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細川勝元単語

ホソカワカツモト

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細川勝元(ほそかわ かつもと)とは、室町時代の武将・大名。応仁の乱の東軍総大将として有名。

1430年~1473年6月6日

概要

第16・18・21管領。第11代細川(宗)当。第24・26・27・28代管領にして、明応の政変の黒幕として知られる細川政元父親

山名持豊(宗全)と共に幕府の実者として君臨するも、足利将軍の次期後継者問題・畠山の当問題・斯波の当問題などが複雑に絡み、やがて対立。

の都を焼け野原にする大戦乱・応仁の乱を巻き起こす。

来歴

少年期まで

1430年(永享2年)に室町幕府第14代管領・細川持之の長男として生を受ける。幼名は聡明丸。

1442年(嘉吉2年)に・持之が死去した事により13歳で督を継承。時の将軍である足利義勝から「勝」の字を貰い、以後「勝元」と名乗る。

1445年(文安2年)には管領に就任。以降3度に渡り管領に就任するなど(通算23年間)、幕政に影を持ち続けた。

宗全との協力

勝元が管領となった当時、室町幕府は先代の管領であった畠山が実者として君臨しており、各地では持を推す勢と勝元を推す勢との間で紛争が頻発していた。勝元は持への対抗として、幕府きっての武官として知られていた山名宗全と手を結ぶ。1447年(文安4年)に宗全の養女(殿、山名熙)を妻に迎え、縁戚関係を構築。後年には宗全の実子である豊久を養子として貰い受け、更に強固な関係を築いた。

当時9かを治める強大な守護大名だった細川だが、山名も8かの守護と大勢であり、互いがぶつかり合えば両者とも大ダメージを被ってしまう。また、その頃は持という両者共通の敵も存在していた。そのため、両者とも自への損を最小限に留めるために手を取り合う姿勢を見せた。

権力掌握の戦い

1454年に持約束を反故にし、の持富ではなく庶子の義就を後継者に決定した事から、畠山内で義就と弥三郎(持富の子)に分かれて争うお家騒動が勃発する。畠山を削ぐ絶好の機会と見た勝元と宗全はその機に乗じて内紛に介入。弥三郎支援した事で義就一へ逃亡、持は隠居へと追い込まれた。

政敵排除という的を達成した勝元・宗全だったが、ここである問題が発生する。それが赤松の再問題だった。

赤松は、嘉吉の乱で六代将軍・足利義教を討ち取ったかどで討伐・滅亡に追い込まれて以降、新たな播磨守護となった山名によって赤松旧臣が底的に排除され、時には浪人となった一族や元臣たちが討伐の対にされることもあったという。

しかし、赤松旧臣らのを賭けた働きかけや、血を引く数少ない生き残りである赤松政則将軍足利義政に個人的に気に入られていた事、さらに、赤松討伐以前から宗全がたびたび自らの守護代を播磨に送り込んで赤松の所領を横領するなど、幕命に背く行為を行っていた山名が警されていた事などもあり、義政は山名への牽制の意味合いも含めて赤松許可しようとする。

当然反対した宗全だったが、これが義政の勘気に触ってしまう。一時は山名への討伐命まで出される事態となったが、婿であり協関係にもあった勝元の取り成しで回避。督を息子へ譲る・但への隠居という形で決着した。

宗全と義政が対立している間に態勢を立て直した畠山義就が、弥三郎を蹴散らして帰還。

翌年の持死去に伴い、義政から督継承を認められたが、やがて義政の信頼を失い疎まれるようになる。勝元は義就の督継承後も弥三郎への支援継続し、幕府へ働きかけて弥三郎の放免を勝ち取っている。

三郎の死後は新たに擁立された畠山政長(弥三郎)を支援。1460年(長4年)には、政長への督継承と義就の朝敵認定に漕ぎ付けた。義就は河内山城に籠り2年以上抗戦したものの敗れ、のちに吉野へ逃れた(嶽山城の戦い)。1464年(寛正5年)に政長は勝元の推挙で管領に就任。勝元は政長を督に着かせた人物として畠山中にも影を及ぼすようになった。一方、畠山督を追い出された義就は、勝元を擁する政長に対抗すべく宗全に近付く。

また時を同じくして、西のとある一大勢も、因縁の政敵と雌雄を決すべく動き出すことになる。

当時、細川中国明王朝との貿易を幕府の代行として取り仕切っており、この貿易によって大な利益を幕府や自へもたらしていた。

というのも当時の遣明船は、内で相次いだ戦乱や事変によって幕府が独で遣明船を派遣することが困難となっていたため、周防・長門を中心に治めていた大内氏などを仲介することで明へ船を派遣していた。

仲介を行った大名は、幕府や朝廷に対して貿易によって得た利潤、言わばみかじめ料を幕府や朝廷に納めることを要されていたのだが、これを不とみなした大内と、元締めである細川はこの日明貿易の権利を巡って代々争っていたのである。

の代からの抗争相手である細川を今度こそシバき倒す為、そして大内による単独の貿易権を勝ち取る為、当時の大内である大内も山名宗全に接近した。

宗全との対立

を失脚させた事で勝元と宗全の関係は強固になる…かと思いきや、共通の敵を失った2人の実者は、次第に反し合うようになる。

将軍・義政が赤松の再を本格的に企図しだすと、勝元はそれに賛同し旧赤松臣に対する支援を進めるようになる。勝元の支援もあって赤松加賀半分の守護として復活するものの、前述の経緯もあり赤松の再に反対していた宗全は、面をつぶされる形となってしまった。

また、斯波のお問題の際、宗全は自身と縁戚関係にある斯波義廉を支持したが、勝元は義廉の対抗である義敏を支持。面子をつぶされた両者の対立は化する。勝元と対立していた大内を宗全が支持した事も両者の対立を大いに煽った。1466年(文正元年)には実子の誕生を契機に、宗全から養子として貰い受けていた豊久を嫡して強制的に出させており、宗全との対決姿勢を明確にした。

同年には義政に実子となる足利義尚が誕生し、義尚と次期将軍予定だった義視との間に後継者争いが起こる。同年12月に宗全は吉野を蓄えていた畠山義就をに呼び寄せ、1467年(応仁元年)には政長の管領職を取り上げさせ、自身の婿の1人である斯波義廉を管領に祭り上げた。

これに呼応すべく勝元も自の大名をに呼び寄せ、

いよいよ両閥の突は避けて通れない事態に陥った。

応仁の乱

同年1月18日に義就軍は立場悪化で軍を率いて上御霊神社に転進していた政長軍を襲撃(御霊合戦)、勝元はこの戦いでは静観にし、敗北した政長らを屋敷に匿う以上の事はしなかった。

戦いこそ収束したが両共に軍隊を解散せず、町では両の兵による小競り合いが繰り返され、いつ両軍が突してもおかしくない状況が続いた。

5月26日には勝元方(以後東軍)による義政の身柄確保をし幕府政庁(の御所)がある上を攻撃。

これに宗全方(以後西軍)も呼応し迎え撃った事で戦端が開かれた(上の戦い)。

当初は義政を保護し、その関係で東軍を官軍、西軍を敵と認定させる事に成功したことで優位に立っていた東軍だが、宗全が戦況を覆すべく大内支援め、政が大軍を率いてに侵攻してきた事から戦局は5分となり、戦況は拮抗する。

さらに地方にも戦いの波は伝播し、各地で両軍の軍勢が入り乱れての戦いが勃発した。

乱の途中で両軍の旗頭が入れ替わったり・後南の皇子が担ぎ出されたり・病が流行したりなど、戦乱は混迷を極めていき、室町幕府の威は凋落し、の町は荒しきってしまう。

越前守護代の朝倉を寝返らせて越前握し、赤松が播磨など旧領を奪還した事で東軍優位へと傾いていきながらも、各々の的や轢から戦いは文字通り泥沼のごとく延々と続いていき、両軍ともに厭戦ムードが漂っていった。

そんな状況に勝元も乱の終結を望み、1472年(文明4年)から宗全との間に和交渉を始める。

しかし、両軍共に和に反対する勢が多く、和反対の妨工作により交渉は決裂してしまう。

直後に勝元は自身の猶子であり抗戦であった勝之を嫡、督を政元に譲り隠居してしまう。(同じころ宗全も、一説には切腹未遂を起こした末に隠居している。)

1473年(文明5年)、戦争の終結を見ることなく死去。享年44

2かほど前には宗全もこの世を去っており、東西両軍のリーダーが相次いで亡くなってしまった。

1474年(文明6年)には細川・山名両の後継者の間で講和交渉が再開され、同年6月には両の間で和が成立した。

しかし、戦乱は両軍の抗戦諸将によって引き続き繰り広げられる事になる。

人物像

武人気質な宗全とべ、勝元は政治家タイプの権謀・策謀を巡らせる人物だった。

しかし、この姿勢が各の対立をあおった挙句、一線をえた一大事となり応仁の乱を招いた感も否めない。

明との貿易を通して、最先端の技術や知識に精通した当時随一の知識人としても知られていたらしく、

自ら医学書「霊集(れいかんしゅう)」を執筆している。

様々な方面の文化的趣味愛し流人で、和歌に親しみよく歌会を開いて多くの連歌師と交流を持った。また、絵画や焼き物に対する優れた利きを備えていたとも。

文化的活動に精通した一方で、狩り追物も好んで行っている。

宗教面ではを信仰し、パトロンとして寺を新たに建立させている。

世界遺産の1つでもある京都安寺は、勝元が創建した寺である(現在の寺は応仁の乱で焼失した後に後継者である政元が再建させた)。

また、当時の人の中でも有数のグルメでもあったらしく、食材を食べべて産地を言い当てたという。 

特に産のの味を絶賛したという記録が残っている。

関連項目

掲示板

  • 1ななしのよっしん

    2018/02/24(土) 00:02:16 ID: fNf2ke06pi

    >今で言う所のDQNネームの類だろうか。こんな名前を付けられた彼はどんな気持ちだったのだろうか。

    聡明丸は細川吉兆代々の幼名だが。

  • 2ななしのよっしん

    2019/02/16(土) 22:32:36 ID: ZRJg4RQv2u

    >1466年(文正元年)には実子の誕生を契機に、宗全から養子として貰い受けていた豊久を嫡して強制的に出させており、宗全との対決姿勢を明確にした。

    これWikipediaにも、もっともらしく書かれているんだけど、出典がハッキリしないしどうもよくわからない
    勝元の妻は宗全の養女なのだから、この二人の間に男子が産まれたらその子を跡継ぎにするというのは当初からの既定路線であって、宗全もそのように理解していたとのではないか。
    というか山名の血を引く子が細川を継ぐのだからむしろ両の友好のでは。

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最終更新:2019/07/17(水) 05:00

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最終更新:2019/07/17(水) 05:00

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