精華町 せいかちょう |
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基本情報 | |
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国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
町役場所在地 | 京都府相楽郡精華町大字南稲八妻小字北尻70番地 |
市町村コード | 26366-4 |
面積 | 25.68km2 |
総人口 | 36,483人 (推計人口、2024年3月1日) |
隣接自治体 | 京都府 京田辺市、木津川市 奈良県 奈良市、生駒市 |
町の木 | カシ |
町の花 | バラ |
町の鳥 | ‐‐ |
行政区画テンプレート |
山城南部の相楽郡に属し、関西文化学術研究都市(けいはんな学研都市)の中心。
町名の直接の由来は、現精華町と現木津川市の村々の組合によってつくられた「精華高等小学校」及び「精華中学校」である。
西部と南部はなだらかな丘陵(甘南備丘陵・平城山丘陵)があり、東端には木津川が流れ、東部を占めている平野部を作り出している。学研都市の都市景観と共に、豊かな自然も精華町の魅力のひとつである。
学研都市であると同時に、京都や奈良、大阪のベットタウンとして発展しており、京都府の町村の中で最も人口が多い。2005年の国勢調査で人口増加率約30%を達成し、日本一となった。現在の少子高齢化社会の中でも、人口微減で留めている。
なお、ふるさと納税の赤字額が全国の町村で1位となるなど、精華町には赤字のイメージがつきまとっているが、1人あたりの個人住民税が京都市を除く府下2位だったり、財政力指数が0.7強で府内上位だったりと、財務状況は悪くない。
イチゴやエビイモ、万願寺とうがらしなどの京野菜が特産品。いちご狩りの季節になるとツアー客が押し寄せる。お米もそこそこ生産している。人口あたりのお菓子屋さんが多く、「スイーツタウン」として売り出している。
著名な出身者はシンガーソングライターの渡辺美里やプロ野球選手の松尾汐恩など。
ネット上では京都府精華町の広報キャラクター・京町セイカが高い人気を誇る。そのため、精華町は町としては多くの関連動画がアップロードされている。
精華町は古代政治の中心地たる大和国に近いことから、古事記や日本書紀に記述がみられる等、古くから歴史が紡がれていた。崇神天皇の時代、親族の武埴安彦命が謀反をおこし、泉川(木津川)で矛を交えることとなった。崇神天皇側の将(彦国葺)と武埴安彦命が互いに矢を射たところ、武埴安彦命の矢は当たらず、彦国葺の矢は武埴安彦命に胸にヒットし、命を落とした。将なき武埴安彦命側は総崩れ、武埴安彦命の首は斬られ、兵は惨殺され、川が血に染まる惨憺たる事態となった。この出来事が起こった土地は後に「はふりその(波布理曽能・羽振苑)」と呼ばれるようになり、それが転じて、現在の精華町の玄関口、祝園となった。
奈良時代に入り、平城京が造成されると、1里(4km)ほどしか離れていない精華町域は繁栄した。山陽道・山陰道が通り、南部にある乾谷地区には瓦を焼くための窯がつくられ、早い段階で仏教が受容されていたようである。
室町時代になり、1467年に応仁の乱が起こると精華町域は再び戦乱に巻き込まれることとなる。応仁の乱によって戦災を被ったうえ、その後も畠山氏の小競り合いが続き、南山城の国人や農民は疲弊していった。1485年、業を煮やした国人衆は平等院に集まり、畠山氏の影響力を排除、国人衆による自治をおこなう惣国体制となった。年貢の徴収など最初はうまく回っていたものの、次第に国人同士や国人衆と農民の軋轢が生まれはじめ、1493年、ついに国人衆が分裂、惣国体制が崩壊した。一部の国人衆は精華町内の稲屋妻城で籠城戦を行うものの、翌年には多くの犠牲者をだし、国人衆側が敗北した。
近代になると、現在の精華町域に狛田村(北部)・祝園村(中東部)・植田村(中西部)・山田荘村(南部)の4村が誕生する(後に山田荘以外の3村が合併し、川西村になる)。しかし、依然として農業中心の村だったようである。しかし、1898年という早い段階で鉄道が開通すると、米づくりから大阪等の都市圏へ出荷するためのスイカやお茶、野菜、生糸といった商品作物の生産へ転換していったようである。
なお、概要の項で述べた精華高等小学校は、地元を離れずとも進学できるように、先に挙げた4村と現木津川市の相楽村の5村の有志の組合がお金を出し合って、1896年(明治29年)に建てられた。精華という名前の由来は教育勅語の「國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」という一節である。後に、校舎建て替え費用を捻出できず閉校したが、後の精華町成立の大きな要因の一つといえよう。
戦後、精華高等小学校を卒業した世代が再び組合を結成し、精華中学校を設立する。この精華中が紐帯となり、昭和の大合併もあり、1951年、川西村と山田荘村が合併、精華村となる。(相楽村はゴタゴタがあり、木津町と合併) 1955年には町制施行し、精華町が誕生する。
精華町成立直後はやはり小さな農村だったが、1987年の「関西文化学術研究都市建設促進法」制定以降、学研都市としての開発が急速にすすむこととなった。
1988年には南部の桜が丘地区が、1992年には西部の光台地区がまちびらきを迎え、2000年代以降には精華台地区の開発が進んだ。結果、2005年の国勢調査では約30%の人口増を記録し、1985年には16000人程度の人口が20年後には34000人に倍増した。
こうして人口は増え、多くの企業が集まり、現在に至る。
(京橋方面) --- [H21] 下狛 --- [H20] 祝園 --- (木津方面)
全ての駅が快速・区間快速停車駅
日中は1時間に1本程度。朝夕でも毎時2本程度である。松井山手まで単線なこと、甘南備丘陵を迂回するために一度北に膨らむことから、北新地駅まで1時間程度と直線距離にしてはかなり長い。
(京都方面) --- [B20] 狛田 --- [B21] 新祝園 --- ([B22] 木津川台) --- [B23] 山田川 --- (大和西大寺方面)
こちらは日中でも普通が毎時3本、急行が3~4本と比較的多い。当然、利用客数は近鉄の方が多く、その差は4倍以上。新祝園から急行で京都まで30分、大和西大寺まで10分程度。
なお、精華町は近鉄けいはんな線の新祝園延伸に力を入れている。精華町在住の筆者も、大阪都心へのアクセス向上のため、早期開通を切に願う。
京奈和自動車道(E24)
(城陽方面) --- [4] 精華下狛 --- [5] 精華学研 --- [6] 山田川 ---([7] 木津)
町を南北に京奈和道が貫いている。
なお、町内のバス路線は、せいかくるりんバスを含め、奈良交通が運行している。
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最終更新:2024/09/20(金) 15:00
最終更新:2024/09/20(金) 15:00
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