「細川幽斎」(ほそかわ・ゆうさい/天文3年(1534年)4月22日~慶長15年(1610年)8月20日)とは、
細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)の名でも知られる
室町幕府最強のエージェントにしてリアルチート。
一時期「長岡」姓を名乗っていた時期もあるが、ここでは「細川」で統一する。
……というチートにも程がある芸の数々を誇った、「芸のデパート京都本店」。
あまりのチートぶりの為か「信長の野望」シリーズでの顔グラは毎作何か恨みでもあるのではと邪推しそうなぐらい恵まれない。
※本記事掲載の戦国群雄伝での顔グラは、光源が真下からという、肝試しの定番な顔状態になっている。
細川氏の傍流・和泉守護家、三淵晴員(三淵家養子)の子に生まれる。その後三淵家は兄の藤英が継ぎ、父の兄・細川元常の養子となって和泉守護家を継いだ(ということになっていた…理由は後述)。
剣術馬鹿の室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えていたが、ボンバーマン松永久秀や三好三人衆によって義輝が畳で押さえ込まれor種子島の乱射でぶち殺されると、兄とともに義輝の弟の覚慶(後の足利義昭)を救い出して流寓する。
ちなみにこの時、嫡男・忠興は僅か1歳。連れ戻す猶予もなく置き去りにされ、乳母に救われる形で生き延びている。忠興がああなったのってやっぱりこれが原因なのでは?
越前の朝倉義景の元に逗留した際に、明智光秀と誼を通じて織田信長を紹介され、助力を求めた。信長は松永久秀や三好家を追い出し、藤孝は室町御所を取り戻し義昭を第15代将軍につけることに成功する。
ここまでを見ると足利家の忠臣なのだが、足利義昭と織田信長の仲が悪くなるとあっさり信長についた。ただしこれは時流を見定めた藤孝の判断の正しさが証明されており、家名を存続させる為の冷徹な生存戦略の一環であると考えられる。
以降は畿内を転戦し、松永久秀を攻めて自爆させる手伝いなどをし、丹後国を与えられた。この時によくつるんでいたのが明智光秀で、信長の仲介で三女・たま(後のガラシャ)と嫡男・忠興による婚姻でより結びつきを強固なものとする。
しかし明智光秀が本能寺の変を起こし、助力を乞われるも、信長への忠節を示すが如く息子・忠興ともども髻を落として助力を拒んだ。この時細川家当主を引退し、家督を忠興に譲って幽斎玄旨と号する。
結果として光秀は筒井順慶にも助力を断られ、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗北。落ち武者狩りによって死亡した。
その後、豊臣秀吉が台頭してくると、今度は織田から豊臣へと華麗に鞍替え。この時期に足利義昭が京に戻ってきているが、2人の間には特にわだかまりはなかったようだ。
そして慶長2年(1597年)8月に義昭が死去するが、葬儀を執り行う者が誰一人としていなかったため、見かねた幽斎が葬儀を執り行う。この通り、最低限の礼節は備えていた。
秀吉の死後は徳川家康に接近する。関ヶ原の戦いの際には、忠興とその弟・興元、忠興の二人の息子が会津征伐に出陣し、自分は居城である田辺城を守備していた。
この「田辺城の戦い」での攻防は二ヶ月に及び、厳しい籠城戦を幽斎と妻・麝香、三男・幸隆、甥・三淵光行と共に耐え忍ぶ。ただしこの時、攻め手には幽斎の弟子が多くおり、攻撃に消極的だった。
その後、「古今伝授の継承を絶やす事は出来ない」として、朝廷からの停戦の働きかけがあった。ところが幽斎はこれを断り、「城を枕に討ち死にする覚悟」を示して『古今集証明状』を弟子である八条宮智仁親王に、更に『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。師の本気を感じた八条宮は兄・後陽成天皇に奏請し、改めて正式の勅使が敵味方両軍を訪れ、田辺城は無血開城される。
田辺城に寄せていた西軍は幽斎による足止めを食らった恰好で、結果として関ヶ原の本戦に参加する事は出来ず、後の東軍勝利の一因ともなった。
但し妻を失い嘆き悲しみ怒り狂う忠興からは「最後まで戦い抜いて討ち死にしなかった」として、不仲になった時期がちょっとだけある。無茶いうなよ与一郎。
その後、細川忠興は関ヶ原の軍功によって豊前小倉を治める大名となった。息子・忠利の転封に伴って肥後に移った後は、総理大臣も輩出して現在も続いている肥後細川家の祖となる。
幽斎は京都にて悠々自適のリア充な生活を送った後、享年77歳で死去した。
その他「細川幽斎」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
細川幽斎が養子に入った細川氏の家は、上述の通り長い間和泉上守護家と考えられていた。ところが、史料を追っていくと細川幽斎と、実在した細川元常の時代が明らかに合わないのである。
そもそもなぜ細川幽斎が和泉上守護家に養子入りしたことになったか、簡単に歴史を追っていこう。時は江戸時代、江戸幕府から『寛永諸家系図伝』の編集のため先祖を聞かれた孫の細川忠利。すでに細川幽斎が亡くなっていたために、彼は父親の細川忠興に先祖について尋ねた。
ところが聞かれた細川忠興も大体このような認識だった。
「俺が知るか!妹が関係者に聞いてきたが祖父は伊豆、養父は刑部少輔という官途らしい。まあ俺は親父より格上の外様衆細川奥州家に養子入りしているので関係ないがな、HAHAHA!」
というわけで困った細川家の人々、「刑部少輔、刑部少輔…?あっ!和泉上守護家だな!」ということで和泉上守護家を自分たちの先祖と認識したようだ。さらに後世、和泉上守護家の文書類が自分の家にあったため、子孫すら細川幽斎の養子入り先を和泉上守護家と勘違いしていったようだ。
しかし、史料を丹念に読んでいった結果、元佐々木大原家で、細川淡路守護家に入り苗字した、内談衆細川家がどうも養子入りした先であったようだ。つまり養父は刑部少輔の細川晴廣、その父は伊豆守で細川高久で、細川忠興の証言と合致したのである。
ではなぜ和泉上守護家の史料が肥後細川家にあったのか。1554年、細川元常は病に臥せり、自分の家に伝来する様々な品物を、菩提寺である永源庵に預けた。それから1世紀近くたった1673年、宇土藩主細川行孝の家臣・武田玉翁は、参勤交代中たまたま立ち寄った永源庵に細川家の伝来品を発見した。かくして和泉上守護家の史料もその中にあり、肥後細川家に伝わっていったのである。
困窮し灯篭の油さえ欠く状況ながらも、空気の読めない足利義昭が本を読むための灯りが欲しいと言い出したため、神社に夜中もぐりこんで油を盗み続けた。
ある時、油泥棒に気づいた神主が待ち伏せしていたところに現れた細川幽斎は牛を投げ飛ばす怪力をなぜか発揮せずに捕まったのだが、その際に
「勉強の為だから盗んでも神様は怒らないはずだ」
というジャイアン理論で神主を呆れさせた。
以降は盗む必要なく、神主が油を分け与えたと言われている。
幽斎の嫡男・忠興は若い時分から気性が荒く、一時期は僧籍に入れようかという話まで出たという。
前述の流浪時代にほっぽり出して逃げたからグレたんだろという説はさておき、忠興が悪さをしても怒鳴りつけるでなく
いひ出し とりかへされぬ ものなれば 言の葉残せ 腹はたつとも
(色々言っても仕方ない時は、歌でも詠んでみなさい。
腹の立つような事があってもね)
という和歌を送り、考えさせるという雅な教育を行っている。
忠興の成人後も、家臣からその激しい気性に困る事を訴えられた際、
真菰草 つのぐみ渡る 澤邊には つながぬ駒も 放れざりけり
(居心地の良い沢辺に馬を放しても逃げないように、
情深い主のもとでは、人を繋ぎ止める必要もありません)
との和歌を送って考えるよう促し、家臣を大切にする事の重要さを伝えている。
結果、父同様の立派な教養人になりましたとさ。
幽斎は、
といった程、鯉料理が得意だった。何事も物理で解決するのが一番だ!
時には礼儀作法がなっていないと、海原雄山みたいな事を言ったりもしていたらしい。
ある時、茶会の最中に豊臣秀吉自慢の茶碗「筒井筒(つついづつ)」が落ち、五つに割れてしまった。
当然激怒する秀吉であったが、すぐさま細川幽斎は、
筒井筒 五つにわれし井戸茶碗 咎をば我に 負いにけらしな
と「伊勢物語」の「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」という歌のパロディを創り、秀吉の機嫌をなおしたという。
さすが教養人、とっさのフォローも文化的である。
戦国大戦にも織田家として参戦した幽斎。
しかしそのスペックは2コス7/8特技無しの鉄砲隊と、上記のチートぶりは微塵も考えられない程平凡......どころか鉄砲の本家である織田軍としては、むしろ低い方という有様だった。
せめて柵くらい持ってほしかったところである。まあ采配持ちを考慮すれば佐々成政よりは優れているのだが。
計略の有識故実は独自計略の采配である。
井伊直虎が持っている不屈の采配と同じく武力が上がって兵力も回復するのだが、統率が高い程兵力が多く回復する計略となっており、基本的には不屈の采配の上位計略である。ちなみに「有職故実」ではない。
とは言え長時間計略に乏しく、高コストの武将が脳筋気味の織田家では、効果時間が長い鶴翼の陣を持つ徳川家康か、計略の特性から長時間攻めたいかかれ柴田こと柴田勝家との相性がいいくらいである。
関ヶ原の戦いを舞台にしたver.3.0では豊臣家武断派として、老人の姿で登場。
2.5コス9/10 特技忠誠、魅力と豪勢なスペックだったが、豪勢すぎたため、3.1で魅力削除となった。計略の幽趣佳境は有識故実同様武力と兵力を同時に上げる計略だが、こちらは特技忠誠持ちが持つ「忠誠ゲージ」の量で兵力が決定される。こちらも編成と状況を選ぶが、強力な計略だったため、大幅な下方修正を受けてしまった。
▼「信長の野望 天下創世PK 武将ランキング」教養ランキングは、
2位明智光秀に圧倒的な差をつけての全国1位
▼「信長の野望 天下創世PK 武将ランキング」政治ランキングは、
毛利元就・石田三成と並ぶ全国5位
▼「信長の野望 天下創世PK 武将ランキング」文官ランキング(政治+教養)も堂々の全国1位
▼「信長の野望 天下創世PK 武将ランキング」総合ランキングでも堂々の全国4位。
教養95は伊達じゃない!
▼「信長の野望 革新」地方別武将ランキング近畿編ではチート様(能力95以上)として登場。
▼水瀬伊織と共に室町幕府を支える幕臣として活躍するiM@S架空戦記シリーズ「美希の天下創世」
細川幽斎曰く「騎突するその姿、敵に打ち込まれる大釘の如し」
(※大釘→釘→くぎゅううううううう)
「信長の野望」(PC)シリーズにおける細川幽斎(細川藤孝)の能力一覧。
正直そんなに政治の功績があるとは思えないのだが、なぜか政治寄りの武将になっている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 71 | 政治 | 80 | 魅力 | 73 | 野望 | 62 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 62 | 政治 | 79 | 魅力 | 78 | 野望 | 62 | 教養 | 87 | ||||
覇王伝 | 采配 | 81 | 戦闘 | 67 | 智謀 | 72 | 政治 | 84 | 野望 | 62 | ||||
天翔記 | 戦才 | 140(B) | 智才 | 162(A) | 政才 | 168(A) | 魅力 | 78 | 野望 | 71 | ||||
将星録 | 戦闘 | 67 | 智謀 | 88 | 政治 | 90 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 82 | 戦闘 | 52 | 智謀 | 81 | 政治 | 91 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 66 | 智謀 | 82 | 政治 | 85 | 野望 | 78 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 66 | 知略 | 85 | 政治 | 89 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 67 | 知略 | 81 | 政治 | 88 | 教養 | 95 | ||||||
革新 | 統率 | 75 | 武勇 | 67 | 知略 | 89 | 政治 | 98 | ||||||
天道 | 統率 | 75 | 武勇 | 70 | 知略 | 89 | 政治 | 98 | ||||||
創造 | 統率 | 77 | 武勇 | 77 | 知略 | 85 | 政治 | 90 |
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最終更新:2025/04/20(日) 06:00
最終更新:2025/04/20(日) 05:00
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