羅憲(らけん。?~270)とは、三国時代の武将・政治家である。字は令則。
「三国志演義」には登場していない。
蜀滅亡時に巴東へ侵攻してきた呉の軍勢を食い止めた、蜀最末期の名将の一人として知られる。
父は羅蒙、襄陽郡の人。戦火を避けて蜀に移り、広漢太守となった。
羅憲は若いころから学問と文章の才能で有名だった。
正史「三国志」の著者陳寿と同じく、蜀の儒学者譙周に師事し、門人からは孔門十哲の一人「子貢の如し」と称された。
その後、蜀の皇太子劉璿の太子舍人、ついで庶子・尚書吏部郎に昇進した。
また、宣信校尉として呉に二度使いし、呉の人から称賛された。
ところが羅憲は、当時蜀の実権を握っていた宦官黄皓に疎まれてしまう。黄皓におもねらない姿勢を貫いてきた羅憲は左遷されてしまい、黄皓派の巴東都督閻宇の副将に任ぜられ永安城に赴任することになった。
263年(魏の景元4年。蜀の景耀6年)夏。魏の鍾会、鄧艾が蜀に侵攻を開始する。閻宇は永安城の兵を引き連れて成都に赴き、羅憲はわずか二千の兵士で永安城の留守を預かることとなった
冬。成都が陥落したとのうわさが流れると、城中や周辺の県は動揺し、逃亡する官吏も続出するパニック状態になったが、羅憲は噂を言いふらすもの一人を斬り捨てて、城内の動揺を抑えた。
その後、劉禅が魏に帰順したとの報が入ると、部下を連れて三日間服喪した。
蜀が敗北したことを知った呉は、救援という名目で軍を西上させ、永安を落とそうとした。
蜀が消滅し、魏の勢力が北のみならず西にも広がるということは、呉にとって挟撃の危機となるからである。
そのとき羅憲は
「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のごとき密接な関係にありながら、わが国の危難に同情することなく、利益を追求して、盟約に違反した。
それにわが漢王朝が滅亡したあと、呉がどうして長く存続しえようか。
呉の降虜になどなれるものか」
(「三国志 蜀書 霍峻伝注」)
といい、城に立てこもった
明けて264年(魏の景元5年)1月、成都で鍾会の乱が発生。占領軍の鄧艾、鍾会が二人とも殺され、蜀は権力の空白地帯となってしまった。
2月。呉は、この混乱に乗じて蜀を勢力下に収めようと、撫軍将軍歩協に命じて永安城を攻めた。が羅憲は城外に出撃し、歩協の軍を撃破した。
呉の皇帝孫休は激怒し、これも三国志末期の名将として名高い陸抗に兵三万を率いさせ、更に永安城を包囲させた。
このころ、蜀の劉禅は洛陽に向かっており、3月には魏から安楽県公に任ぜられた。
旧主に礼を持って遇する魏の姿勢に感ずるところがあったのであろうか?呉軍に包囲された羅憲は、魏の安東将軍陳騫に使者を、そして司馬昭に印綬と人質を送り救援を要請したのである。
永安城が包囲されて半年。兵力の差は十数倍、いまだ魏からの救援は来ず、城内の者の大半が病気にかかるような厳しい篭城戦。北方の上庸や南方に脱出しようとの意見も出たが、羅憲は
「そもそも人の主たる者は、民衆の仰ぎ慕うものである。
危険に際して彼らの安全を保てず、せっぱつまって見棄てるようなことは、君子たる者のなさない行為である。
ここで命を終えよう。」
(「三国志 蜀書 霍峻伝注」)
といい、篭城を続けた。
7月。魏の荊州刺史胡烈率いる救援軍が、呉の拠点西陵に侵入。
西陵はかつて夷陵と呼ばれた地で、後の西陵の戦いでも分かるように呉にとっては対魏や蜀方面の最重要拠点。
陸抗は即座に軍を戻し、かくて羅憲は呉の巴東侵攻を防ぎきったのである。
ちなみに、羅憲の救援に赴いた魏の胡烈は、蜀に侵攻した鍾会軍の先鋒であり、成都で鍾会姜維の反乱を鎮圧した人物。
この羅憲と魏呉の永安城攻防戦は、三国の一角蜀の滅亡という、国際政治状況の激動と混乱のひとつの象徴と捉えることもできるかもしれない。
戦後羅憲は、魏によりそのまま永安と巴東の守備をまかされ、武陵太守・巴東監軍に任じられた。
同じく蜀時そのまま南中を任された霍弋とともに、魏・晋での対呉最前線を担うこととなったのである。
魏から晋に代わった後、晋の武帝司馬炎から、蜀の人材について質問を受けた羅憲は、それに応じて蜀の多くの人材を推挙した。
汝南の陳裕(陳祗の子)
江夏の費恭(費禕の子)
琅邪の諸葛京(諸葛瞻の子)
そして羅憲の同門である巴西の陳寿。
羅憲が推挙した人材は即刻みな任用され、いずれも盛名をうたわれた。
蜀の人材が晋において活躍することに大きな影響を与えた羅憲は、その後も呉討伐の計策を上奏する等、対呉の最前線を担い、270年(晋の泰始6年)に死去した。
羅憲と魏呉の永安城攻防戦の記事、こちら『呉書』三嗣主伝にあり
掲示板
14 ななしのよっしん
2021/09/20(月) 14:19:48 ID: isopBi9JOq
そこは名目上は昇進、実質的には中央政府から遠ざけた上
自分の派閥の人間に直接監視できるようにしたって所じゃないだろうか
15 ななしのよっしん
2021/10/20(水) 16:43:37 ID: Psyi+5dieg
有事の際の臨時任命というわけでもなく、尚書の役人が国境に異動になるのは収入が上がる上がらないに関わらず普通は栄転とは言えないと思う
16 ななしのよっしん
2022/05/30(月) 21:26:28 ID: nydLe2ius7
中央の顕職は椅子が極めて少なく、上に登れなくなった文官が武将になった例は幾つかある
特に当時の中央トップは董厥・諸葛瞻・樊建が健在、彼らの後継者に成り得る外戚の張遵、諸葛瞻の息子の諸葛尚たちも控えている
中央の椅子は順番待ちで羅憲の出番はそれ以上無かったのかもしれない
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最終更新:2024/11/27(水) 02:00
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