織田信孝(おだ・のぶたか 1558 ~ 1583)とは、戦国時代の武将。織田信長の三男。
幼名は三七(さんしち)。
織田信長の側室の子として生まれたのち、信長の伊勢平定作戦の一環として、神戸(かんべ)家に養子として送り込まれ、当主となる。実は「織田」より「神戸」を名乗っていた時期の方が長い(というか織田を名乗っていたのは最後の1年間だけ)。
その後は兄弟の織田信忠・織田信雄らとともに、織田家の武将として各地で戦った。一向一揆の討伐や畿内での戦いにその名前が見える。ちなみに織田家一門としては、織田信忠、織田信雄、織田信包に継ぐ序列4位である。
(1581年の天正御馬揃より)
この頃の活動を見ると、織田信忠ほど大きな活躍はないが、織田信雄のような大失策もない。畿内平定の中で着実に経験を積んでいる。甲州征伐では木曽義昌の寝返りを助けたという逸話もあり、また病気に臥せった村井貞勝の職務を代行したりと、地味ながらそれなりに実務に励んでいたようである。
そして1582(天正10)年、甲州征伐を成功させた織田信忠に続いて、四国攻めの主将という大役・一軍団の司令官に任じられた。いよいよ織田軍の一翼として本格的に羽ばたく・・・はずだったのだが・・・。なおこの頃から織田姓を名乗っている。
四国攻めが上手くいったあかつきには、阿波が三好康長に、ほか一国が信孝に与えられることになっていた。丹羽長秀・津田信澄などを副将として1万以上の軍勢が摂津・和泉に集結、準備が整い6月2日に渡海するはずだったのだが、その当日未明に『本能寺の変』が勃発する。
この時織田信孝が率いていた軍団のほとんどは、実兄の織田信雄、一門の織田信張など信孝直属でない軍が多く、自分の領地が心配になって逃走する者が続出した。こんな混乱した状況の中では丹羽長秀の進言で津田信澄(明智光秀の娘婿)を謀殺するくらいしか出来ずにいた信孝だったが、そこに運良く羽柴秀吉が中国地方から畿内まで引き返してきたため、(名目上は大将として)これを率いて山崎の戦いで明智光秀を討った。
直後の清須会議では織田信雄と織田家当主の座を争う。明智光秀討伐の功績で美濃を得ることにはなったものの、織田家当主の座は織田秀信(三法師)に譲ることとなり、三法師の居城となる安土城修復までの間、岐阜城で三法師を預かることになった。(後見役になったともいわれる)
しかしこの頃から信孝は織田信雄、ついで羽柴秀吉と対立。秀吉は明智光秀が利用した山崎二城(男山城、山崎城)を修築、羽柴秀勝(秀吉の養子で信長四男)を喪主として信長の葬儀を行うなどして対立を深めていった。この動きを柴田勝家が危険視したため、さらに対立が深まった。織田信雄とは濃尾間における国割問題を起こし、柴田勝家らに仲裁されている。
その後、羽柴秀吉は丹羽長秀・徳川家康らと語らい、織田信雄を織田家代行当主に据え、織田信雄のもとで長浜の柴田勝豊、次いで岐阜の信孝を攻撃。三法師を奪い、信孝の母らを人質に取った。織田信孝は美濃の統治に手間取り、森長可や稲葉一鉄らが織田信孝を見限って織田信雄、羽柴秀吉につくなど形勢不利は否めなかった。
翌年1583(天正11)年、羽柴秀吉と柴田勝家の間で戦いが起こると(賤ヶ岳の戦い)、信孝は柴田勝家に味方して戦いに参加。秀吉が擁立する織田信雄、秀吉に味方した羽柴秀長や蒲生氏郷らと戦う。しかし柴田勝家が切腹すると抗戦不可能と判断して降伏。実兄である織田信雄に切腹させられ、一族も皆殺しとなった。一説には織田信雄に和議を持ちかけられ、欺かれたとも言われている。
という句が当時の史料である天正記に記載されている。武門の士として名を惜しみ、本懐を遂げられなかった無念さを表している。
また
という句も伝わっている。こちらは昔、(信孝が切腹した場所と同じ)野間で、「長田忠致らが主君の源義朝を討った。その後、長田らは源義朝の息子・源頼朝によって死刑にされた」という源平合戦の故事を踏まえ、秀吉を逆臣として長田忠致に擬え、その失墜を強く願う句となっている。
ただし、こちらは江戸時代の講談・軍記に記載されたものであるため、大坂の陣による豊臣家滅亡から逆算して作られた可能性が高く、信孝本人の句かどうかは議論が交わされている。
人物評に関しては、とかく安定しないものの、通説としてはそこそこの器量があったと伝わっている。
キリスト教宣教師の記録としては、ルイス・フロイスの人物評があり、そこでは「思慮あり、諸人に対して礼儀正しく、又大なる勇士である。」と評されている。しかし近年、織田信孝は彼らを庇護するキリシタンに近い立場をとっており、家臣の何人かが信孝の意向でキリシタンに改宗していることがわかっており、信孝自身もロザリオを所持していた。洗礼を受けなかったのは父である織田信長の意向であったと言われている。
また別の宣教師の記録では「彼はデウスのことをよく悟り、諸侯及び大身と共にいる時、常にデウスのことを賛美し・・・」などとあり、彼がキリシタンと非常に親しい存在であったことは人物評において、大いに吟味する必要がある。ルイス・フロイスも記録では「柴田(柴田勝家)」「羽柴(羽柴秀吉)」に対して「三七殿(織田信孝)」としており、
好意的に受け止められていたのは確かである。ちなみに信孝と対立した織田信雄については「御本所(織田信雄)は普通より知恵が劣っていた」と散々な評価を書き連ねている。
秀吉が祐筆の大村由己に書かせた「天正記」でも優秀と評している。ただしかなり秀吉ヨイショに偏った内容なので、優秀な信孝…よりもっと凄い秀吉、という見方も出来てしまうので同じく注意が必要か。もちろん秀吉たちが実力を認めていたとも取れる。
いずれにしても、信孝の器量、人物評が定まるのはまだ先の話と言えるだろう。通説ではそこそこの器量があったと伝わっていること、また好事家のスポットライトを浴びづらい存在であることから、創作物などでも同様の評価を受けやすい。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける織田信孝(神戸信孝)の能力一覧。
シリーズ皆勤。とにかく智謀・政治能力の貧弱さが難点(第14作「創造」以降は多少改善されたが)。本能寺後のシナリオでは岐阜で大名として独立する事になるが、城数や武将数に悩まされがちで、難関大名家として挙げられる作品も多い。また兄貴の織田信雄と違ってすぐに寿命が来るため、登場する信長の3人の息子の中では一番使い辛いのも痛い。但し勢力として見ると丹羽長秀、森長可、稲葉一鉄といった優秀な家臣達が配下におり、しかも史実と異なり家臣達が離反する事が殆ど無いのでそこそこ戦える。織田信雄・羽柴秀吉の首を取り、信孝で天下統一を叶えてやるのも一興かもしれない。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 53 | 政治 | 52 | 魅力 | 86 | 野望 | 70 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 63 | 政治 | 61 | 魅力 | 72 | 野望 | 65 | 教養 | 65 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 62 | 戦闘 | 58 | 智謀 | 20 | 政治 | 44 | 野望 | 70 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 142(B) | 智才 | 36(C) | 政才 | 108(C) | 魅力 | 72 | 野望 | 74 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 68 | 智謀 | 15 | 政治 | 52 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 62 | 戦闘 | 58 | 智謀 | 12 | 政治 | 41 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 58 | 智謀 | 13 | 政治 | 32 | 野望 | 64 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 55 | 知略 | 17 | 政治 | 31 | 野心 | 73 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 54 | 知略 | 17 | 政治 | 31 | 教養 | 54 | ||||||||
革新 | 統率 | 58 | 武勇 | 66 | 知略 | 19 | 政治 | 35 | ||||||||
天道 | 統率 | 58 | 武勇 | 66 | 知略 | 19 | 政治 | 35 | ||||||||
創造 | 統率 | 56 | 武勇 | 63 | 知略 | 29 | 政治 | 50 | ||||||||
大志 | 統率 | 55 | 武勇 | 62 | 知略 | 35 | 内政 | 49 | 外政 | 38 | ||||||
新生 | 統率 | 57 | 武勇 | 67 | 知略 | 35 | 政務 | 54 |
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最終更新:2025/03/23(日) 02:00
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