細川通董 / 細川通薫(?~1587)とは、戦国時代の武将である。
本人たちの意識としては備中守護の細川房州家の出であり、細川晴国、細川氏綱といった細川高国派からも戦力として期待された人物なのだが、はっきり言って唐突に表れて唐突に備中守護の役割を期待された謎の存在であり、後世の系図に出てくる父・細川通政がそもそも実在しないらしいことすら徐々に明らかになっている。
なお、細川通薫とよく間違われるが、本人の意識では細川通董なのである。正直細川通薫とかかれることのほうが多いので、こちらもリダイレクトする。
細川氏の領国の内備中守護家には本来細川頼之の末弟・細川満之の子孫がついていた…はずであった。
しかし、御供衆とやや格下のランクに位置づいていた備中守護家は本家やほかの分家に散々振り回される立場にあり、そもそも備中国自体がほかの細川氏の支配領域を多数含めていたため領国支配には困難が生じ、あまり強く勢力を拡大することができなかったのである。備中守護家最後の当主細川勝久は応仁の乱で本家を支え活躍したものの、乱後は領国が混乱。阿波細川氏から迎えた細川之勝も、結局阿波細川氏当主の細川義春として領国に戻ってしまったため、備中守護家は滅亡したのである。
そこに目をつけたのが細川政元暗殺後の混乱の際、野州家から新たに細川京兆家に迎えられた細川高国。彼はまず従兄弟の細川国豊を備中守護として新たにつけたようである(あくまでも傍証レベルのことだが)。しかしその息子である細川九郎二郎は、領国経営のストレスに耐え切れなかったのか、若くして自死に至ったのだ。
そこで細川高国が行ったのは、ほぼ隠居同然であった自分の父親・細川政春に房州家を興させて新たに備中守護につけたのである。細川政春は細川晴国という後継者も誕生させ、ここまでは順風満帆なはずであった。
が、ここで「大物崩れ」が起こり細川高国政権は崩壊する。一方備中守護も、細川政春の時点でほとんど実権を持たず、庄氏や三村氏が割拠する状態となっていた。従来はここで細川通政が追われ、伊予の河野氏のもとに逃れた後細川通董が復帰したと後世伝えられた。
ところが、細川通政は同時代史料では一向に登場せず、細川通董が細川晴国が活動していた時代から存在しているなど、史実を掘っていくとだいぶ違う姿が明らかになったようだ。とはいえ、細川通董は細川野州家・細川房州家の通字とは全く異なる謎の存在であることには違いない。後世の伝承は間違いだらけだが、少なくとも伊予に行き河野氏から偏諱されたのは事実ではないかとも推測されている。
細川晴国は尼子氏との同盟を選択する中で、備後の山名理興とも結び、備中の旧備中細川氏系統の勢力を細川通董に糾合させようとした。しかし、尼子晴久の大内義隆からの敗走と、山名理興の敗死から、これはうまくいかない。かくして、備中に取り残された細川通董は国衆として生き残りを図った。
ついには、毛利氏に流れ着き、彼の家臣となる。村上武吉との連合軍が織田信長・足利義昭の上洛を支援する等、毛利家臣団として以後行動し、元亀年間にも足利義昭から功績を認められていた。
そして1587年、豊臣秀吉による九州遠征後、赤間関で亡くなった。
細川通董の後を継いだのは彼の息子である細川元通である。彼は毛利元就四男・穂井田元清の娘婿になり縁戚に加えられるなど、かつての備中守護として比較的高待遇で毛利氏の下で過ごしていた。文禄・慶長の役では元清傘下として武功を挙げるなど、決して一武将として恥じない活躍もしたのである。
しかし毛利氏は関ケ原の戦いによって領国を減らされ、以降は元清の息子であり事実上の義弟の毛利秀元元に身を寄せ、彼の家臣として子孫は続いていったのだ。
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最終更新:2024/04/19(金) 18:00
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