美濃部正 単語

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美濃部正(旧姓太田)とは旧日本海軍軍人・航空自衛隊隊員。海軍での最終階級は少佐航空自衛隊では将。
太平洋戦争末期航空夜襲とする「部隊」を設立、終戦まで戦った。

太平洋戦争中に、どんなことでも「わしが育てた」「わしはわかっていた」「わしはしなかった」などと常に最良の行動をしてきたかのようにしても、なぜかそれが矛盾検証されることもく受け入れられている、日本海軍軍人屈されキャラである。

概要

わしは慧眼を持っている軍人に育った

美濃部正は愛知県豊田市農「太田」の6人兄弟の次男として誕生した。「太田」は農で広大な農地を持ちながら、家長の喜四郎が気よく散財したので生活は楽ではかったという。正が小学生のころに近くの瀬川で大ウナギを捕まえて、家族蒲焼きにして食べたところ、正だけが食あたりとなり半死半生のにあったがどうにか一命だけは取り留めた。しかし、その後遺症でスタミナ不足の体質となり体育が苦手となってしまった。

その後、旧制中学に進学するも成績はパッとしなかったが、この頃からパイロットに憧れるようになり、担任や父親から「お前じゃ理だろ」と言われるなか海軍学校進学をすこととした。先に、正と違ってデキのよかった長男守も海軍学校受験して見事合格、その守の応援があったことや、海軍学校の採用人数が増えたという幸運も重なって正は見事合格することができた。

海軍学校ではどうにか合格できた実であったことや、虚弱体質で厳しい教練にはついていけなかったことなどもあって、教官から個別に呼び出されて叱責されるほど成績が悪く、落第も示唆されたことがあった。しかし、どうにか落第はせずに卒業できたが、席次はパッとしなかった。

その後、当初からの希望通り飛行学生に進んだ正は水上機パイロットを歩むことになった。飛行学校卒業後、軽巡洋艦名取」の分隊長のときに日中戦争で実戦を初経験する。その後、「名取」が印(今のベトナム)に寄港した際に、フランス軍の水上機基地の調を命じられ、機転を利かせて見事に調に成功したらしい。

その後も、日中戦争での実戦任務についたが、自らの爆撃被害を受けた中国人民に心を痛め「大東亜共栄圏建設(笑)とか虚なお題を掲げても、中国人民は全く従わないじゃないか、糞ジャップ共!の軍なんぞ所詮山のようなもの」「わしはこんな意味のない任務はしたくない」という自への不信感と厭戦気分を感じて、爆撃任務を放棄して帰還したらしいが命違反にはならなかったらしい。

このころ、正はお見合いをしている。前にも一度お見合いをして、正はノリノリだったが相手側から「お断りします」とフラれたことがあった。しかし今回は、元上官の美濃部貞功少将の息女でもあり結婚することができた。美濃会津士の出と由緒あったが、子供は三人姉妹と女ばっかりだったので、義の要請もあって「美濃部姓」を名乗ることとした。

その後、太平洋戦争が勃発、軽巡洋艦阿武隈」の分隊長になっていた美濃部は真珠湾攻撃にも参加した。攻撃は南雲機動部隊の独壇場で、美濃部の出番はなかったが、ホノルルラジオ放送を聞いていた美濃部は、緊急事態に対処する見事なアメリカラジオ放送を聞いて「わしはアメリカは手ごわいと感じた」としている。実際の真珠湾攻撃当日のホノルルの状況としては、当然ながら(少なくとも一般市民は)予想もしていなかった日本軍の攻撃に大混乱しており、ホノルル放送はすぐには特別放送には入らず、通常放送を30分ぐらい続けたのちにようやく臨時放送となっている。それでも信じない視聴者が多かったので、アナウンサーが「これは演習ではない、本当のことなんだ、信じて・・・」と訴える有様だった。一部の視聴者がこの放送を信じなかったのは、数年前に小説宇宙戦争」のラジオ番組を、通常放送を中断してフェイク臨時ニュースから始めるといった凝った作りとしたため、本当の火星人侵略があった一部の視聴者が誤解してパニックを起こしたという事件が問題となっており、そのことを知っていた視聴者が「またかよ・・・フェイクニュース」と誤解したことが原因とも言われている。

真珠湾攻撃から帰還したあとは、南方作戦に従軍したが、無敵の快進撃でみんなが浮かれるなかでも、美濃部は「わしはこの方面の敵の戦闘準備が不十分だからと知ってた」と、勝っての緒を締めたとしている。次にインド作戦に従軍、セイロン沖海戦では、他艦偵察機とともに偵察に出撃した。偵察飛行中に、戦艦榛名」の水上機が敵空母「ハーミズ」を発見したとの打電を傍受したが、「榛名」の水上機が燃料不足で帰還したので、美濃部は「わしは燃料不足の墜落も恐れず、敵空母に接触して続報を送り続けた」らしい。その後無敵南雲機動部隊が「ハーミズ」をフルボッコにして撃沈したが、そのときに沈みゆくハーミズの写真を「わしが撮した」らしい。今日、「ハーミズ」の最後としてよく見る写真美濃部の作品らしい。

内地に帰還すると岩国会議が開催された。美濃部は末席での参加を許されたが、今までの実戦経験から「わしは南雲機動部隊が対の意識が薄いとわかっていた」として、末席で一番若輩者であったのにも関わらず空母に高速艦上偵察機10機配備して側方索敵を強化すべき」と意見したらしいが、即座に参謀かかから「若造控えろ」と叱責されたらしい。美濃部は、のちの「特攻拒否宣言」(詳細後述)などと同様に、“一番若輩”の美濃部が“一番末席”から“正論”を堂々として、頭が固い老害お偉いさんから否定される・・というシチュエーションを好んでいたようである。

しかし、この時代、高速偵察機なる代物は、のちに美濃部から深刻な風評被害を被る、エンジン艦上爆撃機彗星」と兄弟機の「二式艦上偵察機」がようやく生産が軌に乗った時期で、各艦10機なんて機数をえるのはそもそも理で、さらに機動部隊の側方警については、もっと前から航空参謀の田実大佐していたのはクラスのみんなには内緒だよ!

その後「ミッドウエー戦」では日本軍は惨敗し、その報を聞いた美濃部は「わしが予感した通り空母にやられた」とノストラダムスの大予言なみの予言が的中して震えがとまらなかったらしい。このとき大本営は、民に敗戦をひた隠しにするため、損空母1隻、撃沈した敵空母を2隻と報じ、この後に多用される過大戦果報告のきっかけともなり、報道を知った美濃部はをひそめたが、その美濃部も大戦末期には、わずか火量850gのロケット弾で戦艦1隻大破とか、たった1機の爆撃で600機の敵機を爆砕したとか、大本営顔負けの過大戦果をするようになっていく。

こののち、美濃部はアリューシャン列島攻略作戦に従軍、アッツ島攻略作戦では、偵察飛行しても敵らしい敵が見えなかったので、湾内に着し上陸部隊を引き連れて集落まで達すると、アッツ島一のアメリカ屋に乗り込み「わしがきたから心配はいらない」とそこに住んでいたアメリカ人気観測員夫婦を安心させ、ただ本への通信だけを禁止して、アメリカ屋を後にしたらしい。

しかし、そのアメリカ人気観測員夫婦の妻の言では、糞ジャップ共!兵士たちは上陸してくるや、どう見ても一般屋の気観測員宅に撃を加えてきて、その後にドヤドヤと屋に乗り込んでくると、隊長らしい士官が銃剣を突き付けて色々と尋問した。その日はいったんジャップ軍は帰ったが、翌日夫だけを尋問に連れて行くと拷問して殺してしまったという。妻も日本の捕虜収容所に送られて、終戦まで監禁されており、帰英雄扱いされている。

アリューシャン作戦が終わると、美濃部は飛行学校の教官に異動し、しばらくの間実戦から離れた。

わしが夜襲部隊を育てた

ガダルカナル島を巡る戦いで日本軍敗北したころ、美濃部はソロモン諸島方面に展開する第983海軍航空隊(983)飛行隊長として着任し、実戦任務に戻った。

しかし、特に何もできないまま、戦だけを消耗し、作戦機を失った部下たちに地上戦での玉砕を覚悟させていたが、自分はマラリアを発症させて、部下を前線のブカに置き去りにし、ラバウルの野戦病院に入院する。この後も美濃部は、戦の前線から異動するといった幸運が続くことになる。

ラバウルの野戦病院精神病を発症して入院していた少年飛行兵が「水上機爆弾や機を満載して敵基地を夜襲する」と喚き散らし、従軍看護婦から厄介者扱いされていたが、美濃部はその精神病少年飛行兵の支離滅裂な要望を聞き流さず「水上機で敵基地を夜襲すれば効果が大きいんじゃね?」と思い立った。

しばらくすると美濃部はマラリアの症状が落ち着いたので野戦病院を退院したが、前線のブカには帰らず、ブーゲンヒルブインに赴くと零式水上偵察機1機を爆装させ、ニュージョージアアメリカ軍基地爆撃を命じた。たった1機で侵入してきた敵機に油断してか、水上機は迎撃も受けずに爆撃に成功したので、美濃部は航空機による夜襲に自信を持った。

美濃部はさらに、水上機ではなく戦闘機である「零戦」を爆装して間攻撃すればなお効果は大きく、搭乗員も戦で消耗し練度が落ちている一般の搭乗員ではなく、偵察がな任務でまだ消耗が少なく練度が高い水上機搭乗員を「零戦」に乗せればいいと考えた。美濃部はそう思い立つと、水上機隊である自分の航空隊に「零戦」を配備するように南東方面艦隊部に上申した。

兵科をまたぐような異動は本来であれば現地の艦隊部の権限外であったが、官の鹿任一中将美濃部の異例の申し出を承認した。美濃部はこののちも異常な交渉の強さを発揮して、理な上申を幾度となく海軍上層部に認めさせることになるが、そういう意味ではディベートに長けて、また上官にウケがいい提案書の作り方のコツみたいなのを掴んでいたのかもしれない。

しかし、せっかく異例で認めてもらい983に配備された5機の零戦は、1944年2月トラック島空襲で全機撃破されてしまった。航空機を失った美濃部は、またもや戦地に部下を置いたまま東京に帰って、そのまま第301海軍航空隊(301)に異動となった。

このトラック島空襲の際に、日本軍撃機が間出撃して正規空母イントレピッドに魚雷を命中させて大破させている。既に正攻法ではアメリカ軍機動部隊に対抗困難と認識していた日本軍は、伝統的に得意であった夜襲航空作戦でも多用するようになり、アメリカ軍艦隊も少なからず損を被るようになっていた。そこでアメリカ軍日本軍夜襲対策を強化し、各空母戦闘機を常駐させるとともに、戦闘機だけを搭載した空母群も編成、戦闘揮所(CIC)も夜襲対策を強化していた。その結果が顕著に出たのが1944年10月から戦われた「台湾沖航空戦」であり、日本軍間飛行用の機上レーダーを搭載して間訓練を十二分に積んだ特殊部隊まで投入して、アメリカ軍機動部隊に大規模な夜襲をかけたが、一方的に撃墜されて戦果もほぼなかった。つまり、夜襲専門部隊の編成は美濃部の独創などではなく、美濃部が思い立った時点で既に日本軍の普遍的な航空作戦の一部となっていたうえで、アメリカ軍は万全の対策を講じつつあり、美濃部の敵艦隊への夜襲構想は既にこの時点で周回遅れの遅きに失した発想であったとも言える。このあとも美濃部は自分の理想を追求し、夜襲部隊の編成に向けて悪戦苦闘することになる。

301では大本営参謀田実大佐の異例の計らいで、気心の知れた水上機搭乗員を301に招集し、配備機の「零戦」で空母に対する夜襲戦法の訓練に明け暮れた。またもや、上部組織に異例の特別扱いを受けて充実した毎日を送っていた美濃部であったが、301は元々、戦闘機による制戦闘を任務とする航空隊であり、美濃部に戦の訓練を行うよう示するが、美濃部は全く聞き入れなかったため、美濃部を更迭した。美濃部が育成した零戦隊は後にテニアで制戦闘に投入されたが、美濃部が全く戦技術の訓練をさせてなかったので、一方的に撃墜されて全滅している。

彼は部隊を追い出される形で第302海軍航空隊(302)に配属。ここでは名物指揮官、小園大佐の方針で、「零戦」「雷電」「彗星」(エンジン)「銀河」などといった所属機全部に「斜」を搭載して、本土来襲が予想されているB-29を迎撃するため猛訓練が行われていた。

なかでも小園が強いこだわりを持っていたのが、元々偵察機として開発されていたが、小園の尽戦闘機修された戦闘機月光」であり、小園はラバウルから絶大の信頼を起きてきた遠藤幸男大尉を分隊長として、「月光」隊を育成していた。美濃部はその上官として着任したが、301在籍時同様に、戦闘機隊の指揮官ながら戦に全く関心のない美濃部は、ここでも「月光」隊による間の敵機動部隊攻撃作戦企画し、その訓練を行わせた。遠藤はこんな駄なことにつきあっていられるか!!とばかりに、1944年6月北九州に初来襲したB-29の今後の来襲に備えるとして、自ら長崎県大村海軍航空隊行きを小園に直訴、遠藤希望通り、大村海軍航空隊に部下3機と派遣された。

遠藤大村に去った1944年7月父島付近にアメリカ軍機動部隊が来襲したとの報告を受けて、美濃部は育成してきた「月光夜襲隊の出撃を命、「零戦」と「月光」の混成部隊24機が出撃した。しかし、両機は速度が異なり編隊を維持するのが困難で、それに「月光」は、もともと間に敵爆撃機を迎撃することに特化した機体で、爆弾を搭載して間に洋上を長飛行するという運用は初めから向いておらず、敵と接触もできないまま、航法を誤った未帰還機が続出。結局、父島付近にアメリカ軍の機動部隊はいなかったのにも関わらず302は合計5機を失うという惨敗を喫し、この後まもなく美濃部は302更迭されて、最前線フィリピンの第153航空隊(153)に異動することとなった。

一方で美濃部に想を尽かして大村に行っていた遠藤は、1944年8月20日北九州に来襲したB-29を迎え撃ち「撃墜確実2、不確実1、撃破2」を報じる活躍を見せ、感状を授与されてのちに「B-29撃墜王」として民的人気を獲得することになった。

153では海軍学校時代の元教官の上官に「防体制がなってない」とイキるなど、駄にってフラグを立てていたが、アメリカ軍の重爆撃機堂々と大規模な爆を開始すると、美濃部の部隊の所属機の「月光」も地上で撃破され、きっちりとフラグを回収した。美濃部が率いた部隊は、この後も地上で大量の作戦機を撃破されており、この痛い経験がのちに秘密基地岩川基地」の発想に繋がる。

かしこのときは、機体を隠すことより、に堂々と来襲する重爆撃機の大編隊を戦闘機月光」で迎撃するという、どう見てもフラグ以外の何物でもない決断をして、数日後に来襲したB-24の編隊に対し所属の「月光」と「零戦」で全出撃した。当然ながら、B-24隊には護衛戦闘機P-38がついており、美濃部の揮する153901戦闘隊は迎撃どころではなくたちまちにP-38に追い散らされ、2機を撃墜されるという惨敗を喫した。元々、美濃部は所属機に自分の方針で戦の訓練を行っておらず、戦闘機月光」は当然として「零戦」も戦は初めから理であった。なぜか、敵戦闘機の護衛を全く想定していなかった美濃部は「これは大変なことになったわい」と思って、やはり慣れない迎撃任務は諦めて、得意?の夜襲戦法にすることとした。

その後は、敵機動部隊に対する間出撃を繰り返したが、戦果は全くなかった。戦闘機月光」が間の敵艦攻撃任務に全く適正がないのは、302での失敗で明らかであったが、美濃部が失敗から学ぶことはなかった。また、学習の乏しさのせいで、爆撃により地上で作戦機が撃破されることも続き、成果も上がらないまま「月光」だけを失いたちまち壊滅状態に陥った。

美濃部が前日の襲で破壊された自隊の「月光」の残骸片付けに追われていたある日、第1航空艦隊部から、美濃部らがいるダバオにアメリカ軍が上陸したから至急撤退するようにという命があった。実はこれは誤報で、とある兵士の見間違いによる誤報をも確認することく、部がパニックに陥って撤退命を出したというのが相であった。これは「ダバオ誤報事件」と呼ばれ、日本海軍の大不祥事の一つに数えられているが、美濃部は、自隊の「月光」は全て襲で破壊されていたので、他の隊の「零戦」を借用すると自ら操縦してダバオ湾内を偵察飛行し「わしが誤報だと確認した」としている。しかし、複数の関係者によれば、自ら偵察飛行し誤報であると発覚したのは、第201海軍航空隊副長の玉井浅一中佐が自隊の「零戦」で偵察飛行をしたからだとされている。

地上と中で「月光」を壊滅させてしまった美濃部は、残った「零戦」で、大暴れをしていたアメリカ軍魚雷艇狩りをすることとし、11月初めからの1週間で7隻の魚雷艇を撃破したと。もっともこれは過大戦果報告で、この間のアメリカ軍魚雷艇被害爆撃機爆撃で全損した1隻(つまり美濃部隊の戦果ではない)のみであり、実際の戦果は0であったが、今までと同様に美濃部の卓越したプレゼンで、美濃部隊アメリカ軍魚雷艇隊を制圧したみたいな話が広がって、その(の)活躍談を聞きつけた「特攻」こと第一航空艦隊大西治郎中将から呼び出されて、戦中のレイへの補給を妨しているコッソルアメリカ軍魚雷艇基地攻撃を打診された。

「「月光」に敵基地攻撃は理です。」と全く向かない敵機動部隊への夜襲駄に「月光」を消耗していたことは置いといたおまいう的な反論を美濃部がしたところ、大西が「ならば特攻で」と打診してきた。ここで、美濃部は「特攻には指揮官はいらない」「特攻より大きな効果を得られるのなら間攻撃で十分ではないか」と反論して大西の申し出を拒否した。

この大西に対する特攻拒否は、のちの特攻拒否宣言(詳細後述)と違って、当時の美濃部以外の関係者も同様な言をしているなど裏が取れており、気がある部下を好んだ大西は、強面の自分に正々堂々と反論した美濃部を評価して、特攻拒否宣言を認めて、美濃部の好きにしてよいと命じた。

美濃部はここでも上キラーぶりを発揮し(笑)大西の信頼を勝ち取って、ある日部に呼び出されると、内地に帰って、美濃部がする夜襲部隊を再編成して、またフィリピンに戻ってこいと命された。つくづく上官に好かれる男美濃部は、部下を置き去りにできないと一旦は拒否するが、結局は大西の申し出を受けて、またまた部下を置き去りにして日本内地に帰ることとなった。

部隊再編のため内に引き上げたものの機材はなく、基地も間借り状態。機材もなければ根拠地もない中、美濃部は単身零戦に乗って場末の基地をめぐり根拠地を探す一方、人員や機材も探す羽になった。などと、美濃部は「わしは苦労した」と著書でしているが、実際は、大西の口利きで、海軍航空本部から手厚い支援を受けることになった。

わしが水冷型彗星を育てた

1945年1月美濃部は静岡枝飛行場(現静浜基地)を本拠地と決めた。枝に決まった経緯は、美濃部が自ら「零戦」を操縦してあてどもく飛行場を探し、静岡付近まで達して諦めかけてたところ、富士山が望めるところによさげな飛行場を発見したので、速着陸し、基地市川大佐に直談判して快諾を得た。とするどう見ても「え?いくらなんでも・・・」という経緯なのだが、美濃部が言うと説得があるのか、これが事実扱いされている。

まぁ、なんだかんだで根拠地となった枝飛行場から見える富士山の別名「峰」から「部隊」と名づけることとした。美濃部は部隊名の使用許可申請と、達筆で知られる第3航空艦隊寺岡中将部隊名を毛筆で書いてもらおうと思って、物資不足のさなかで重だった静岡ミカンを「零戦」の機体に大量に積み込み手土産として木更津部に向かった。寺岡は「ダバオ誤報事件」の失態で更迭されるまでは第一航空艦隊美濃部の上官であり、美濃部のことを高く評価していたのと、大量のお土産ミカンを喜んで副官に「美濃部君はゴマすりする男じゃない、美濃部君の言うとおりにするよう」と副官に命じ、喜んで「隊」と旗に部隊名を毛筆でしたためた。美濃部はこの寺岡筆の部隊旗を枝基地の揮所の立つところに掲げた。上の得意分野をわざわざお願いして、上の気分をよくさせる。というのは、今日のデキるサラリーマンによる典的な「ゴマすり」術であり、美濃部はそれを十分にわきまえていたのだろう。

ただし、この部隊はあくまで非公式だった。
というのも、実のところ、「部隊」は、×××といった三桁の数字によるナンバリング部隊ではない。
書類上、部隊は804、812、901の三個飛行隊を統合していることになっているものの搭乗員は転科者中心の寄せ集め。名上は戦闘機部隊だが実際は間の地上・対艦攻撃任務をとしていたこと。
管理する上級部隊も明確にされておらず、指揮官であるはずの美濃少佐も位置づけも書類上では曖昧。
というなんというか表現に困る部隊だったのだ。こんな異例な部隊を任されるようになったのも、寺岡に対する高度な「ゴマすり」が奏功したのだろう。

基地と部隊名と隊旗の次は、肝心の搭乗員集めであった。美濃部は人事局に行って、これとをつけていた水上機の熟練搭乗員を名して優先的に配属させてもらった。本来ならこんな恣意的な人事はよっぽどの高官でなければ不可能であったが、大西の息がかかっていたため、それが可となった。

機体については、フィリピンで使い慣れていた「月光」(一方的に撃墜撃破されただけだったが)は既に生産が終了しており、それに変わる機材は当時、エンジン搭載の三三が導入されて各地で持て余された余剰機材である艦上爆撃機彗星」一二をかき集めることにした。
この機材、エンジン(アツタ32)を搭載されて高性だったものの、冷になれた整備兵達では満足な整備も受けられず評判も悪かった。そのため、100機以上が各航空隊に野ざらしにされており、その機体をかき集めたなどと、美濃部はし、なぜかそれが事実のように伝えられているが、これは彗星」への深刻な風評被害であり、エンジンの三三が生産開始された後も、上昇に優れ、加速や最高速度が速い彗星」も継続して生産されており、その艦上爆撃機らしからぬ速度を活かして、に対重爆撃用の戦闘機として多くの航空隊で運用されていた。

そのため、海軍航空本部は一応は「戦闘機隊」扱いであった部隊に優先して彗星」を配備したものであり、実際に、部隊に配備されていた「彗星」は放置されていた寄せ集めなどではなく、元々の「彗星」の工場であった愛知飛行機の三三生産に移行した後、彗星」の生産を担当したの第11海軍航空敞が生産した後期生産の新品や、不具合もなく活躍していた戦闘機冷「彗星」をわざわざ他の航空隊から取り上げて、部隊に配備したものであった。このように美濃部は時折、歴史的な事実を曲げて、あたかもダメであったものを自分が善したように吹聴することがあった。

問題の稼働率も、美濃部が自ら愛知飛行機に直談判し、整備士をメーカー愛知航空機派遣して整備の研修を受けさせ技術の向上をはかった。

とここまではいいのだが、当時の他の航空隊の彗星」の稼働率を10%であった(根拠し)とし、部隊がそれを80%まで跳ね上げた(根拠し)。などとしたこともあるが、これまた彗星」への深刻な風評被害であり、慣れないエンジンで当然ながら、熟練度で航空隊ごとに差はあったものの、通常に彗星」を運用している航空隊では稼働率は60%程度だったと言われ、阪神地区で本土防に従事していた第332海軍航空隊に至っては1機の故障機もなく100%を維持していた。(のち所属機全機を部隊に取り上げられている)美濃部自身もあんまり吹かしすぎたと反省したのか、遺稿となった著書『大正っ子の太平洋戦記』においては、部隊彗星」の稼働率を、他航空隊からは10%~20%高めの稼働率70%であった。とやや控えめ(笑)をしている。

もっとも70%にしても80%にしても、それでも過大で、部隊が戦時中に作成していた公式記録部隊戦時日誌』で所属機と稼働機の記録があるところを抜き出すと、せいぜい50%から60%となっている。それに、これもどうにか飛行可な機数で、出撃した後に故障で引き返したり、墜落したりする機数も多数にのぼっており、実際の稼働率が他の航空隊と較して高かったとは言いがたい。

美濃部と部隊は間違いなく彗星」の評価向上に大きく貢献はしているが、それは、本来の彗星」をかなりdisって培ったものであった。彗星」は別に部隊で特別な働きをしたものでなく、基本性の高さで、通常の艦攻撃から特攻からB-29相手の防戦闘からあらゆる局面で活躍した名機であった。

また搭載する武装についても試験中のロケット弾、を感知して爆発する電管爆弾、対爆弾、タ弾(今でいうクラスター爆弾)などかなりのキワモノ的特殊装備をかき集めて導入することになった。得体の知れない、はっきりと実用化になっていない兵器でも使えそうなら使うというなりふり構わないものだった。

しかし、他の航空隊が使わなかった(というか使えなかった)ものが部隊だけで活躍するわけもなく、「低飛行してロケット弾で敵飛行場や艦を精密攻撃ナリ」と考えていた美濃部であったが、実戦は美濃部が想定するよりかに過酷で、低飛行で敵艦や飛行場を攻撃した「彗星」や「零戦」がアメリカ軍対空砲火でバタバタと落とされたことから、沖縄戦が開始されて1ヶも経たない1945年4月末には、まず「零戦」による飛行場間攻撃を断念した。元々、美濃部の発想は「練度が高い水上機の搭乗員が零戦に乗って敵艦(基地)を夜襲すれば効果が大きい」というものであり、今まで何度も挫折しながら諦めなかった戦闘機による敵基地への攻撃が、実は初めから困難であった思い知らされることとなった。

また「彗星」についても、しい対空砲火により、低でのロケット弾はおろか、急降下による精密爆撃困難と思い知らされることとなり、5月初めには緩降下で3,000mの高度で爆弾を投下するように戦術を変更した。通常の急降下爆撃はせいぜい高度700mぐらいから投下するもので、それで高い命中率を計上していたが、いくら標が大きく、不動だからといって高度3,000mから緩やかに降下したのでは狙った標に命中させられるわけもなく、いわば「当てずっぽう」で投弾していたことになる。また、美濃部は「心理戦」と称して高度3,000mからの機掃射も命じたが、こんなものが大した効果を望めないことは、自明の理であろう。

ちなみに終戦後に進駐軍に引き渡した部隊兵器録には、これらキワモノ兵器の在庫は全くなかった。美濃部も使い物にならない武器を補給してもらう必要はないと考えたから備蓄もしていなかったんだろう。

わしが熟練パイロットを育てた

さらにはパイロットの育成方法も他の航空隊とは異なっていて、飛行時間が15時間というもはや練度をあげるどころではない状態の中、実用的なを効率的に行うことに成功。座学は今でいうシミュレーションのような形をとっており、同部隊に配属された新人でも実戦に参加できるだけの向上、練度維持に成功していた。特に間攻撃を主任務と考えていた美濃部は、隊員に逆転の生活を送らさせて、生活リズム間出撃に合わさせたが、美濃部はこれを「日課」(別に逆転してないけどなぁ)と名付けている。他にも、暗に暗闇を凝視させて間視を鍛えるとする意味不明の訓練もあった。

美濃部や美濃部を讃える書籍などでは、これがあたかも部隊独自の制度のようなをしているが、前にも述べた通り、航空機による間攻撃というのが別に美濃部の専売特許でも何でもなくて、逆に日本軍航空隊の戦術の軸となっていたため、各航空隊で同様の訓練が行われていた。

のちに美濃部が「わしなら2,000機が束でかかってきても一ひねりで勝てる」(詳細後述)などと味噌disった練習機の特攻隊員などは、練習生からある日突然特攻隊員に回されたが、練習機「菊」が間攻撃じゃないと敵艦隊に近づけもしないと認識されていたので、逆転日課底的な訓練が行われて、1ヶ後には、単機で面から高度10mを維持しながら単機で沖縄まで到達し敵艦隊を攻撃可なまでに育成された。これは、航法の負担を軽減するなどとして、レーダーに捕捉されるのも構わず高度4,000mを数機で沖縄まで飛行した部隊搭乗員より下手すれば操縦、航法が高かった可性もあるほどだった。

部隊の特色のひとつに、進出先部隊枝基地の後方訓練部隊という二つの拠点を置くことで、実戦・パイロットの休養・新人教育・導入をローテーションで行うことが可なったことが上げられる。
何しろ当時の日本海軍航空隊は開戦から終戦に至るまで、「基礎的な訓練は前線から呼び戻したパイロットに数人つけて教育」→「ものになりつつあれば後方に戻った部隊に送り込んで現地で教育・訓練」→「前線に進出」→「戦消耗まで戦い、理になったら後方で再編成。運が悪いと所属パイロットバラバラ」というなんていうか、時ならまだしも戦時では大量動員に向かないし、パイロットの疲労を回復する手立てもないというどうしようもない有様だったのだ。そんな中でもアメリカ軍航空部隊のような戦いぶりともいえる。

わしは特攻を命じなかった(はず)

前に述べた通りフィリピン美濃部が1度だけ特攻を拒否したのはどうやら事実のようであるが、美濃部は別に特攻否定ではないし、逆に積極的に特攻企画した方である。

美濃部の空母に対する夜襲の戦術は当初から「間もしくは明けで敵戦闘機が十分に行動できないときに、攻撃機爆撃で甲上を攻撃、最後は航空機もろとも甲上に滑り込んで(つまり体当たり)敵艦載機を一掃する」であって、確実に敵機動部隊を攻撃(特攻)できるチャンスをうかがっていたに過ぎないのである。

そのチャンス1945年2月に、アメリカ軍の第58任務部隊硫黄島の戦い支援のために日本本土を襲した際に訪れ、美濃部は志願もしてない隊員を勝手に特攻隊に選抜すると、準備万端で別れの杯を並べて、出撃する隊員ひとりひとりと握手を交わしながら、「敵機動部隊がいたらそのままぶち当たれ」とか「敵空母がいたら甲に滑り込め」などと特攻を命じた。それも今まで散々間訓練をしてきたのに、出撃はとなり、敵艦隊に到達するのはの予定であった。

幸か不幸か、このときの出撃機は敵艦隊を発見できず、隊員らは胸をなで下ろしながら帰路についたが、アメリカ軍艦隊はレーダー部隊機を発見しており、艦載機部隊機を追尾させていた。そして生還した部隊機が枝飛行場に着陸したタイミングを見計らって攻撃を開始、たちまち出撃機8機は全機撃破、搭乗員1名と整備兵2名が爆死したが、美濃部は防壕に逃げ込んで事であった。

その後、硫黄島に進攻してきたアメリカ軍艦隊に対して、部隊から特攻を出すという噂がまことしやかに流れた。まぁ直前に美濃部が特攻を命じていたのだから、隊員がそれを信じるのは理もない話で、隊員らはり切る者や絶望する者などが入り交じってを飲みながら大騒ぎし、収集がつかなくなったので、やむなく美濃部は、この騒ぎを鎮めるため「おまえらは特攻に出さない」と先日特攻を命じた舌の根もかないうちに約束をさせられた。

しかし、このときこの約束を聞いたとする隊員と、美濃部から「部隊特攻はしない」などと聞かされたことはただの一度もいと言する隊員に分かれており、この後も部隊ではこのように、美濃部がすることを「は聞いてないよ」とする言が多見されるようになる。

結局、部隊特攻にというのは、同様な編成の他の航空隊が神風特攻隊『第2御隊』として出撃するといった話を隊員のかが誤解して広げたと判明したが、元々空母配備の精鋭部隊として育成されていた『第2御隊』は32機の少数ながら護衛空母1隻撃沈、正規空母サラトガを大破、他にも数隻に損傷を被らせるなど大戦果を挙げて、硫黄島で苦闘する守備隊を大いにづけた。

美濃部の約束約束に終わり、この後も美濃部は、沖縄戦特攻出撃を命じた(このときも空振り)が、遺稿「大正っ子の太平洋戦記」では自分が特攻出撃を命じたことは書いてない。

わしが特攻を拒否した

1945年2月沖縄防衛のため、アメリカ軍機動部隊に対する攻撃方法を検討する会議(研究会)が行われる。官代理として出席した美濃部は会議に出席して驚くことになる。
そこでられたのは十重二十重の防をもつアメリカ軍機動部隊に対して、練習機まで持ち出しての特攻作戦の強要であった。いやらしいのは研究会という名であって正式な形での「特攻」ではないところもある。
なにしろ満足に飛べもしない若年パイロットを動員して練習機に載せれば書類上は攻撃機数は増加する。陸軍にもメンツは立つし海軍は「やるだけやりました」という言い訳もたつ。ことここにいたって(当時の日本においてはどこもそうだったが)成功の可否で作戦の是非を検討するのではなく、褄あわせ的な考えが横行していた。
海軍上層部でも根回しもすんであとは現場に「この方向でやってくださいね」(と言うにはヒドすぎる話だが)という席の中、末席の美濃部は反抗。

赤トンボまで出して成算があるというなら、ここにいらっしゃる方々がそれに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦1機で全部撃ち落としてみせます」

と、啖呵をきることに。
今ならKYとか言われるとは思うが命をかけて戦う以上、特攻は最終手段であり、美濃少佐にはまだ夜襲が出来る部隊がある以上、はいそうですか。と受け入れるわけはいかなかった。

戦後美濃部のによれば、このとき美濃部がした反論はもっと長文になるが、要約すると上記なようなもので、この会議のやりとりが美濃部の今日の評価を高め、あたかも歴史事実のようにられている。

しかし、この会議自体が、美濃部の言、著書やそれを引用した資料にしか登場しないことや、また会議連合艦隊催の作戦会議であったり、第3航空艦隊催の沖縄戦研究会であったり、参加者に第5航空艦隊中将や第1航空艦隊大西治郎中将がいたりいなかったり、美濃部が口論した参謀が黒岩少将誰?)とか鹿中将とか、酷いのになると、ある参謀とか名無しになっており、まったくバラバラであって、そもそもこの会議自体があやふやであるうえに美濃部本人も戦後まもなく作成した部隊公式報告書「部隊作戦戦史」では、この会議美濃部は「あんたたち作戦機の隠匿はちゃんとやってるの?」と、フィリピン枝で、手に自分の部隊の所属機を地上で撃破されたことは棚に上げた、おまいう的なをしただけで特攻に対して何か反論したとかは一切書いてない。

美濃部の戦中戦後の報告書や著書を見る限りにおいて最初に、「わしは命を賭して特攻に反対した」としたと記述したのが、美濃部が1969年に出版した非売書籍の「まぼろしの戦斗部隊史」という書籍であった模様で、その後に戦史作家豊田オーストラリアジャーナリスト特攻の詳細な書籍を出版したデニス・ウォーナーが取り上げ、さらに戦記作家渡辺洋二が自分のあらゆる著書で何度も取り上げ、最後には『海軍戦闘機隊始末記 彗星夜戦隊』(のちに『彗星夜襲特攻拒否の異色集団』として再版)という部隊を単独で取り上げる書籍まで出版したおかげで、「美濃部正と部隊は命を賭して特攻に反対した」という正確とは言いがたい伝説が広まることとなった

しかし、事実とは違うことを美濃部は認識していたのか、戦後特攻に対しては取材に答えるかたちで「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」とかちょっとイカす言い回しで、特攻を容認するような回答をしている。

その一方で、他の取材では「ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている。あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとはまったく次元が違うことも理解しなければならない」「私は、若い搭乗員に特攻作戦の命を下すことはできなかった。それを下した間に、私は何の権利もなしに彼らの人生を終わらせてしまうからだ」などと特攻を命じたはずなのに、おまいう的な発言も飛び出している。

そして、散々美濃部がバカにした練習機による特攻が、機体の一部が木製でレーダーや近接信管に反応しにくかったり、遅すぎて飛行機と気づかれなかったり、練習機だけに操縦性が抜群で、未熟な練習生が巧みな操縦をできたりと、ローテクがかえってアメリカ軍を苦労させて、駆逐艦を3隻撃沈し、他にも多数損傷させるなど、オンボロ練習機としては十二分すぎる戦果を挙げていた一方で、皮なことに、艦攻撃に関しては、最新鋭機を優先的に回され、搭乗員もベテランばかりの武隊の確認できる戦果はまったくなかった。

もっとも、この美濃部の練習全滅宣言が事実であったとしても、美濃部自身は、実戦任務としては水上機の偵察や爆撃任務しか行ったことがく、部下に対しても、戦闘機搭乗員に戦の訓練をさせないというユニーク(笑)拘りを貫いていた美濃部に、相手が例え練習機と言えども戦での撃墜は理であっただろう。

話が脱線したが、美濃部の啖呵があったかなかったかはよくわからないものの、一応「戦闘機隊」扱いであった部隊は当面は特攻編成からは外されることになった。

これまた、美濃部は「わしが特攻を拒否したから例外的に特攻しなくてよかった」としているが、そもそも、大戦末期沖縄戦においても特攻した航空隊より、通常航空作戦を行っていた航空隊がかに多く、部隊が例外であったというのは全く事実根で、部隊の隊員たちも自分らが特攻編成を外されていたなんてことは全く聞いていなかったという。

わしが沖縄戦で大活躍した

3月末には九州に進出し、4月1日より始まった沖縄戦で、計画通り敵機動部隊標として出撃を繰り返した。しかし、連日特攻手な戦果を挙げたと報じられるなかで、まったく戦果があがらない部隊に苛つく美濃部は、ある日、敵味方不明の潜水艦を発見したが、味方と判断して攻撃をしなかった、という隊員の報告を聞くや激怒して「こんな時期に味方の潜水艦がこの辺りを航行しているはずがない、敵艦に決まっとるだろうが、なんで攻撃しなかった」と決めつけてしく罵倒した。その潜水艦が本当に敵だったのかは不明であったが、美濃部が味方じゃないと決めつけたのはいかにも拙速であり、実際には回天を搭載した多々良隊の4隻の潜水艦が同時期に沖縄域で作戦中であった。

このとき美濃部に罵倒されたのは海軍士官学校出身の現役士官であったが、美濃部のしい罵倒をずっと気にしており、後日の出撃では、汚名を返上しようと、理に戦場に深入りしすぎて未帰還となって戦死した。美濃部はその士官の深入りの原因となった自らの罵倒について「現役士官に対する躾であった」と著書に記述している。

その後、菊1号作戦で初めて部隊は敵艦隊との接触に成功、巡洋艦や大輸送艦ロケット弾や機掃射を命中させて撃破したとの戦果報告を行ったが、アメリカ軍の同日の被害報告には該当する損記録されていない。第5航空艦隊部も、部隊にあまり効果の上がらない艦攻撃をこのまま続けさせるよりは、特攻機の障害となりつつあるアメリカ軍沖縄の飛行場を攻撃するようにと美濃部に命じた。

この後は、飛行場攻撃を主任務としながら、敵艦隊に対しても偵察攻撃を行うといった部隊運用となったが、菊1号作戦以降は艦索敵や攻撃でど成果らしい成果は上げてないので、実質的には部隊の活躍の舞台アメリカ軍飛行場攻撃となった。と言いながらも、沖縄戦の初中期に沖縄の飛行場攻撃を熱心にやっていたのはむしろ陸軍の方で、陸軍は重爆撃機や双発軽爆撃機を多数投入して、間問わずにアメリカ軍基地爆撃していた。それに「零戦」や「彗星」といった単発で本来は地上攻撃を的としていない部隊機よりは、地上爆撃的として開発された陸軍の双発の重爆撃機や軽爆撃機の方が搭載爆弾も多く、打撃も上であった。従って、一部で勘違いされているように部隊がほぼ単独で沖縄の飛行場攻撃をしていたわけではなく、攻撃から見れば、むしろ部隊陸軍爆撃隊はおろか、南九州台湾の基地から出撃し飛行場を爆撃していた同じ海軍航空隊の陸上攻撃機隊のおまけみたいな存在だった。

敵の迎撃もしく、陸軍の重爆隊が「敵機数機を地上で爆砕セリ」などと手な戦果報告をする中で、部隊は未帰還機を多数出しているのに、戦果は飛行場で何カ所に火災発生などと迫に欠けるものばかりであった。しかし、敵艦と違って、与えた損がはっきりと判定できない飛行場が標であったことや、美濃部が前から秀でていたプレゼンフルに発揮し、第5航空艦隊に詳細な報告書や提言書を提出するなど過剰アピールを欠かさなかったおかげもあって、部隊は何かよく分からないけど活躍しているらしいみたいな評価が広まって、いつの間にか優秀な部隊扱いとなっていた。今まで、美濃部の卓越したプレゼンで大した実績も上げてないのに、鹿田や有馬寺岡大西といった海軍航空の重鎮らが美濃部を褒め称えていたので、肩書きや権威を持った人間の評価に流されやすい日本人の弱点を巧みに利用したとも言える。

わしが秘密基地「岩川基地」を作った

鹿児島県の岩現在の曽大隅町)に海軍は飛行場を建設していた。この飛行場は発電機や弾薬庫などコンクリートで固めた多くの地下施設を構築されていて、付近の菱田川から取しこれを浄化して生活として使用するための施設など、それなりに施設の充実した飛行場であったが、まだ一部が未完成であり、使用頻度は少なかった。

1945年4月末に海軍は岩特攻隊の基地として整備すべく設営隊に工事を命じた。そんなときに、アメリカ軍の機動部隊がしばしば九州に接近して、南九州の飛行場を爆撃してきたため、作戦機を分散させて敵の攻撃の被害を抑えつつ、反撃を高めるべく、各航空隊の再配置が命じられた。

部隊は、特攻隊基地として整備予定であった岩川基地行きが命じられたが、その命が出る数日前に美濃部は副官を岩川基地を視察しており、もしかしたら先に内示があってたかも知れない。美濃部は自分が岩川基地を発見し(笑)第5航空艦隊に岩使用を申し出たとしているが、岩への部隊の配置転換は、他の航空隊が各地に分散するのと同じタイミングで命じられており、部隊の配置転換だけが美濃部自らの申し出で決まったとは考えづらい。

にもにも部隊は岩に移動することとなった。このとき、岩の工事について美濃部が「わしが秘密基地にするよう命じた」などとしているが、先に述べた通り、岩川基地整備命美濃部が岩を発見(笑)する前から命じられており、美濃部が細かく示をする余地はなかった。

施設隊は当初から決められていた通り、飛行場設備の整備を行ったが、もっとも急を要したのが兵舎の設営で、飛行場建設当初は上から丸見えのところに建設する予定であったが、のなかに三角兵舎を建設することに計画変更となった。また、既に食堂厨房や集会所などの多数の施設が丸見えのところに建設されており、それをの中に移築するか除却する作業も同時に行われた。

飛行場の施設的なものの工事は設営隊が行っていたので、美濃部は、今まで多数の作戦機を為に地上で撃破されたことの反省から、滑走路を隠すためにカモフラージュすることを思い立ち、付近の農家の協(有償)も仰いで、多くのを刈り取って滑走路上に敷き詰め、そのうえに可動する掘っ立て小屋や木を置いた。そして刈り取ったの上にはを放牧してあたかも牧場に見せかけようとした。

この小細工でアメリカ軍全に欺いたなどと美濃部はしているが、滑走路を隠したつもりでも、滑走路周辺には移築や除却途中の軍施設が多数放置してあるのと、の中に兵舎を作ると言ってみても部隊と設営隊で3,000名以上もこの狭い区域にひしめき合って生活していたので、当然ながら上からは丸見えの地元農家などに兵士たちが寝泊まりすることになり、まさに頭(滑走路)隠して(他の施設)隠さずを体現しており、アメリカ軍を欺くことなんて無理ゲーだった。

実際にアメリカ軍は、岩川基地が建設中からしっかりと把握し、偵察写真を何枚も撮し、隠した(はずの)施設やその場所も正確に把握していた。しかし、大した脅威とも感じてなかったのか、結果的に終戦まで1度の攻撃を受けることもなく、美濃部は自信を深めることになった。

部隊引っ越し中の1945年5月24日陸軍特攻隊「義烈空挺隊」を沖縄の飛行場に強行着陸させて、飛行場を焼き払うといった「義号作戦」を発動、その支援のため、陸海軍ともに総を挙げて沖縄の飛行場を爆撃し、その後に特攻機を出撃させることとした。

これは、沖縄戦開戦以来最大のアメリカ軍飛行場攻撃作戦であり、本来ならこれまで飛行場を猛攻撃してきた(はずの)部隊も参加するのが自然であるが、引っ越し中ということを第5航空艦隊部が配慮してか、美濃部に出撃の打診がくることもかった。逆に言えば、他の航空隊も引っ越しのなかで全出撃を命じられているので、部の部隊への期待度はその程度のものだったとも言える。

陸軍の重爆撃機海軍陸上攻撃機戦闘機部隊じゃない)は何波にも渡って、沖縄の数カ所の飛行場をしく爆撃し、その総仕上げとして『義烈空挺隊』が突入をはかった。どの輸送機が撃墜されてしまったが、1機が読飛行場に突入成功し、大打撃を与えて全滅した。

沖縄戦開戦以来最大のアメリカ軍飛行場を巡っての戦が戦われているなか、部隊美濃部の発案でみんなでマッサージを受けて、を鑑賞しながら焼酎を飲んでの大盛り上がり大会を心ゆくまで楽しむなど、『義烈空挺隊』を初めとする沖縄攻撃隊とは天国と地獄のような差であった。

その後、アメリカ軍間攻撃への警を強化して戦闘機隊を強化した。初めから「技術的に差があるから理です」とレーダー対策を半分諦めて、沖縄までは高度4,000mで飛行するなど「見つけて下さい」と言わんばかりの部隊は、戦闘機(特にP-61ブラックウィドー)に撃墜される機が増加した。美濃部は「セイロン沖海戦」や「ミッドウエー戦」の頃から「わしは敵のレーダーの脅威をわかっていた」としていたものの、技術者ですらない美濃部に良案があろうはずもなく、美濃部が部下に示したレーダー対策は、「敵機に発見されたらジグザグ飛行しろ」とか「敵の初弾をかわせたら急降下して逃げろ」などという、発見された前提の対策(とも言えない粗末なものだが)か、捜索用レーダーで発見されても、射撃レーダーに捕捉される前に、根性と精(笑)で敵機を視で確認して逃走しろとか運ゲーか精論的なまったくダメダメなものであって初めから部隊レーダー対策なんてなかったも同然だった。

岩川基地美濃部が確実に挙げた成果としては、部隊隊員の食事面での待遇(笑)がある。岩川基地には部隊の他に、練習機「菊」で特攻する西条も進出していた。西条特攻隊扱いであったので、食事勢なものが支給されていたが、美濃部はそれを見るなり、特攻を拒否した(つもりであった)のに、もっといいものを食わせろと、第5航空艦隊部に強訴した。美濃部は、枝基地の計課の兵士がなけなしの砂糖を全放出して部隊のために作った汁粉を、「甘くないぞ」と叱りつけて計課の責任者を男泣きにさせたエピソードを持つ食通でもあり、結果的に西条よりな、潜水艦乗組員向けの最上級の食料を支給されることなった。そのメニュービフテキコンビーフ牛肉缶詰に大量の鶏肉といった豊富な肉料理、ふんだんないなり寿司、大量の野菜に、食後のデザートには静岡から送らせたミカン、豊富な種類の果物缶詰、食後のコーヒー紅茶も大量にあった。部隊に配属された搭乗員らはあまりのご馳走に驚いたという。もっとも、部隊食事内容が悪かったのは、岩川基地を統括する庶務のミスであったらしく、ケンカに強訴せずとも、基地の糧食担当にでも静静と摘すれば事足りたようだ。

わしが負けた

岩川基地に引っ越し前後に、突然美濃部よりは2期後輩になる座寺一好少佐部隊に着任してきた。同階級の士官が突然着任してきたので、美濃部は「わしは更迭される」と慌てることになった。実はこの美濃部の心配は当たらずとも遠からずで、美濃部はソロモン患したマラリアが時折ぶり返し、特に鹿児島に来てからはかなりの頻度で寝込むようになったので、第5航空艦隊部が美濃部のを問題視して後任を人事局にめていたものであった。即解任としなかったのは、加療で症状が善したら復帰させるという心もあったのだろう。しかしの心子知らずで、美濃部は座寺が着任するなり、いきなり部幕僚をすっ飛ばして垣に直接「わしは大丈夫ナリ」「わしに引き続き揮をとらしてくれ」と直談判して留任を認めさせてしまった。そして座寺には訓練基地の枝に行ってくれと懇願、座寺も先輩めには逆らえず、岩を後にした。この人事異動はある意味美濃部最大のピンチとなったが、また卓越した交渉術で乗り切ってしまった。

肝心の戦争の方は、「義号作戦」を陸軍本土決戦も見据えて沖縄での航空作戦を大幅に縮小、一方、海軍も同様に本土決戦モードで戦の温存をはかるようになり、第5航空艦隊への補充も滞りがちで、特攻にしろ通常作戦にしろ、まとまった機数での出撃が困難となっていた。

そんななかで、またまた美濃部が航空本部から異常に厚遇されて補充は順調であった。部隊5月中旬までに戦闘内外あらゆる理由で約109機の作戦機を失うという大な損失を被りながら、それを大きく上回る補充があっており、常に岩枝で約70機の作戦機を維持していた。

他の航空隊の戦が細っていく中で、補充が順調な部隊がいつの間にやら、海軍沖縄攻撃のみたいな存在になっていた。とはいえそれはあくまでも日本軍内部の話であって、アメリカ軍1945年6月末ごろ、つまり部隊沖縄攻撃のとなってからは、日本軍からの飛行場攻撃は大した脅威ではないと判断して、灯火管制を止めてしまった。それをみた部隊機が「なめやがって」と果敢に攻撃したが、その一は明かりが消えても、またすぐに明かりが点するので、部隊搭乗員は自分らのさに絶望することとなった。それでも美濃部は強気に、飛行場を攻撃して未帰還となった「彗星」1機の1発の爆弾で、600機のアメリカ軍機を爆砕したとしている(さすがにそりゃないだろ・・・アニメじゃあるまいし)。

美濃部も大本営参謀の実から、日本政府終戦交渉を進めていると聞かされて、勝ちく意味もない戦いにこれ以上部下を駆り立てることに疑問を感じていたが、今まで「あとから必ず続くから」と約束をして送り出して死なせた100名以上の部下に申し訳が立たないと考えて、戦いを続けることにした。

連合軍は『オリンピック作戦』と称して、美濃部らがいる南九州に上陸してくる計画であったが、美濃部は第5航空艦隊部から、「大分まで下がれ」との命を笑い飛ばして、自ら名した部下24名と最後の特攻出撃を行い、残った地上要員も一歩も引かず、上陸部隊が迫ったら付近の住民も連れにして、大量に備蓄してある爆弾自爆するといった特攻自爆作戦を策定して実行する気であった。

しかし、連合軍が上陸してくる前に、原爆の投下とソ連軍参戦で日本は降終戦となった。

全軍に8月15日からの玉音放送を聞くようにと示があったが、美濃部は「ラジオがなかった」からとしてそれを無視、しかし、部隊の隊員の一部は自ら整列して玉音放送を聞いておりまったく統制が取れてなかった。あとで玉音放送の内容を知った美濃部は「これは、君側の奸の策謀に過ぎない」と陰謀論をぶち上げて徹底抗戦を宣言した。「後から続く」と死なせた多くの部下の手前、こんなあっさり降参できるものかという気持ちも徹底抗戦という決断を後押しした。

とはいえ、この徹底抗戦という美濃部の決断ですら、部隊の隊員ら全員には底することができず、指揮官がこのような決断をしていたと後から知ったという隊員も多かった。また、美濃部も徹底抗戦とか言いながら、「零戦」や「彗星」から武装を外して、部隊名も削り取れなどという矛盾した命も下したため、部隊混乱は深まった。

まったく統制のとれてなかった前線岩川基地部隊に対して、枝で訓練中や休養中の部隊については、指揮官の座少佐が動揺する者は射殺も辞さないとする強い覚悟で臨んだため、見事に統制が取れて、粛々と終戦を受け入れた。

徹底抗戦をぶち上げていた美濃部であったが、終戦3日後の8月18日に他の指揮官らと第5航空艦隊に招集され、官の中将が私兵特攻して戦死した後に官を引き継いだ鹿中将から「自ら思うところがあって行動する気なら、まずこの私を血祭りにあげてから行け」などと自分の身を挺した説得に、徹底抗戦をあっさりと諦めて岩に帰った。

では美濃部から徹底抗戦を焚きつけられた連中が待っていたが、美濃部が鹿のマネをして「戦わんと思うものはわしをってからいけ」と身を挺して説得した。しかし、鹿と違って一で隊員を鎮めることはできず、焚きつけられた隊員からは、あれだけ気負って意気揚々と大分に出かけた美濃部が、実にあっさりコロッと態度を変させたように見えて「今さら何を・・・」「死ぬ覚悟は出来ている」と詰め寄った。感極まった美濃部は泣きながら「陛下の御断が下った以上はそれにしたがう」と言い放ち、結局隊員らも諦めて、部隊終戦を受け入れることとなった。

そこまでやった美濃部であったが、踏ん切りがつかなかったのか、大半の隊員を所属機で復員させたのちに一部の隊員らと、部隊に手伝いに来ていた勤労奉仕の女性実家の離れに、武器から食料やらを運び込んで、「わしは進駐軍が不貞行為をはたらいたら徹底抗戦するナリ」と気勢を上げたが、翌日に第5航空艦隊から持ち場に帰れと注意を受けると、たった1日で徹底抗戦を諦めて(笑)女性実家の離れを撤収した。実際に徹底抗戦(笑)などされたら、関係の勤労奉仕の女性大迷惑であっただろうが、それは避けられた。

岩川基地の進駐軍による接収は1945年11月となった、岩川基地にいた西条特攻隊は既に基地を離れており、美濃部が代表して進駐軍に基地を引き渡すこととなった。西条特攻隊員の一部は基地から引き上げるときに基地の物資を勝手に持ち出しており、美濃部はそれを「勝手に官給品を持ち出すべからず」と立していたが、そんな美濃部が着ていたのは、官給品のパラシュートを勝手に地元の仕立屋に持ち込んで、その生地で作らせた純スーツワイシャツとシャツとパンツであり、最後の最後までおまいう発言を繰り返すユーモアを見せていた(笑)

わしが航空自衛隊を育てた

戦後には「後から行くぞ」と戦死した部下に誓っていた日本軍指揮官らの自決が相次いでいたが、戦死した100余名の部下に「わしも後に続くぞ」と約束していた美濃部が自決することはなかった。そのうえ、自決した指揮官らに「自己正当化自決だろ」「生活苦の自決だろ」との批判まで行っている。所詮は生き残った者が勝ちということなのか・・・

復員した美濃部は、復員省で一時遺族対策をしたのち、他の失職高級軍人と同様に、いろんな仕事や商売(海の家を開店したこともあったらしい)に手を出したがまったくうまくいかず生活に困窮した。美濃部の実家に帰って農地を借り受けて農業に従事したが、元々お嬢様育ちの妻が農業に慣れずに、生活はまったく安定しなかった。

その頃、日本は再軍備のを選び、警察予備隊が編制され、のちに自衛隊となった。自衛隊は旧軍人を積極的に採用していたので、美濃部は旧軍の伝手にすがって海上自衛隊に入隊、のちに発足した航空自衛隊に移った。

航空自衛隊では最初期から所属していたので、様々な制度作りに携わったとか、産初の輸送機C-1の採用に携わったとか、食堂残飯を時折チェックして、部下の健康具合や食事への満足度を判定していたとか、自衛隊批判的で礼な態度の社会党の議員をお茶も出さずに小馬鹿にして恥ずかしめたなどとかの功績もあったが、ガンを患って何回も手術をして体力が低下しており、仕事よりはむしろアフター5を大事にするサラリーマン的な軍人に変貌した。

体調不良だからと言って、ほぼ毎日定時に帰っていながら、連日部下を麻雀に誘って卓を囲み、帰宅するのは毎日真夜中であったとか、航空士官学校校長になったときは、校庭に向かってゴルフの打ちっ放しをやって、何回も生徒に当たりそうになったとか、バブル景気到来前に株式投資を部下たちに薦めて、妻も同席させたところで券会社社員による株式投資の勉強会を開催するなど、仕事外での活躍(笑)立った。

こんな仕事ぶりではあったが、最終的には将まで昇進、少しめに退職すると、防衛産業関連の職業訓練校校長下って、充実した人生を送った。晩年には遺稿で「太平洋戦争の悲劇は日本民族全員の罪であり反省すべきものである」「日本民族が自中心の国家体制を最善と考え、アジアに強要した独善性の過ち」と自分もその一を担っていながら、舌鋒鋭く旧日本軍批判し「グルメに浮かれる平成時代の日本人世界平和を唱える資格はない。今の日本若者たちは生活50%切り下げて飢餓民族を救え。」などと、自分は戦時中に飢える民や兵士を横勢な食事を楽しんでいたことは、またまたまた横においた、おまいう発言で締めくくっている。

戦死した100余名の部下たちには「後から続く」と約束しながら、他の多くの日本軍指揮官と同様にその約束を守ることはく、ガンなど何回も大病をしつつそれをして、81歳の寿を全うした。

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