細川清氏(?~1362)とは、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
細川宗家の三兄弟のうち長男の細川和氏の嫡子で、細川氏の嫡流ともいうべき存在である。1348年に四条畷の戦いに従軍したのがその初見であり、この当時はすでに亡き父・細川和氏の代わりにその弟の細川頼春の後見を受けていた。
観応の擾乱が始まると細川宗家は完全な尊氏派として活動し、細川清氏も直義派や南朝と戦っていった。その功績が認められ、1352年に伊勢・伊賀の守護に任じられた。1353年の北畠親房、楠木正儀の京都襲撃では光厳上皇、光明上皇、崇光上皇が南朝に連れ去られるほどの惨敗を喫したものの、細川清氏は足利義詮の殿を務め、京都奪還でも活躍したのであった。この功績から若狭守護、評定衆、引付頭人に名を連ね、幕府内での発言力を増すこととなる。1355年の桃井直常、山名時氏、足利直冬らの京都襲撃にも取って返し、南朝軍を破る健闘ぶりを見せた。
そして1358年、足利義詮が将軍になると、細川清氏は執事に任命されたのである。
しかし彼は若狭で半税を強行するなど寺社や公家から反感を買い、また高い地位にいたことから仁木義長、斯波高経らと対立するようになった。清氏はこれに対し1360年まず仁木義長の反乱を察知し、これを防ぐことに成功している。
しかし、彼の活躍はそこまでであった。同年、斯波派であった佐々木道誉が清氏に反乱の気配があると義詮に讒言。1361年に執事職を解かれ追討軍を差し向けられた。細川清氏はこれに対し南朝に投降。楠木正儀とともに京都制圧軍に参加するなど南朝軍として活動するが、すぐに奪還される。敗れた清氏は四国で再起を図るが、従兄弟の細川頼之の追討軍に攻め込まれ、白峰の戦いで敗死したのであった。
これによって細川氏は細川頼春の子孫である細川頼之らに主導権が移り、以後細川和氏の子孫は守護職も与えられずパッとしないまま歴史の表舞台から消えていったのである。
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最終更新:2024/03/28(木) 22:00
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