第9号輸送艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した一等輸送艦9番艦である。1944年9月20日竣工。数々の輸送任務や多号作戦を生き抜いて終戦時残存。
開戦当初、本土近海での邀撃を想定していた帝國海軍には「輸送艦」という枠組みが存在しなかった。代わりに輸送船や駆逐艦、容量に余裕がある水上機母艦を使って物資を運んでいたが、ガダルカナル島争奪戦やソロモン諸島の戦いで敵に制空権を握られ、航空攻撃下での輸送を強行した結果、低速の輸送船は軒並み撃沈、駆逐艦は本来の戦闘能力を発揮出来ない問題が浮き彫りとなる。
ここに至り、帝國海軍は敵制空権下での高速輸送を目的とした輸送艦を建造しようと考え、1943年7月下旬から8月上旬にかけて打ち合わせを行って基本計画をまとめ上げ、9月29日に艦型を決定。建造主任には戦艦大和の建造にも携わった西島亮二造船中佐を据えた。
生産性を高めるため、ブロック工法と広範囲に渡る電気溶接を採用、機関は松型駆逐艦の一軸分とし、兵装も必要最低限分のみとされた。艦尾部分にはスロープが設けられ、揚陸作業の際はここから物資を満載した大発や内火艇を水上ないし地上へ発進させる。艦を停止させずとも発進可能という強みもある。また発進の際に傾斜の微調整が出来るよう喫水調整用タンク、注排水装置を持つ。船倉中にはチェーンコンベア式の揚貨装置を、荷役用に5トンデリック4本と13トンデリック1本、5トン蒸気式揚貨機4台を装備して急速揚陸にも対応可能している。
積載能力は補給物資220トン、大発用燃料5トン、大発積載貨物40トン、14m特型運貨船4隻の計310トン。第5号輸送艦を使った実験で甲標的の搭載能力があると立証されてからは甲標的・蛟龍・回天の輸送任務も担う。主砲や魚雷を持たないので対艦能力こそ低いが、戦況に適した十分な対空兵装・爆雷・ソナーは持っているため、輸送艦ながら一定の自衛能力を獲得し、時には護衛艦艇とともに爆雷投下を行う場合も。
第9号輸送艦は凄惨極まる多号作戦から生還したばかりか、敵機6機撃墜(うち1機は超空の要塞ことB-29)、表彰状を受ける事3回、第14軍司令官・山下奏文大将より恩賞の軍刀を授けられるなどの武功抜群であり、終戦まで生き残った後は復員輸送に従事し、また飢える臣民のため捕鯨母船となって食糧確保に努めた。将兵のみならず臣民さえも補給した稀代の武勲艦と言える。
要目は排水量1500トン、全長96m、全幅10.2m、喫水3.6m、最大速力22ノット、重油搭載量415トン、乗員148名。兵装は40口径12.7cm連装高角砲1基、25mm三連装機銃3基、同連装機銃1基、同単装機銃4丁、二式爆雷18個。22号水上電探、九三式水中探信儀、九三式水中聴音機を持つ。
1944年5月28日に呉海軍工廠で起工、7月10日発令の達第222号で第9号輸送艦と命名され、7月15日に進水、8月15日に赤木毅予備少佐が艤装員長に就任し、そして9月20日に無事竣工を果たした。赤木予備少佐が艦長に就任するとともに佐世保鎮守府に編入、戦時編制で連合艦隊第1輸送戦隊所属となる。赤木予備少佐は東京高等商船出身の軍属だが剛毅果断の人であった。
9月27日に呉を出港して瀬戸内海西部で慣熟訓練。しかし、悪化する戦況は第9号に十分な訓練期間を与えてくれず、秒読み段階となっている連合軍の来襲に備え、フィリピン方面への出撃がすぐに決まった。10月11日、姉妹艦の第10号輸送艦とともに甲標的2隻を積載し呉を出港。セブ島の第33特別根拠地隊に甲標的を届けるべくフィリピンに向かった。
10月17日、連合艦隊より南西方面艦隊の指揮下に入ると同時にマニラへの進出命令が下る。10月22日午後、南西方面艦隊司令・三川軍一中将はカガヤンにいる陸軍部隊のオルモック輸送を第16戦隊(軽巡洋艦鬼怒、駆逐艦浦波)、第1輸送戦隊(第9号、第6号、第10号)、第2輸送戦隊(第101号、第102号)に命じた。輸送人数は鬼怒350名、浦波150名、一等輸送艦350名、二等輸送艦400名と定められた。
マニラ進出命令を受け、第9号は10月23日午前4時30分にセブを出発。そこで待っていたのは地獄の多号作戦であった。
アメリカ軍はフィリピンの奪還を企図し、レイテ湾口スルアン島に上陸して橋頭保を築いた。レイテ沖海戦の敗北により、海上でアメリカ軍を撃退出来なくなった後、陸軍は当初のルソン島地上決戦からミンダナオ島決戦に方針転換。レイテ島には第35軍の数万の兵力が所在していた上、レイテを奪われると、本土・南方資源地帯のシーレーンが崩壊して継戦能力の著しい低下が予想されるため、是が非でもレイテを堅持しなければならない背景があったのだ。
方針転換に伴ってマニラ・オルモック間で兵力輸送を行う多号作戦が発動。作戦の指揮はマニラに司令部を置く南西方面艦隊が執った。だが9月以来、米機動部隊の跳梁で15万トンに及ぶ輸送船がフィリピン方面で撃沈されており、輸送船不足の事情から海軍艦艇の参加は不可欠な上、加えて策源地のマニラと補給港のあるオルモックは720kmも離れ、低速の輸送船だと1日以上、高速艦でも17時間を要する遠い場所であった。更に道中の制空権・制海権はともにアメリカ軍が掌握していて決して楽な道のりではない。そのような死地に第9号は飛び込む事となる。
レイテ沖海戦中の10月24日、第1輸送戦隊の3隻はマニラを出港。何事もなくミンダナオ海を突破し、17時にカガヤンへと到着、20時30分には第2輸送戦隊の2隻も到着して、第9号は第41連隊の陸兵350人を収容。
翌25日午前5時に第2輸送戦隊が先発、1時間遅れて午前6時に第1輸送戦隊もカガヤンを発ち、第16戦隊がカガヤンに入港するのと入れ替わりにオルモックを目指す。午前10時、ミンダナオ海にてP-38戦闘機7機と交戦。大した被害もなく2機撃墜を報じた。10月26日午前4時に無事オルモックへと到着。合計1050人の陸兵を揚陸する。
午後、マニラへの帰路に就く第9号、第6号、第10号輸送艦の前に、たくさんの生存者が波間に漂っているのが見えた。彼らは鬼怒と浦波の生存者で、敵の航空攻撃を受けて撃沈されていたのである。決死の救助活動により各艦約300名の生存者を収容。そして10月27日午前11時にマニラへ帰投して第一次輸送を成功させた。しかし犠牲も大きく、鬼怒と浦波以外にも、第101号及び第102号輸送艦、鬼怒の救援に赴いた駆逐艦不知火が撃沈されて戻らなかった。
10月29日、三川中将は正式に多号作戦を発令。マニラ港内で第二次輸送の準備が進められる中、午前7時45分より米機動部隊の艦上機がマニラ方面に襲来し、在泊艦艇に若干の被害は生じたものの、幸い輸送関係船舶への被害は出なかった。だが今回の空襲はマニラでさえも安全ではない事を如実に物語った。
10月31日、多号作戦第二次輸送のため、第6号、第10号輸送艦で第4船団を編成してマニラを出撃。今回は独立歩兵第12連隊(今掘支隊)1000名をオルモックに輸送するのが目的である。道中散発的な空襲を受けながらも、先発した第1船団を追い抜き、11月1日14時15分に無傷でオルモックに到着して兵員を揚陸、19時、第1船団がオルモック湾に到着するのと同時に揚陸作業を完了した。
第6号と第10号はマニラに向かった一方、第9号はセブ島リロアン(オルモックから55海里ほど離れた場所)に立ち寄って第35軍司令部の鈴木中将と陸兵100人を収容。翌2日午前4時30分に再びオルモックへ突入して彼らを揚陸する。当初第35師団司令部は大発、装甲艇、機帆船でオルモックに進出しようとしていたので、同じセブ島にいた第33特別根拠地隊が気を利かせて南西方面艦隊に進言し、輸送艦1隻の回航を得たのだった。
11月3日午前9時57分、マニラへの帰路に就いていると、第二次輸送部隊本隊の木村昌福少将より爆撃を受けて航行不能に陥った第131号輸送艦の救難を命じられ、同日18時にパナイ島北東部の現場へ到着。救助に来た駆逐艦初春や初霜の護衛を受けながら第131号からの乗員93名を収容し、19時より曳航を開始、11月5日午前7時30分にマニラまで連れ帰った。
その僅か5分後、米機動部隊のマニラ空襲が始まり、15時30分まで延べ約200機が襲来。多号作戦の旗艦だった重巡那智や第107号哨戒艇が撃沈されてしまう。翌6日にもマニラは空襲を受けたが艦船への被害は殆ど無かった。だが港内に大混乱をもたらし、第四次輸送に参加予定の駆逐艦曙が航行不能となったり、台風の襲来による悪天候も合わさって、第三次輸送部隊より第四次輸送部隊が先に出発する事となった。第9号は第四次輸送部隊に伍して第1師団残部3000名及び弾薬3500トンのオルモック輸送が命じられる。
11月8日午後、第9号、第6号、第10号輸送艦は第1師団と海軍の大発それぞれ2隻ずつ積載してマニラを出港。フィリピン中部を襲った台風の影響で道中は暴風雨に見舞われていたが、これが隠れ蓑となり、航空攻撃を受けないまま翌9日18時30分にオルモックの指定泊地へ到達。先に到着していた第四次輸送部隊本隊は大発の不足(高波に巻き上げられた土砂のせいで大発約50隻のうち僅か5隻しか使えなかった)で揚陸作業が難航している最中だったので、輸送艦3隻が大発6隻を持ってきてくれたのは非常にありがたかった。
11月10日午前6時30分、4機のP-38が出現したのを皮切りに敵の航空攻撃が始まった。すかさず上空援護の味方戦闘機14機が迎撃、増援2機を含めた6機のP-38と空戦を行い、これを撃退した。
空襲が激しくなってきたので本隊の揚陸作業は午前10時30分に打ち切られ、続々と湾内より脱出。輸送艦3隻はやや遅れて午後12時30分に湾内を発った。兵員は全て揚陸に成功したものの、搭載兵器、弾薬などは若干数に留まっている。
帰路、先発した本隊は空襲を受け、高津丸、香椎丸、第11号海防艦が撃沈される被害が発生。が、味方戦闘機5機が応援に駆け付けてくれたおかげでこれ以上の被害は生じず、本隊の後方を走っていた第9号輸送艦にも被害は無かった。第9号は爆沈した香椎丸の生存者を午前11時40分まで救助(旗艦の霞から生存者159名と砲手を受け取ったとも)。20時45分、遅れてマニラから出発してきた第三次輸送船団とすれ違い、長波、朝霜、若月が離脱して第三次輸送船団の護衛に加わった。
11月11日午前5時、マニラに帰投中の第四次輸送部隊は、ボンドック半島西岸ザバンギン礁で座礁していた、第三次輸送部隊第二船団の陸軍輸送船せれべす丸を発見。午前7時35分より竹と第13号海防艦は、第9号、第6号、第10号輸送艦が収容した香椎丸の生存者を引き取り、代わりに金華丸と協同で、せれべす丸から約1500人の陸兵と装備を回収する。せれべす丸警護のため残った第13号と占守を除き、第四次輸送部隊は18時30分にマニラまで帰り着いた。なお後発の第三次輸送部隊は熾烈な空襲で駆逐艦朝霜以外全滅という悲惨な末路を辿っている。
11月13日、第三次輸送部隊を壊滅に追いやった米機動部隊がルソン南部に襲来し、午前7時40分から17時にかけて、戦爆連合延べ350機がマニラ港内の在泊艦船を徹底的に蹂躙。翌14日にも午前7時50分~15時まで延べ90機が襲来。軽巡木曾、駆逐艦沖波、曙、秋霜、初春、給油艦隠戸、駆潜艇1隻、輸送艦3隻が一挙に撃沈され、輸送船にも甚大な被害が及んだ。これ以上空襲を受けると全滅の危険があるとし、今まで護衛任務に従事してくれた霞、潮、初霜、朝霜がブルネイに退避。より戦力の低下を招く。また第三次輸送部隊の全滅は南方軍に大きな衝撃を与え、大本営にレイテ決戦方針の続行の不利を申し出たが、大本営の方針は変わらず、この後も多号作戦は続いていくのだった。
南西方面部隊電令作第747号により、第9号輸送艦は第6号、第10号、駆逐艦竹とともに第五次輸送部隊第二梯団を編成。第12独立歩兵連隊第3大隊と第1機関銃中隊の一部をオルモックに輸送する。別働の第一梯団は第101号、第141号、第160号輸送艦、第46号駆潜艇で編成されていた。
11月24日に第五次輸送部隊第二梯団はマニラを出港。今回は直接オルモックに向かうのではなく、空襲を受けやすい昼間はマリンドゥケ島バラカナン湾で退避する予定だった。
翌25日昼、マリンドゥケ島に到着するも、ここで敵空母イントレピッドの艦載機約50機と遭遇、第9号の対空射撃で2機を撃墜するが敵の勢いは止まらず、艦に覆いかぶさるように低空で次々に銃爆撃を仕掛けてくる。爆弾で高々と築かれる水柱。機銃掃射を浴びてバタバタと倒れゆく砲員と機銃員。砲員が全滅しても他の甲板員が砲に飛びついて果敢に射撃を続けた。こたびの空襲で、長らく一緒に任務に励んで来た第6号と第10号輸送艦が撃沈され、第9号も大破へと追いやられてしまう。
上層部からは「オルモック湾に突入せよ」と命じられたものの、第9号は200ヵ所以上の弾痕を負うほど損傷が酷く、航海長・袴田大尉を始め砲員、機銃員、各兵科の半数以上に死傷者を出し、また揚陸作業に必須のワイヤーが切断されていた事を受け、竹の宇那木艦長は作戦の続行を断念、抗命覚悟でマニラに引き返す事を決断した。第9号はマスバテ島に陸軍部隊を揚陸して竹に追従、11月26日にマニラへ反転帰投。
待っていたのは突入断念による罵声……ではなく生還を喜ぶ声だった。というのも、非情の突入命令は上級司令部より出されたもので、現地司令部としても、その命令には不服だったのだ。ちなみに第一梯団は空襲により全滅。第五次輸送で生還したのは第9号と竹のみだった。
命からがらマニラに戻った第9号の艦隊塗料はボロボロに剥がれ落ち、無数の弾痕が艦体を穿つという、生々しい激戦の跡が刻まれており、本来であれば即座に入渠修理が必要な状態である。ところが、第六次輸送が全滅したとはいえ軍需品の一部の揚陸に成功し、レイテ作戦続行の希望を見出した上層部はすぐさま第七次輸送部隊の編成を発令。第9号、第140号、第159号輸送艦を第三梯団に組み込んだ。これを駆逐艦竹と桑が護衛する。
輸送戦隊の機関参謀は、各輸送艦を巡って「任務を果たさずして、絶対に帰ってくるな」と訓示しており、竹艦長の宇那木少佐は「陸上にいる参謀とは無責任なものだ」と思ったという。
12月1日18時、野戦高射砲大隊と独立工兵大隊を積載した第七次輸送部隊第三梯団が単縦陣を組んでマニラを出港。梯団の総指揮は桑艦長山下正倫中佐が執る。マニラ出港直後に陸軍の三式潜航輸送艇(通称まるゆ)と遭遇した。翌2日午後に敵機の触接を受けるも、スコールと出撃ローテーションの関係で空襲を全く受けず、道中島影に隠れて時間調整を行い、空襲の恐れが無くなった23時30分にオルモック湾へ突入、さっそく他の輸送艦とともにイピルへの揚陸作業を開始する。
日付が変わった12月3日午前0時、南方1万m先より3隻の艦影が湾内へと突入してきた。その正体は、航空偵察で第七次輸送船団の存在を把握し、レイテ湾から出撃してきた第120駆逐群所属の米駆逐艦アレン・M・サムナー、モール、クーパーだった。第120駆逐群の司令ザーム中佐は日本側の雷撃を警戒し、3隻を横に広げた横陣で突撃、全てを蹂躙せんと迫り来る。上空にてPTボート掃討の任を受けていた第804海軍航空隊の月光2機がいち早く侵入者に気付いて攻撃、生じた戦闘の光で桑が敵艦の存在に気付き、竹に発光信号を送りながら突撃を開始するも、敵の正確無比なレーダー射撃を受けて10分で撃沈されてしまう。
残った竹は輸送艦を守るべく単艦突撃。圧倒的不利な戦況下で砲撃戦を演じた後、必殺の魚雷を放ってクーパーを撃沈。何とか第120駆逐群を追い払う事に成功した。桑の撃沈や、クーパーに立ち昇った火柱は第9号輸送艦からも窺う事が出来、「護衛艦の勇戦を無駄にするな」と決死で揚陸作業を進めたという。
勝負を制した竹であったがマニラに帰れるかどうか怪しいほどの重傷を負っていた。特に艦の航行に必要な真水が不足し、一時はセブ島に乗り上げる事も考えていた宇那木艦長だったが、ここで竹の窮地を救ったのが第9号である。
第9号より「揚陸完了」の発光信号を受け取った時、竹の艦橋にいた誰かが「9号に真水があるんじゃないか」と呟いたのだ。すぐさま竹は第9号に横付け、最初こそ第9号は要領が分からない様子を見せるも、即座に理解を示し、上甲板にポンプを持ってきて必死に真水を補給。こうして竹はマニラに帰る術を手にした。やがて第140号と第159号輸送艦も揚陸作業を完了させ、沖合いにて竹、第9号と合流。桑を失った代わりに久々の揚陸成功となった。
しかし第七次輸送部隊にはもう一つの脅威が迫る。揚陸完了時、時刻は午前3時を回っていて、熾烈な空襲が始まる夜明けまでたったの2時間しか残っていなかった。それまでに危険海域を脱しなければ揚陸成功の余韻も消し飛ぶ悲劇が待っている。このため海上を漂流する桑の生存者を泣く泣く見捨てなければならず、生き残った艦艇はただひたすら走り続けてオルモックを脱出、マニラへの帰投を急ぐ。生存者を見捨てられなかった第140号輸送艦が艦を停止して救助用カッターを降ろし始めたので第140号をも置いていった。速力が遅い第159号を先行させ、その後ろを第9号と竹が追従する。
陽が昇ると9機の航空機が第七次輸送部隊の上空に現れた。いよいよ空襲が始まるのかと各艦に緊張が走る中、その9機は旋回するだけで攻撃してこない。よく見るとそれは零戦で、竹が出した支援要請に応じて援護に来てくれたのだ。零戦はしばらく空に留まり基地へと帰投していった。昼頃より敵大型機の触接が始まったので竹の高角砲で撃退。そのまま12月4日午後にマニラへ帰投した。
アメリカ軍がオルモックに上陸した事で多号作戦は更に厳しい戦況に立たされた。それでも大本営は第68旅団主力約4000名をオルモックに輸送するべく第八次、第九次輸送が実施される事に。第9号輸送艦はセブ島に甲標的2隻の輸送が命じられるも、途中まで第九次輸送部隊と同行する事となり、一時的に輸送部隊へと組み込まれる。
当初出港は8日を予定していた。しかし米機動部隊の来襲が予期されたため、1日延期して9日となっている。また揚陸地点もオルモック北西25kmのパロンポンに変更された。
12月9日14時、第九次輸送部隊はマニラを出撃。12月10日午前8時15分にタブラス海峡を通過したが、パロンポン突入時刻を調節するべく、午前10時50分から14時30分まで反転している。
翌11日午前11時頃、第9号は第九次輸送部隊と離れてセブ島に向かうのだが、その直後にP-40、F4U、P-38からなる戦爆連合が第九次輸送部隊を攻撃し、駆逐艦卯月が損傷、たすまにや丸と美嚢丸が撃沈される被害が発生。第9号は幸運にも間一髪空襲から逃れられた。12月12日にセブ島へ到着して第33特別根拠地隊に甲標的2隻を揚陸。翌13日にマニラへと帰投する。
その後も、第10師団歩兵第39連隊と第23師団歩兵第79連隊を輸送する第十次輸送が計画されていたが、12月13日朝にスールー海で発見された敵上陸船団が翌日北上を始め、ルソン島へ上陸する公算大と判断されたため、二個歩兵連隊の輸送を中止。これに伴って第十次輸送の中止が発令され、輸送した物資のうち80%が海没、駆逐艦10隻が沈没した長く苦しい多号作戦も終わりを告げるのだった。
12月18日、多号作戦における抜群の武功を受けて、第14軍司令・山下奉文陸軍大将と南東方面艦隊司令・大川内中将より軍艦表彰を授かる。
12月19日、南西部隊信令第13号を以って、サンフェルナンド入港予定の給糧艦間宮より指定物件の受け取りを命じられ、12月20日にマニラを出港。ところが17時15分、イパ270度8海里沖で機関故障を訴えて航行不能となり、21時6分、第130号輸送艦に曳航されてイパを目指す。翌21日午前3時25分にようやく機関が復旧したため曳航を中断してサンフェルナンドに向かい、現地で間宮と会同して物資を受領、12月22日にサンフェルナンドを発ち、23日にマニラへと送り届けた。
12月27日、サンフェルナンドを出港した第9号を狙って米潜水艦(艦名不明)が雷撃、これを回避すると、反撃の爆雷7個を投射して追い払う。
1945年1月上旬、アメリカ軍の魔手がマニラにも迫り、南西方面艦隊の司令部もバギオへ移転、港内に残っていた艦艇もまた大半が脱出して殆ど残っていなかった。第9号は内地で本格的な修理を受けるべく物資を満載してマニラを脱出。1月9日から11日にかけて香港に寄港し、1月16日に佐世保へ入港。1月21日呉に回航されて入渠整備を受ける。
第9号輸送艦は父島及び八丈島方面への輸送任務に就く事になり、2月18日に呉を出港、2月21日に策源地の横須賀へ到着、2月28日、横須賀を出撃したのを機に横須賀・父島、八丈島間の輸送任務に就く。それは本土近海にさえ我が物顔で跳梁跋扈する米潜水艦や米機動部隊の真っ只中を往復する事を意味していた。また父島では、硫黄島に重火器や物資を供出していた関係上、現地の守備隊は困窮と飢餓に襲われており、一刻も早い補給が求められていた。
3月19日、八丈島の神湊を出発。館山より派出された第6号海防艦が第9号の前路掃討を行ってくれた。4月1日に第1輸送戦隊が解隊されたため連合艦隊附属となる。4月12日、硫黄島に上陸したアメリカ軍に特攻を行った第601航空隊の残部を聟島まで迎えに行った。4月25日、二代目艦長として小松孝少佐が着任。
5月24日午前11時13分、横須賀鎮守府より父島に対する挺身輸送並びに航空揮発油の送還命令が下る。出撃のための諸準備を進める中、父島特別根拠地隊からは適宜父島の敵機来襲状況、気象情報、機雷敷設状態などが伝えられ、また5月29日に横須賀沖で自差修正を行った。
5月30日午前8時57分、母島特別根拠地隊やその他便乗者31名、大発2隻、機銃弾、高角砲弾、糧食、医療品など計170トンを積載して横須賀を出発。護衛兵力不足の影響で単艦での出撃となった。午前10時55分に洲ノ崎灯台沖へ到達。米潜水艦を警戒して第二戦速(18ノット)に増速して之字運動を行う。午前11時50分、三原山頂上付近に単機で飛行中のB-24爆撃機を発見し、之字運動を止めて最大戦速に増速しつつ対空戦闘を実施。しかし撃墜するには至らなかった。
23時35分に主給水タンクに故障が見られたため輸送を中止して横須賀へ反転。翌31日午前1時15分、八丈島東方45海里にてB-24らしき機影を発見し対空戦闘、右舷正横至近距離に2発のロケット弾と機銃掃射を受けるも、幸い被害は無かった。午前11時35分に横須賀へ帰投、6月1日に修理作業を行う。同時に母島警備隊から新たに指定物件の輸送を懇願されている。
6月2日午前8時52分に改めて横須賀を出発。之字運動をしながら慎重に進み、19時30分、八丈島の洞輪沢に到着して人員物件を揚陸、22時12分に出発するが波浪極めて高く航行不能と判断、23時33分に洞輪沢に戻り、時化が落ち着くまで待機する。度重なる空襲警報もあって出発できたのは翌3日19時30分の事だった。
次に向かうのは父島。しかし父島は、アメリカ軍に奪取された硫黄島との距離が270kmと非常に近く、敵機の行動範囲圏内への突入は避けられない事から、非常に大きな危険が伴う。
6月4日16時8分、父島近海に到達した事で最大戦速に増速し、小松艦長は全員を集めて二見港突入後の敵情及び揚陸作業に関する注意を説明し、搭載物件を甲板上に出して作業に備えるとともにマストには堂々たる覚悟の象徴としてZ旗が掲げられた。20時53分、父島方面空襲警報発令により対空位置に就く。小型機らしき爆音が北方より聞こえてきたものの攻撃は無かった。そして23時50分に二見港へ到着、大発2隻を降ろして物資の揚陸作業を開始する。
便乗者揚陸と航空揮発油の搭載をしたところで敵潜水艦の出現が認められ、一度作業を中止して翌5日午前2時20分に二見を出撃、最大戦速に上げながら爆雷9発の脅威投射を行い、之字運動を実施して水面下の敵に敢然と立ち向かう。
午前10時44分、今度は父島方面より東方に向かう1機のB-29を発見して高角砲を撃ちかける。第9号の存在に気付いたB-29は上空で旋回して触接を開始。11分後、増援に現れたP-51戦闘機3機が、右舷側から機銃掃射と投弾を仕掛け、右舷30m付近に巨大な水柱が築かれる。午前11時5分、4機のP-51が右舷120度方向より機銃掃射及びロケット弾による攻撃を加えてきた。発射されたロケット弾のうち1発が命中して死傷者を出す。その3分後には猛烈な機銃掃射を浴びて高角砲塔の旋回・発砲が出来なくなってしまう。更に触接中のB-29からも機銃掃射を浴びて絶体絶命の窮地に立たされる第9号。
ここから第9号の反撃が始まった。午前11時12分、右60度方向より機銃を撃ちかけながら迫って来たP-51に対し高角砲で応戦、すると被弾したのか、1機が白煙を噴き出しながら雲中へ消えていくのが見えた。3分後、B-29が右舷方向より機銃を猛射しながら突撃してきて、第9号の頭上を航過した際、機体後部に命中弾を与え、左舷30m先に墜落するのを見届けた。超空の要塞が輸送艦に敗れた瞬間だった。やがて敵の熾烈なる攻撃は停止。この時点で第9号は乗組員29名が死亡、70名が負傷していた。午前11時35分より戦死者や戦傷者の補充と弾薬装填を行って次の戦闘に備える。
しかし以降の攻撃は無く、6月6日午前7時30分、横須賀へと到着して便乗者を降ろし、輸送任務を完了させる。1時間後、横須賀鎮守府長官の戸塚道太郎中将は第9号に対し、「第九号輸送艦長以下乗員一同の周密なる計画と果敢なる実施により各種の困難を克服し見事に挺身輸送任務を達成せるは大いに可なり」と労いの電報と軍艦表彰を贈った。戦闘で12.7cm連装高角砲の動力使用不能、25mm連装機銃旋回不能、13号電探、22号電探、九三式水中聴音機破損、電路切断箇所十数箇所などの被害を負い、代わりにP-51戦闘機1機、B-29爆撃機1機撃墜の戦果が認められた。
修理後の6月21日から再び困難な小笠原諸島方面輸送に従事。いつ沈められてもおかしくない魔の海域を総計12往復して献身的に輸送を続けた。7月18日、静岡県初島東方4海里で米艦上機の攻撃を受けて損傷。
8月11日、小笠原方面の輸送任務を終えて横須賀を出発、翌12日に呉へ寄港して海龍2隻を艦尾に積載し、佐伯まで輸送した。そして8月15日の終戦を呉で迎える。
1945年9月15日除籍。未曾有の戦争は終わったが、外地には未だ600万人の邦人や軍属が取り残されており、彼らの帰国は一大事業であった。戦争を生き残った第9号は12月1日に横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に指定、12月20日に輸第9号と改名し、彼らを帰国させるための復員輸送に従事する。航続距離が長大だからかラバウルまで足を伸ばして復員兵を収容する事もあった。
復員輸送と掃海任務に目途がつき、生き残った駆逐艦以下の艦艇は特別保管艦に指定。捕鯨母船となっていた輸第9号も例外ではなく、1946年7月26日付で特別保管艦に指定されており、およそ150隻の艦艇が横須賀に集められた。海軍力に劣るソ連と中華民国からの強い働きかけにより、特別保管艦を米・英・中・ソの四ヵ国で振り分ける事となり、抽選の結果、輸第9号はアメリカが獲得した。1947年に賠償艦としてアメリカに引き渡されるも既に十分すぎるほどの艦艇を持っていたため、そのまま大洋漁業に貸し出され、思わぬ奉公をする事になる。
生産設備の軍需転用、戦災による焼失、肥料の供給不足、徴兵による労働力不足、復員兵や邦人が外地より帰還して流入人口の増加、冷害と風水害が引き起こす40年来の大凶作など、様々な要因で終戦直後の日本では食糧が致命的に足りていなかった。このままでは餓死者1000万人を出す可能性すらあったという。
空前絶後の食糧難を解決する手段として当時最も有力視されていたのが捕鯨であった。このためすぐに捕鯨が再開されたのだが、捕鯨船やトロール船の大半は徴用され、そして全滅に等しい被害を受けていたので、遠洋漁業をする船舶が全く足りなかった。そこで最初に大洋漁業が動き出す。GHQに小笠原捕鯨の許可を申請し、1945年11月3日付で許可を得たのである。
大洋漁業が第二復員省に駆け込み貸し出せる軍艦リストを見たところ一等輸送艦が選ばれた。艦尾スロープが鯨の引き揚げに打ってつけであり、艦の大きさも十分なので、艦内に冷蔵庫と鯨油搾油用機械を増設すれば、捕鯨母船に仕立て上げられたのだ。まず最初に姉妹艦の第19号が、次に第16号が捕鯨母船に改装され、最後に輸第9号が母船に転身。1948年、小笠原近海で行われた第三次捕鯨に参加し、3回の捕鯨でシロナガスクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラ、イワシクジラ、マッコウクジラを合計約800頭以上を漁獲、飢える臣民に貴重な食糧を補給した。
1948年6月26日、将兵だけでなく飢える臣民をも支えた第9号輸送艦は石川島重工で解体を完了。静かにこの世を去った。1983年1月、第9号輸送艦戦友会の手で熊本陸軍飛行場付近に「第九号輸送艦之碑」が建立。ところが2016年4月14日の熊本地震で倒壊してしまったという。
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最終更新:2025/12/10(水) 06:00
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