1982年に文化学院の学生だった小野田・石井・BON・得能の4人を中心に結成された。名称の由来はイギリスのニューウェイブバンド「トム・トム・クラブ」を小野田がこのように言い間違えたことだったが、「なんかそれ面白いな」ということで調子に乗って「奥さん米屋です」「私こしひかり」などのふざけた曲を作ってしまう(ちなみに、「私こしひかり」はバンド初期における屈指の人気曲である)。フリーアナウンサーの德光和夫は当初「よねよねクラブ」と読んでいたという(2013.4.13 ラジオ番組にて)。
活動を続けるごとに地下界隈でコアな人気を得て、デビュー前にはレコード会社数社が引き抜きあいを繰り広げたが、石井の「受付嬢が可愛いから」という鶴の一声でソニー・ミュージックエンタテインメントからデビューすることが決定。どんな判断だ。1985年にシングル「I・CAN・BE」、アルバム「シャリ・シャリズム」を発売した。
デビュー後もやはり表に出ることはなく、ライブを中心としてサブカル好きに地味な支持をされるそんなバンドであった。この頃はメンバーも、シングル・アルバムで出る曲は自分たちの関わる部分が薄い(セルフプロデュースをさせて貰えなかった)ことから「作品とライブは別物」などと語り、ライブに全力を注いでいた。
1988年、シングル「KOME KOME WAR」がちょっとしたヒット、翌年にはシングル「FUNK FUJIYAMA」が中ヒット。さらに「FUNK FUJIYAMA」はCMにも使われるなど、段々と一般層に向けて露出が増えていく。そんな中、1990年にアルバム「KOMEGUNY」(1987年発売)からのリカットとして「浪漫飛行」をシングル発売。日本航空(JAL)のCMにも使われたのがきっかけで、一躍ミリオンセールスを記録した。
そして、1992年発表のシングル「君がいるだけで」がドラマ「素顔のままで」の主題歌に起用され200万以上を売り上げる大ヒットを記録し、同年の日本レコード大賞を受賞。
しかし、元々固定が強かったとは言え所詮イロモノ。高い人気は持続しなかったが、この時期から大衆性もある程度重視するようになる。これがあまりいい結果を呼ばなかったのか、ファンからは「売れてから変わった」などと言われるように。
1995年には初期からの中核メンバーである得能とRYO-Jが脱退。何を思ったのか、この時に当時の中核メンバーとサポートメンバー(+新規加入メンバー2名)を一纏めに「正式メンバー」とし、総勢17名の大所帯となった。これが特に幸を奏したでもなく、むしろここを起点として売り上げを大幅に落としてしまった。
石井のソロ志向が強くなったこと、また、石井が監督した映画『河童』が大コケして借金を抱えたことも一因となり(小野田談)、結局1997年3月の東京ドーム2公演をもって「押米」(解散)。各メンバーはそれぞれソロ活動を始めた。
2006年4月、「10月まで」と期間限定での再結成を宣言。シングルの他にアルバムをリリースする予定を立てた。しかし、
など、続ける気マンマンなのが見えたところで、同年のツアー最終日に「解散撤回」を発表。なんという茶番。現在でも気が向いたら活動している。
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最終更新:2023/03/23(木) 17:00
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