向かい、補給のため4月24日18時24分に青島外港で投錨。重油、石炭、生糧品、真水、酒保物品の補給を受ける。
5月4日午前3時30分に青島を出港。5月6日20時、上海から舞鶴へ回航中の寿丸(元イタリア客船コンテ・ヴェルデ)の護衛に加わり、PBMマリナー飛行艇やB-29爆撃機による度重なる襲撃を退けた後、護衛より離脱。5月9日13時15分に韓国の木浦へ到着した。5月22日20時53分、第63号、第192号海防艦、金輪が護衛するコ01船団(じゃかるた丸1隻のみ)と合流、第207号と入れ替わる形で第63号が離脱していった。
6月11日、第1護衛艦隊は第31海防隊を舞鶴護衛部隊の指揮下に入れ、続く6月15日に護衛部隊第1掃討隊へと編入。富山湾沖で対潜掃討を行う。6月19日午前6時15分、バーニー作戦で日本海側へ侵入していた米潜水艦の1隻、ボーンフィッシュ(1526トン)が七尾湾で坤山丸を雷撃で撃沈。警報を受けた第31海防隊の第207号、沖縄、第63号が現場海域へ到着し、ソナーによる探知を開始。やがて沖縄のソナーが潜航中のボーンフィッシュを捕捉して爆雷を投下。続いて第207号と第63号が爆雷を投下し、応援に駆け付けた第75号と第158号海防艦も爆雷を投下する。5隻の海防艦から集中攻撃を受けたボーンフィッシュはたまらず撃沈、翌日海面にはコルク片と油膜だけが残された。この功績により5隻には舞鶴鎮守府司令長官から感状が授与されている。6月23日14時45分より七尾湾で対潜掃討を実施し、21時に湾口北で仮泊。
8月10日夕刻、第207号、第63号、第81号海防艦の3隻は元山へ向かうべく七尾湾の停泊地を出発。しかし出港直後、B-29が敷設した磁気機雷に第63号が触れて艦首が吹き飛ばされてしまう。幸い死傷者は出なかったものの元山への回航は中止。第207号と第81号は大破航行不能に陥った第63号を曳航して浅瀬に擱座させる。そして七尾湾にて8月15日の終戦を迎えた。
未曾有の戦争は終わった。しかし外地には未だ600万人にも及ぶ邦人や軍人が取り残されており、彼らの帰国を成功させるには戦火を生き延びた艦船の力が必要不可欠であった。航行可能の状態だった第207号は特別輸送艦の指定を受ける前から復員輸送に参加。10月31日に佐世保を出港し、11月4日から8日にかけてマニラで復員兵や便乗者を収容、11月13日に鹿児島へと連れ帰った。11月20日から29日まで玉野造船所で特別輸送艦になるための改装工事を実施。そして12月1日に舞鶴地方復員局所管の特別輸送艦に指定され、連合国の指揮下に入る。12月20日、「海第二百七號」に改称した。航続距離の短い丙型では遠方まで行けないため、博多を拠点に近隣のタクロバン、釜山、上海から復員兵を引き揚げさせた。
1946年5月4日以降は葫蘆島からの引き揚げ任務に従事。満州国崩壊後の中国大陸には未だ170万人の邦人が取り残されており、彼らの生命や財産はソ連軍兵士や暴徒と化した現地民に脅かされていた。一方、アメリカは邦人の技術や財産が共産系勢力に接収されるのを嫌がり、中国大陸からの復員に意欲を見せた事で復員輸送は思いのほか順調に進む。海第二百七號は葫蘆島と博多を5回往復して邦人を連れ帰った。
7月7日から22日にかけて神戸の造船所で修理を受けた後、8月15日に鹿児島を出発。鹿児島・沖縄間を13回往復した。12月17日に鹿児島へ復員兵を降ろした時を最後に特別輸送艦の指定を解かれ、今度は特別保管艦となる。海軍力に乏しい中華民国とソ連の強い要望で米・英・ソ・中の四ヵ国で特別保管艦を分配する事になり、抽選の結果、海第二百七號はアメリカが獲得。ところが既に多くの戦闘艦艇を抱えるアメリカにとって海防艦など無用の長物だった。
1947年7月4日、賠償艦として青島でアメリカに引き渡され、8月13日に実標的艦となって撃沈処分された。
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最終更新:2025/12/07(日) 23:00
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