美濃部正(旧姓太田)とは旧日本海軍軍人・航空自衛隊隊員。海軍での最終階級は少佐。航空自衛隊では空将。
太平洋戦争末期、航空夜襲を主とする「芙蓉部隊」を設立、終戦まで戦った。
太平洋戦争中に、どんなことでも「わしが育てた」「わしはわかっていた」「わしはしなかった」などと常に最良の行動をしてきたかのように主張しても、なぜかそれが矛盾を検証されることも無く受け入れられている、日本海軍軍人屈指の愛されキャラである。
美濃部正は愛知県豊田市の豪農「太田家」の6人兄弟の次男として誕生した。「太田家」は豪農で広大な農地を持ちながら、家長の喜四郎が景気よく散財したので生活は楽では無かったという。正が小学生のころに近くの逢瀬川で大ウナギを捕まえて、家族で蒲焼きにして食べたところ、正だけが食あたりとなり半死半生の目にあったがどうにか一命だけは取り留めた。しかし、その後遺症でスタミナ不足の体質となり体育が苦手となってしまった。
その後、旧制中学に進学するも成績はパッとしなかったが、この頃からパイロットに憧れるようになり、担任や父親から「お前じゃ無理だろ」と言われるなか海軍兵学校進学を目指すこととした。先に、正と違ってデキのよかった長男守も海軍兵学校を受験して見事合格、その守の応援があったことや、海軍兵学校の採用人数が増えたという幸運も重なって正は見事合格することができた。
海軍兵学校ではどうにか合格できた実力であったことや、虚弱体質で厳しい教練にはついていけなかったことなどもあって、教官から個別に呼び出されて叱責されるほど成績が悪く、落第も示唆されたことがあった。しかし、どうにか落第はせずに卒業できたが、席次はパッとしなかった。
その後、当初からの希望通り飛行学生に進んだ正は水上機パイロットの道を歩むことになった。飛行学校卒業後、軽巡洋艦「名取」の分隊長のときに日中戦争で実戦を初経験する。その後、「名取」が仏印(今のベトナム)に寄港した際に、フランス軍の水上機基地の調査を命じられ、機転を利かせて見事に調査に成功したらしい。
その後も、日中戦争での実戦任務についたが、自らの爆撃で被害を受けた中国人民に心を痛め「大東亜共栄圏建設(笑)とか空虚なお題目を掲げても、中国人民は全く従わないじゃないか、糞ジャップ共!の軍なんぞ所詮山犬のようなもの」「わしはこんな意味のない任務はしたくない」という自国への不信感と厭戦気分を感じて、爆撃任務を放棄して帰還したらしいが命令違反にはならなかったらしい。
このころ、正はお見合いをしている。前にも一度お見合いをして、正はノリノリだったが相手側から「お断りします」とフラれたことがあった。しかし今回は、元上官の美濃部貞功少将の息女でもあり無事結婚することができた。美濃部家は会津藩士の出と由緒あったが、子供は三人姉妹と女ばっかりだったので、義父の要請もあって「美濃部姓」を名乗ることとした。
その後、太平洋戦争が勃発、軽巡洋艦「阿武隈」の分隊長になっていた美濃部は真珠湾攻撃にも参加した。攻撃は南雲機動部隊の独壇場で、美濃部の出番はなかったが、ホノルルのラジオ放送を聞いていた美濃部は、緊急事態に対処する見事なアメリカのラジオ放送を聞いて「わしはアメリカは手ごわいと感じた」と主張している。実際の真珠湾攻撃当日のホノルルの状況としては、当然ながら(少なくとも一般市民は)予想もしていなかった日本軍の攻撃に大混乱しており、ホノルル放送はすぐには特別放送には入らず、通常放送を30分ぐらい続けたのちにようやく臨時放送となっている。それでも信じない視聴者が多かったので、アナウンサーが「これは演習ではない、本当のことなんだ、信じて・・・」と訴える有様だった。一部の視聴者がこの放送を信じなかったのは、数年前に小説「宇宙戦争」のラジオ番組を、通常放送を中断してフェイクの臨時ニュースから始めるといった凝った作りとしたため、本当の火星人の侵略があった一部の視聴者が誤解してパニックを起こしたという事件が問題となっており、そのことを知っていた視聴者が「またかよ・・・フェイクニュース乙」と誤解したことが原因とも言われている。
真珠湾攻撃から帰還したあとは、南方作戦に従軍したが、無敵の快進撃でみんなが浮かれるなかでも、美濃部は「わしはこの方面の敵の戦闘準備が不十分だからと知ってた」と、勝って兜の緒を締めたと主張している。次にインド洋作戦に従軍、セイロン沖海戦では、他艦船の偵察機とともに偵察に出撃した。偵察飛行中に、戦艦「榛名」の水上機が敵空母「ハーミズ」を発見したとの打電を傍受したが、「榛名」の水上機が燃料不足で帰還したので、美濃部は「わしは燃料不足の墜落も恐れず、敵空母に接触して続報を送り続けた」らしい。その後無敵南雲機動部隊が「ハーミズ」をフルボッコにして撃沈したが、そのときに沈みゆくハーミズの写真を「わしが撮影した」らしい。今日、「ハーミズ」の最後としてよく見る写真は美濃部の作品らしい。
内地に帰還すると岩国で会議が開催された。美濃部は末席での参加を許されたが、今までの実戦経験から「わしは南雲機動部隊が対空警戒の意識が薄いとわかっていた」として、末席で一番若輩者であったのにも関わらず「空母に高速艦上偵察機10機配備して側方索敵を強化すべき」と意見したらしいが、即座に参謀か誰かから「若造控えろ」と叱責されたらしい。美濃部は、のちの「特攻拒否宣言」(詳細後述)などと同様に、“一番若輩”の美濃部が“一番末席”から“正論”を堂々と主張して、頭が固い老害のお偉いさんから否定される・・というシチュエーションを好んでいたようである。
しかし、この時代、高速偵察機なる代物は、のちに美濃部から深刻な風評被害を被る、水冷エンジン型艦上爆撃機「彗星」と兄弟機の「二式艦上偵察機」がようやく生産が軌道に乗った時期で、各艦10機なんて機数を揃えるのはそもそも無理で、さらに機動部隊の側方警戒については、もっと前から航空参謀の源田実大佐が主張していたのはクラスのみんなには内緒だよ!。
その後「ミッドウエー海戦」では日本軍は惨敗し、その報を聞いた美濃部は「わしが予感した通り米空母にやられた」とノストラダムスの大予言なみの予言が的中して震えがとまらなかったらしい。このとき大本営は、国民に敗戦をひた隠しにするため、損害を空母1隻、撃沈した敵空母を2隻と報じ、この後に多用される過大戦果報告のきっかけともなり、報道を知った美濃部は眉をひそめたが、その美濃部も大戦末期には、わずか火薬量850gのロケット弾で戦艦1隻大破とか、たった1機の爆撃で600機の敵機を爆砕したとか、大本営顔負けの過大戦果を主張するようになっていく。
こののち、美濃部はアリューシャン列島攻略作戦に従軍、アッツ島攻略作戦では、偵察飛行しても敵らしい敵が見えなかったので、湾内に着水し上陸部隊を引き連れて集落まで達すると、アッツ島で唯一のアメリカ人家屋に乗り込み「わしがきたから心配はいらない」とそこに住んでいたアメリカ人気候観測員夫婦を安心させ、ただ本国への通信だけを禁止して、アメリカ人家屋を後にしたらしい。
しかし、そのアメリカ人気候観測員夫婦の妻の証言では、糞ジャップ共!の兵士たちは上陸してくるや、どう見ても一般家屋の気候観測員宅に銃撃を加えてきて、その後にドヤドヤと家屋に乗り込んでくると、隊長らしい士官が銃剣を突き付けて色々と尋問した。その日はいったんジャップ軍は帰ったが、翌日夫だけを尋問に連れて行くと拷問して殺してしまったという。妻も日本の捕虜収容所に送られて、終戦まで監禁されており、帰国後英雄扱いされている。
アリューシャン作戦が終わると、美濃部は飛行学校の教官に異動し、しばらくの間実戦から離れた。
ガダルカナル島を巡る戦いで日本軍が敗北したころ、美濃部はソロモン諸島方面に展開する第983海軍航空隊(983空)飛行隊長として着任し、実戦任務に戻った。
しかし、特に何もできないまま、戦力だけを消耗し、作戦機を失った部下たちに地上戦での玉砕を覚悟させていたが、自分はマラリアを発症させて、部下を前線のブカ島に置き去りにし、ラバウルの野戦病院に入院する。この後も美濃部は、激戦の前線から異動するといった幸運が続くことになる。
ラバウルの野戦病院で精神病を発症して入院していた少年飛行兵が「水上機に爆弾や機銃を満載して敵基地を夜襲する」と喚き散らし、従軍看護婦から厄介者扱いされていたが、美濃部はその精神病の少年飛行兵の支離滅裂な要望を聞き流さず「水上機で敵基地を夜襲すれば効果が大きいんじゃね?」と思い立った。
しばらくすると美濃部はマラリアの症状が落ち着いたので野戦病院を退院したが、前線のブカには帰らず、ブーゲンヒル島のブインに赴くと零式水上偵察機1機を爆装させ、ニュージョージア島のアメリカ軍基地の夜間爆撃を命じた。たった1機で侵入してきた敵機に油断してか、水上機は迎撃も受けずに爆撃に成功したので、美濃部は航空機による夜襲に自信を持った。
美濃部はさらに、水上機ではなく戦闘機である「零戦」を爆装して夜間攻撃すればなお効果は大きく、搭乗員も激戦で消耗し練度が落ちている一般の搭乗員ではなく、偵察が主な任務でまだ消耗が少なく練度が高い水上機搭乗員を「零戦」に乗せればいいと考えた。美濃部はそう思い立つと、水上機隊である自分の航空隊に「零戦」を配備するように南東方面艦隊司令部に上申した。
兵科をまたぐような異動は本来であれば現地の艦隊司令部の権限外であったが、司令官の草鹿任一中将は美濃部の異例の申し出を承認した。美濃部はこののちも異常な交渉の強さを発揮して、無茶無理な上申を幾度となく海軍上層部に認めさせることになるが、そういう意味ではディベート能力に長けて、また上官にウケがいい提案書の作り方のコツみたいなのを掴んでいたのかもしれない。
しかし、せっかく異例で認めてもらい983空に配備された5機の零戦は、1944年2月のトラック島空襲で全機撃破されてしまった。航空機を失った美濃部は、またもや激戦地に部下を置いたまま東京に帰って、そのまま第301海軍航空隊(301空)に異動となった。
このトラック島空襲の際に、日本軍の雷撃機が夜間出撃して正規空母イントレピッドに魚雷を命中させて大破させている。既に正攻法ではアメリカ軍機動部隊に対抗困難と認識していた日本軍は、伝統的に得意であった夜襲を航空作戦でも多用するようになり、アメリカ軍艦隊も少なからず損害を被るようになっていた。そこでアメリカ軍は日本軍の夜襲対策を強化し、各空母に夜間戦闘機を常駐させるとともに、夜間戦闘機だけを搭載した空母群も編成、戦闘指揮所(CIC)も夜襲対策を強化していた。その結果が顕著に出たのが1944年10月から戦われた「台湾沖航空戦」であり、日本軍は夜間飛行用の機上レーダーを搭載して夜間訓練を十二分に積んだ特殊部隊まで投入して、アメリカ軍機動部隊に大規模な夜襲をかけたが、一方的に撃墜されて戦果もほぼなかった。つまり、夜襲専門部隊の編成は美濃部の独創などではなく、美濃部が思い立った時点で既に日本軍の普遍的な航空作戦の一部となっていたうえで、アメリカ軍は万全の対策を講じつつあり、美濃部の敵艦隊への夜襲構想は既にこの時点で周回遅れの遅きに失した発想であったとも言える。このあとも美濃部は自分の理想を追求し、夜襲部隊の編成に向けて悪戦苦闘することになる。
301空では大本営参謀源田実大佐の異例の計らいで、気心の知れた水上機搭乗員を301空に招集し、配備機の「零戦」で空母に対する夜襲戦法の訓練に明け暮れた。またもや、上部組織に異例の特別扱いを受けて充実した毎日を送っていた美濃部であったが、301空は元々、戦闘機による制空戦闘を任務とする航空隊であり、司令は美濃部に空戦の訓練を行うよう指示するが、美濃部は全く聞き入れなかったため、司令は美濃部を更迭した。美濃部が育成した零戦隊は後にテニアン島で制空戦闘に投入されたが、美濃部が全く空戦技術の訓練をさせてなかったので、一方的に撃墜されて全滅している。
彼は部隊を追い出される形で第302海軍航空隊(302空)に配属。ここでは名物指揮官、小園大佐の方針で、「零戦」「雷電」「彗星」(水冷エンジン型)「銀河」などといった所属機全部に「斜銃」を搭載して、本土来襲が予想されているB-29を迎撃するため猛訓練が行われていた。
なかでも小園が強いこだわりを持っていたのが、元々偵察機として開発されていたが、小園の尽力で戦闘機に改修された夜間戦闘機「月光」であり、小園はラバウルから絶大の信頼を起きてきた遠藤幸男大尉を分隊長として、「月光」隊を育成していた。美濃部はその上官として着任したが、301空在籍時同様に、戦闘機隊の指揮官ながら空戦に全く関心のない美濃部は、ここでも「月光」隊による夜間の敵機動部隊攻撃作戦を企画し、その訓練を行わせた。遠藤はこんな無駄なことにつきあっていられるか!!とばかりに、1944年6月に北九州に初来襲したB-29の今後の来襲に備えるとして、自ら長崎県の大村海軍航空隊行きを小園に直訴、遠藤は希望通り、大村の海軍航空隊に部下3機と派遣された。
遠藤が大村に去った1944年7月、父島付近にアメリカ軍機動部隊が来襲したとの報告を受けて、美濃部は育成してきた「月光」夜襲隊の出撃を命令、「零戦」と「月光」の混成部隊24機が出撃した。しかし、両機は速度が異なり編隊を維持するのが困難で、それに「月光」は、もともと夜間に敵爆撃機を迎撃することに特化した機体で、爆弾を搭載して夜間に洋上を長躯飛行するという運用は初めから向いておらず、敵と接触もできないまま、航法を誤った未帰還機が続出。結局、父島付近にアメリカ軍の機動部隊はいなかったのにも関わらず、302空は合計5機を失うという惨敗を喫し、この後まもなく美濃部は302空を更迭されて、最前線フィリピンの第153航空隊(153空)に異動することとなった。
一方で美濃部に愛想を尽かして大村に行っていた遠藤は、1944年8月20日に北九州に来襲したB-29を迎え撃ち「撃墜確実2、不確実1、撃破2」を報じる活躍を見せ、感状を授与されてのちに「B-29撃墜王」として国民的人気を獲得することになった。
153空では海軍兵学校時代の元教官の上官に「防空体制がなってない」とイキるなど、無駄に尖ってフラグを立てていたが、アメリカ軍の重爆撃機が白昼堂々と大規模な空爆を開始すると、美濃部の部隊の所属機の「月光」も地上で撃破され、きっちりとフラグを回収した。美濃部が率いた部隊は、この後も地上で大量の作戦機を撃破されており、この痛い経験がのちに秘密基地「岩川基地」の発想に繋がる。
しかしこのときは、機体を隠すことより、白昼に堂々と来襲する重爆撃機の大編隊を夜間戦闘機「月光」で迎撃するという、どう見てもフラグ以外の何物でもない決断をして、数日後に来襲したB-24の編隊に対し所属の「月光」と「零戦」で全力出撃した。当然ながら、B-24隊には護衛戦闘機のP-38がついており、美濃部の指揮する153空901戦闘隊は迎撃どころではなくたちまちにP-38に追い散らされ、2機を撃墜されるという惨敗を喫した。元々、美濃部は所属機に自分の方針で空戦の訓練を行っておらず、夜間戦闘機「月光」は当然として「零戦」も白昼の空戦は初めから無理であった。なぜか、敵戦闘機の護衛を全く想定していなかった美濃部は「これは大変なことになったわい」と思って、やはり慣れない迎撃任務は諦めて、得意?の夜襲戦法に徹することとした。
その後は、敵機動部隊に対する夜間出撃を繰り返したが、戦果は全くなかった。夜間戦闘機「月光」が夜間の敵艦船攻撃任務に全く適正がないのは、302空での失敗で明らかであったが、美濃部が失敗から学ぶことはなかった。また、学習能力の乏しさのせいで、爆撃により地上で作戦機が撃破されることも続き、成果も上がらないまま「月光」だけを失いたちまち壊滅状態に陥った。
美濃部が前日の空襲で破壊された自隊の「月光」の残骸片付けに追われていたある日、第1航空艦隊司令部から、美濃部らがいるダバオにアメリカ軍が上陸したから至急撤退するようにという命令があった。実はこれは誤報で、とある兵士の見間違いによる誤報を誰も確認すること無く、司令部がパニックに陥って撤退命令を出したというのが真相であった。これは「ダバオ誤報事件」と呼ばれ、日本海軍の大不祥事の一つに数えられているが、美濃部は、自隊の「月光」は全て空襲で破壊されていたので、他の隊の「零戦」を借用すると自ら操縦してダバオ湾内を偵察飛行し「わしが誤報だと確認した」と主張している。しかし、複数の関係者によれば、自ら偵察飛行し誤報であると発覚したのは、第201海軍航空隊副長の玉井浅一中佐が自隊の「零戦」で偵察飛行をしたからだとされている。
地上と空中で「月光」を壊滅させてしまった美濃部は、残った「零戦」で、大暴れをしていたアメリカ軍の魚雷艇狩りをすることとし、11月初めからの1週間で7隻の魚雷艇を撃破したと主張。もっともこれは過大戦果報告で、この間のアメリカ軍の魚雷艇の被害は爆撃機の水平爆撃で全損した1隻(つまり美濃部隊の戦果ではない)のみであり、実際の戦果は0であったが、今までと同様に美濃部の卓越したプレゼン力で、美濃部隊がアメリカ軍の魚雷艇隊を制圧したみたいな話が広がって、その(幻の)活躍談を聞きつけた「特攻の父」こと第一航空艦隊司令大西瀧治郎中将から呼び出されて、激戦中のレイテ島への補給を妨害しているコッソル水道のアメリカ軍魚雷艇基地攻撃を打診された。
「「月光」に敵基地攻撃は無理です。」と全く向かない敵機動部隊への夜襲で無駄に「月光」を消耗していたことは置いといたおまいう的な反論を美濃部がしたところ、大西が「ならば特攻で」と打診してきた。ここで、美濃部は「特攻には指揮官はいらない」「特攻より大きな効果を得られるのなら夜間攻撃で十分ではないか」と反論して大西の申し出を拒否した。
この大西に対する特攻拒否は、のちの特攻拒否宣言(詳細後述)と違って、当時の美濃部以外の関係者も同様な証言をしているなど裏が取れており、気骨がある部下を好んだ大西は、強面の自分に正々堂々と反論した美濃部を評価して、特攻拒否宣言を認めて、美濃部の好きにしてよいと命じた。
美濃部はここでも上司キラーぶりを発揮し(笑)大西の信頼を勝ち取って、ある日司令部に呼び出されると、内地に帰って、美濃部が主張する夜襲部隊を再編成して、またフィリピンに戻ってこいと命令された。つくづく上官に好かれる男美濃部は、部下を置き去りにできないと一旦は拒否するが、結局は大西の申し出を受けて、またまた部下を置き去りにして日本内地に帰ることとなった。
部隊再編のため国内に引き上げたものの機材はなく、基地も間借り状態。機材もなければ根拠地もない中、美濃部は単身零戦に乗って場末の基地をめぐり根拠地を探す一方、人員や機材も探す羽目になった。などと、美濃部は「わしは苦労した」と著書で主張しているが、実際は、大西の口利きで、海軍航空本部から手厚い支援を受けることになった。
1945年1月、美濃部は静岡の藤枝飛行場(現静浜基地)を本拠地と決めた。藤枝に決まった経緯は、美濃部が自ら「零戦」を操縦してあてども無く飛行場を探し、静岡付近まで達して諦めかけてたところ、富士山が望めるところによさげな飛行場を発見したので、早速着陸し、基地司令の市川大佐に直談判して快諾を得た。とするどう見ても「え?いくらなんでも・・・」という経緯なのだが、美濃部が言うと説得力があるのか、これが事実扱いされている。
まぁ、なんだかんだで根拠地となった藤枝飛行場から見える富士山の別名「芙蓉峰」から「芙蓉部隊」と名づけることとした。美濃部は部隊名の使用許可申請と、達筆で知られる第3航空艦隊司令寺岡謹平中将に部隊名を毛筆で書いてもらおうと思って、物資不足のさなかで貴重だった静岡ミカンを「零戦」の機体に大量に積み込み手土産として木更津の司令部に向かった。寺岡は「ダバオ誤報事件」の失態で更迭されるまでは第一航空艦隊司令で美濃部の上官であり、美濃部のことを高く評価していたのと、大量のお土産ミカンを喜んで副官に「美濃部君はゴマすりする男じゃない、美濃部君の言うとおりにするよう」と副官に命じ、喜んで「芙蓉隊」と旗に部隊名を毛筆でしたためた。美濃部はこの寺岡筆の部隊旗を藤枝基地の指揮所の目立つところに掲げた。上司の得意分野をわざわざお願いして、上司の気分をよくさせる。というのは、今日のデキるサラリーマンによる典型的な「ゴマすり」術であり、美濃部はそれを十分にわきまえていたのだろう。
ただし、この部隊はあくまで非公式だった。
というのも、実のところ、「芙蓉部隊」は、×××空といった三桁の数字によるナンバリング部隊ではない。
書類上、部隊は804、812、901の三個飛行隊を統合していることになっているものの搭乗員は転科者中心の寄せ集め。名目上は夜間戦闘機部隊だが実際は夜間の地上・対艦攻撃任務を主としていたこと。
管理する上級部隊も明確にされておらず、指揮官であるはずの美濃部少佐も位置づけも書類上では曖昧。
というなんというか表現に困る部隊だったのだ。こんな異例な部隊を任されるようになったのも、寺岡に対する高度な「ゴマすり」が奏功したのだろう。
基地と部隊名と隊旗の次は、肝心の搭乗員集めであった。美濃部は人事局に行って、これと目をつけていた水上機の熟練搭乗員を指名して優先的に配属させてもらった。本来ならこんな恣意的な人事はよっぽどの高官でなければ不可能であったが、大西の息がかかっていたため、それが可能となった。
機体については、フィリピンで使い慣れていた「月光」(一方的に撃墜撃破されただけだったが)は既に生産が終了しており、それに変わる機材は当時、空冷エンジン搭載型の三三型が導入されて各地で持て余された余剰機材である艦上爆撃機「彗星」一二型をかき集めることにした。
この機材、水冷エンジン(アツタ32型)を搭載されて高性能だったものの、空冷になれた整備兵達では満足な整備も受けられず評判も悪かった。そのため、100機以上が各航空隊に野ざらしにされており、その機体をかき集めたなどと、美濃部は主張し、なぜかそれが事実のように伝えられているが、これは水冷型「彗星」への深刻な風評被害であり、空冷型エンジンの三三型が生産開始された後も、上昇能力に優れ、加速や最高速度が速い水冷型「彗星」も継続して生産されており、その艦上爆撃機らしからぬ速度性能を活かして、主に対重爆撃用の夜間戦闘機として多くの航空隊で運用されていた。
そのため、海軍航空本部は一応は「夜間戦闘機隊」扱いであった芙蓉部隊に優先して水冷型「彗星」を配備したものであり、実際に、芙蓉部隊に配備されていた「彗星」は放置されていた寄せ集めなどではなく、元々の「彗星」の主力工場であった愛知飛行機が空冷型の三三型生産に移行した後、水冷型「彗星」の生産を担当した呉の第11海軍航空敞が生産した後期生産型の新品や、不具合もなく活躍していた夜間戦闘機型の水冷「彗星」をわざわざ他の航空隊から取り上げて、芙蓉部隊に配備したものであった。このように美濃部は時折、歴史的な事実を曲げて、あたかもダメであったものを自分が改善したように吹聴することがあった。
問題の稼働率も、美濃部が自ら愛知飛行機に直談判し、整備士をメーカーの愛知航空機に派遣して整備の研修を受けさせ技術の向上をはかった。
とここまではいいのだが、当時の他の航空隊の水冷型「彗星」の稼働率を10%であった(根拠無し)とし、芙蓉部隊がそれを80%まで跳ね上げた(根拠無し)。などと主張したこともあるが、これまた水冷型「彗星」への深刻な風評被害であり、慣れない水冷型エンジンで当然ながら、熟練度で航空隊ごとに差はあったものの、通常に水冷型「彗星」を運用している航空隊では稼働率は60%程度だったと言われ、阪神地区で本土防空に従事していた第332海軍航空隊に至っては1機の故障機もなく100%を維持していた。(のち所属機全機を芙蓉部隊に取り上げられている)美濃部自身もあんまり吹かしすぎたと反省したのか、遺稿となった著書『大正っ子の太平洋戦記』においては、芙蓉部隊の水冷型「彗星」の稼働率を、他航空隊からは10%~20%高めの稼働率70%であった。とやや控えめ(笑)な主張をしている。
もっとも70%にしても80%にしても、それでも過大で、芙蓉部隊が戦時中に作成していた公式記録『芙蓉部隊戦時日誌』で所属機と稼働機の記録があるところを抜き出すと、せいぜい50%から60%となっている。それに、これもどうにか飛行可能な機数で、出撃した後に故障で引き返したり、墜落したりする機数も多数にのぼっており、実際の稼働率が他の航空隊と比較して高かったとは言いがたい。
美濃部と芙蓉部隊は間違いなく水冷型「彗星」の評価向上に大きく貢献はしているが、それは、本来の水冷型「彗星」をかなりdisって培ったものであった。水冷型「彗星」は別に芙蓉部隊で特別な働きをしたものでなく、基本性能の高さで、通常の艦船攻撃から特攻からB-29相手の防空戦闘からあらゆる局面で活躍した名機であった。
また搭載する武装についても試験中のロケット弾、光を感知して爆発する光電管爆弾、対空爆弾、タ弾(今でいうクラスター爆弾)などかなりのキワモノ的特殊装備をかき集めて導入することになった。得体の知れない、はっきりと実用化になっていない兵器でも使えそうなら使うというなりふり構わないものだった。
しかし、他の航空隊が使わなかった(というか使えなかった)ものが芙蓉部隊だけで活躍するわけもなく、「低空飛行してロケット弾で敵飛行場や艦船を精密攻撃ナリ」と考えていた美濃部であったが、実戦は美濃部が想定するより遙かに過酷で、低空飛行で敵艦船や飛行場を攻撃した「彗星」や「零戦」がアメリカ軍の対空砲火でバタバタと落とされたことから、沖縄戦が開始されて1ヶ月も経たない1945年4月末には、まず「零戦」による飛行場夜間攻撃を断念した。元々、美濃部の発想は「練度が高い水上機の搭乗員が零戦に乗って敵艦船(基地)を夜襲すれば効果が大きい」というものであり、今まで何度も挫折しながら諦めなかった戦闘機による敵基地への攻撃が、実は初めから困難であった思い知らされることとなった。
また「彗星」についても、激しい対空砲火により、低空でのロケット弾はおろか、急降下による精密爆撃も困難と思い知らされることとなり、5月初めには緩降下で3,000mの高度で爆弾を投下するように戦術を変更した。通常の急降下爆撃はせいぜい高度700mぐらいから投下するもので、それで高い命中率を計上していたが、いくら目標が大きく、不動だからといって高度3,000mから緩やかに降下したのでは狙った目標に命中させられるわけもなく、いわば「当てずっぽう」で投弾していたことになる。また、美濃部は「心理戦」と称して高度3,000mからの機銃掃射も命じたが、こんなものが大した効果を望めないことは、自明の理であろう。
ちなみに終戦後に進駐軍に引き渡した芙蓉部隊の兵器の目録には、これらキワモノ兵器の在庫は全くなかった。美濃部も使い物にならない武器を補給してもらう必要はないと考えたから備蓄もしていなかったんだろう。
さらにはパイロットの育成方法も他の航空隊とは異なっていて、月飛行時間が15時間というもはや練度をあげるどころではない状態の中、実用的な能力を効率的に行うことに成功。座学は今でいうシミュレーションのような形をとっており、同部隊に配属された新人でも実戦に参加できるだけの能力向上、練度維持に成功していた。特に夜間攻撃を主任務と考えていた美濃部は、隊員に昼夜逆転の生活を送らさせて、生活のリズムを夜間出撃に合わさせたが、美濃部はこれを「猫日課」(別に猫は昼夜逆転してないけどなぁ)と名付けている。他にも、暗夜に暗闇を凝視させて夜間視力を鍛えるとする意味不明の訓練もあった。
美濃部や美濃部を讃える書籍などでは、これがあたかも芙蓉部隊独自の制度のような主張をしているが、前にも述べた通り、航空機による夜間攻撃というのが別に美濃部の専売特許でも何でもなくて、逆に日本軍航空隊の戦術の軸となっていたため、各航空隊で同様の訓練が行われていた。
のちに美濃部が「わしなら2,000機が束でかかってきても一ひねりで勝てる」(詳細後述)などと味噌糞にdisった練習機の特攻隊員などは、練習生からある日突然特攻隊員に回されたが、練習機「白菊」が夜間攻撃じゃないと敵艦隊に近づけもしないと認識されていたので、昼夜逆転日課で徹底的な訓練が行われて、1ヶ月後には、単機で海面から高度10mを維持しながら単機で沖縄まで到達し敵艦隊を攻撃可能なまでに育成された。これは、航法の負担を軽減するなどとして、レーダーに捕捉されるのも構わず高度4,000mを数機で沖縄まで飛行した芙蓉部隊搭乗員より下手すれば操縦、航法能力が高かった可能性もあるほどだった。
芙蓉部隊の特色のひとつに、進出先部隊と藤枝基地の後方訓練部隊という二つの拠点を置くことで、実戦・パイロットの休養・新人教育・導入をローテーションで行うことが可能なったことが上げられる。
何しろ当時の日本海軍航空隊は開戦から終戦に至るまで、「基礎的な訓練は前線から呼び戻したパイロットに数人つけて教育」→「ものになりつつあれば後方に戻った部隊に送り込んで現地で教育・訓練」→「前線に進出」→「戦力消耗まで戦い、無理になったら後方で再編成。運が悪いと所属パイロットもバラバラ」というなんていうか、平時ならまだしも戦時では大量動員に向かないし、パイロットの疲労を回復する手立てもないというどうしようもない有様だったのだ。そんな中でもアメリカ軍航空部隊のような戦いぶりともいえる。
前に述べた通りフィリピンで美濃部が1度だけ特攻を拒否したのはどうやら事実のようであるが、美濃部は別に特攻否定派ではないし、逆に積極的に特攻を企画した方である。
美濃部の空母に対する夜襲の戦術は当初から「夜間もしくは夜明けで敵戦闘機が十分に行動できないときに、夜間攻撃機が銃爆撃で甲板上を攻撃、最後は航空機もろとも甲板上に滑り込んで(つまり体当たり)敵艦載機を一掃する」であって、確実に敵機動部隊を攻撃(特攻)できるチャンスをうかがっていたに過ぎないのである。
そのチャンスは1945年2月に、アメリカ軍の第58任務部隊が硫黄島の戦いの支援のために日本本土を空襲した際に訪れ、美濃部は志願もしてない隊員を勝手に特攻隊に選抜すると、準備万端で別れの杯を並べて、出撃する隊員ひとりひとりと握手を交わしながら、「敵機動部隊がいたらそのままぶち当たれ」とか「敵空母がいたら甲板に滑り込め」などと特攻を命じた。それも今まで散々夜間訓練をしてきたのに、出撃は朝となり、敵艦隊に到達するのは白昼の予定であった。
幸か不幸か、このときの出撃機は敵艦隊を発見できず、隊員らは胸をなで下ろしながら帰路についたが、アメリカ軍艦隊はレーダーで芙蓉部隊機を発見しており、艦載機に芙蓉部隊機を追尾させていた。そして生還した芙蓉部隊機が藤枝飛行場に着陸したタイミングを見計らって攻撃を開始、たちまち出撃機8機は全機撃破、搭乗員1名と整備兵2名が爆死したが、美濃部は防空壕に逃げ込んで無事であった。
その後、硫黄島に進攻してきたアメリカ軍艦隊に対して、芙蓉部隊から特攻を出すという噂がまことしやかに流れた。まぁ直前に美濃部が特攻を命じていたのだから、隊員がそれを信じるのは無理もない話で、隊員らは張り切る者や絶望する者などが入り交じって酒を飲みながら大騒ぎし、収集がつかなくなったので、やむなく美濃部は、この騒ぎを鎮めるため「おまえらは特攻に出さない」と先日特攻を命じた舌の根も乾かないうちに空約束をさせられた。
しかし、このときこの空約束を聞いたとする隊員と、美濃部から「芙蓉部隊は特攻はしない」などと聞かされたことはただの一度も無いと証言する隊員に分かれており、この後も芙蓉部隊ではこのように、美濃部が主張することを「俺は聞いてないよ」とする証言が多見されるようになる。
結局、芙蓉部隊が特攻にというのは、同様な編成の他の航空隊が神風特攻隊『第2御盾隊』として出撃するといった話を隊員の誰かが誤解して広げたと判明したが、元々空母配備の精鋭部隊として育成されていた『第2御盾隊』は32機の少数ながら護衛空母1隻撃沈、正規空母サラトガを大破、他にも数隻に損傷を被らせるなど大戦果を挙げて、硫黄島で苦闘する守備隊を大いに力づけた。
美濃部の約束は空約束に終わり、この後も美濃部は、沖縄戦で特攻出撃を命じた(このときも空振り)が、遺稿「大正っ子の太平洋戦記」では自分が特攻出撃を命じたことは書いてない。
1945年2月。沖縄防衛のため、アメリカ軍機動部隊に対する攻撃方法を検討する会議(研究会)が行われる。司令官代理として出席した美濃部は会議に出席して驚くことになる。
そこで語られたのは十重二十重の防空能力をもつアメリカ軍機動部隊に対して、練習機まで持ち出しての特攻作戦の強要であった。いやらしいのは研究会という名目であって正式な形での「特攻命令」ではないところもある。
なにしろ満足に飛べもしない若年パイロットを動員して練習機に載せれば書類上は攻撃機数は増加する。陸軍にもメンツは立つし海軍は「やるだけやりました」という言い訳もたつ。ことここにいたって(当時の日本においてはどこもそうだったが)成功の可否で作戦の是非を検討するのではなく、辻褄あわせ的な考えが横行していた。
海軍上層部でも根回しもすんであとは現場に「この方向でやってくださいね」(と言うにはヒドすぎる話だが)という席の中、末席の美濃部は反抗。
「赤トンボまで出して成算があるというなら、ここにいらっしゃる方々がそれに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦1機で全部撃ち落としてみせます」
と、啖呵をきることに。
今ならKYとか言われるとは思うが命をかけて戦う以上、特攻は最終手段であり、美濃部少佐にはまだ夜襲が出来る部隊がある以上、はいそうですか。と受け入れるわけはいかなかった。
戦後の美濃部の主張によれば、このとき美濃部がした反論はもっと長文になるが、要約すると上記なようなもので、この会議のやりとりが美濃部の今日の評価を高め、あたかも歴史的事実のように語られている。
しかし、この会議自体が、美濃部の証言、著書やそれを引用した資料にしか登場しないことや、また会議が連合艦隊主催の作戦会議であったり、第3航空艦隊主催の沖縄戦の研究会であったり、参加者に第5航空艦隊司令の宇垣纏中将や第1航空艦隊司令の大西瀧治郎中将がいたりいなかったり、美濃部が口論した参謀が黒岩少将(誰?)とか草鹿中将とか、酷いのになると、ある参謀とか名無しになっており、まったくバラバラであって、そもそもこの会議自体があやふやであるうえに、美濃部本人も戦後まもなく作成した芙蓉部隊の公式報告書「芙蓉部隊天号作戦戦史」では、この会議で美濃部は「あんたたち作戦機の隠匿はちゃんとやってるの?」と、フィリピンや藤枝で、派手に自分の部隊の所属機を地上で撃破されたことは棚に上げた、おまいう的な主張をしただけで特攻に対して何か反論したとかは一切書いてない。
美濃部の戦中戦後の報告書や著書を見る限りにおいて最初に、「わしは命を賭して特攻に反対した」と主張したと記述したのが、美濃部が1969年に出版した非売書籍の「まぼろしの戦斗部隊史」という書籍であった模様で、その後に戦史作家の豊田穣やオーストラリア人ジャーナリストで特攻の詳細な書籍を出版したデニス・ウォーナーが取り上げ、さらに戦記作家の渡辺洋二が自分のあらゆる著書で何度も取り上げ、最後には『幻の海軍夜間戦闘機隊始末記 彗星夜戦隊』(のちに『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』として再版)という芙蓉部隊を単独で取り上げる書籍まで出版したおかげで、「美濃部正と芙蓉部隊は命を賭して特攻に反対した」という正確とは言いがたい伝説が広まることとなった
しかし、事実とは違うことを美濃部は認識していたのか、戦後に特攻に対しては取材に答えるかたちで「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」とかちょっとイカす言い回しで、特攻を容認するような回答をしている。
その一方で、他の取材では「ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている。あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとはまったく次元が違うことも理解しなければならない」「私は、若い搭乗員に特攻作戦の命令を下すことはできなかった。それを下した瞬間に、私は何の権利もなしに彼らの人生を終わらせてしまうからだ」などと特攻を命じたはずなのに、おまいう的な発言も飛び出している。
そして、散々美濃部がバカにした練習機による特攻が、機体の一部が木製でレーダーや近接信管に反応しにくかったり、遅すぎて飛行機と気づかれなかったり、練習機だけに操縦性が抜群で、未熟な練習生が巧みな操縦をできたりと、ローテクがかえってアメリカ軍を苦労させて、駆逐艦を3隻撃沈し、他にも多数損傷させるなど、オンボロ練習機としては十二分すぎる戦果を挙げていた一方で、皮肉なことに、艦船攻撃に関しては、最新鋭機を優先的に回され、搭乗員もベテランばかりの芙蓉武隊の確認できる戦果はまったくなかった。
もっとも、この美濃部の練習機全滅宣言が事実であったとしても、美濃部自身は、実戦任務としては水上機の偵察や爆撃任務しか行ったことが無く、部下に対しても、戦闘機搭乗員に空戦の訓練をさせないというユニーク(笑)な拘りを貫いていた美濃部に、相手が例え練習機と言えども空戦での撃墜は無理であっただろう。
話が脱線したが、美濃部の啖呵があったかなかったかはよくわからないものの、一応「夜間戦闘機隊」扱いであった芙蓉部隊は当面は特攻編成からは外されることになった。
これまた、美濃部は「わしが特攻を拒否したから例外的に特攻しなくてよかった」と主張しているが、そもそも、大戦末期の沖縄戦においても特攻した航空隊より、通常航空作戦を行っていた航空隊が遙かに多く、芙蓉部隊が例外であったというのは全く事実無根で、芙蓉部隊の隊員たちも自分らが特攻編成を外されていたなんてことは全く聞いていなかったという。
3月末には九州に進出し、4月1日より始まった沖縄戦で、計画通り敵機動部隊を目標として出撃を繰り返した。しかし、連日特攻が派手な戦果を挙げたと報じられるなかで、まったく戦果があがらない芙蓉部隊に苛つく美濃部は、ある日、敵味方不明の潜水艦を発見したが、味方と判断して攻撃をしなかった、という隊員の報告を聞くや激怒して「こんな時期に味方の潜水艦がこの辺りを航行しているはずがない、敵艦に決まっとるだろうが、なんで攻撃しなかった」と決めつけて激しく罵倒した。その潜水艦が本当に敵だったのかは不明であったが、美濃部が味方じゃないと決めつけたのはいかにも拙速であり、実際には回天を搭載した多々良隊の4隻の潜水艦が同時期に沖縄海域で作戦中であった。
このとき美濃部に罵倒されたのは海軍士官学校出身の現役士官であったが、美濃部の激しい罵倒をずっと気にしており、後日の出撃では、汚名を返上しようと、無理に戦場に深入りしすぎて未帰還となって戦死した。美濃部はその士官の深入りの原因となった自らの罵倒について「現役士官に対する躾であった」と著書に記述している。
その後、菊水1号作戦で初めて芙蓉部隊は敵艦隊との接触に成功、巡洋艦や大型輸送艦にロケット弾や機銃掃射を命中させて撃破したとの戦果報告を行ったが、アメリカ軍の同日の被害報告には該当する損害は記録されていない。第5航空艦隊司令部も、芙蓉部隊にあまり効果の上がらない艦船攻撃をこのまま続けさせるよりは、特攻機の障害となりつつあるアメリカ軍の沖縄の飛行場を攻撃するようにと美濃部に命じた。
この後は、飛行場攻撃を主任務としながら、敵艦隊に対しても偵察攻撃を行うといった部隊運用となったが、菊水1号作戦以降は艦船索敵や攻撃で殆ど成果らしい成果は上げてないので、実質的には芙蓉部隊の活躍の舞台はアメリカ軍飛行場攻撃となった。と言いながらも、沖縄戦の初中期に沖縄の飛行場攻撃を熱心にやっていたのはむしろ陸軍の方で、陸軍は重爆撃機や双発軽爆撃機を多数投入して、夜間昼間問わずにアメリカ軍基地を爆撃していた。それに「零戦」や「彗星」といった単発で本来は地上攻撃を目的としていない芙蓉部隊機よりは、地上爆撃を目的として開発された陸軍の双発の重爆撃機や軽爆撃機の方が搭載爆弾も多く、打撃力も上であった。従って、一部で勘違いされているように芙蓉部隊がほぼ単独で沖縄の飛行場攻撃をしていたわけではなく、攻撃力から見れば、むしろ芙蓉部隊は陸軍爆撃隊はおろか、南九州や台湾の基地から出撃し飛行場を爆撃していた同じ海軍航空隊の陸上攻撃機隊のおまけみたいな存在だった。
敵の迎撃も激しく、陸軍の重爆隊が「敵機数機を地上で爆砕セリ」などと派手な戦果報告をする中で、芙蓉部隊は未帰還機を多数出しているのに、戦果は飛行場で何カ所に火災発生などと迫力に欠けるものばかりであった。しかし、敵艦船と違って、与えた損害がはっきりと判定できない飛行場が目標であったことや、美濃部が前から秀でていたプレゼン能力をフルに発揮し、第5航空艦隊に詳細な報告書や提言書を提出するなど過剰アピールを欠かさなかったおかげもあって、芙蓉部隊は何かよく分からないけど活躍しているらしいみたいな評価が広まって、いつの間にか優秀な部隊扱いとなっていた。今まで、美濃部の卓越したプレゼン力で大した実績も上げてないのに、草鹿や源田や有馬や寺岡や大西といった海軍航空の重鎮らが美濃部を褒め称えていたので、肩書きや権威を持った人間の評価に流されやすい日本人の弱点を巧みに利用したとも言える。
鹿児島県の岩川(現在の曽於市大隅町)に海軍は飛行場を建設していた。この飛行場は発電機や弾薬庫などコンクリートで固めた多くの地下施設を構築されていて、付近の菱田川から取水しこれを浄化して生活用水として使用するための水道施設など、それなりに施設の充実した飛行場であったが、まだ一部が未完成であり、使用頻度は少なかった。
1945年4月末に海軍は岩川を特攻隊の基地として整備すべく設営隊に工事を命じた。そんなときに、アメリカ軍の機動部隊がしばしば九州に接近して、南九州の飛行場を爆撃してきたため、作戦機を分散させて敵の攻撃の被害を抑えつつ、反撃力を高めるべく、各航空隊の再配置が命じられた。
芙蓉部隊は、特攻隊基地として整備予定であった岩川基地行きが命じられたが、その命令が出る数日前に美濃部は副官を岩川基地を視察しており、もしかしたら先に内示があってたかも知れない。美濃部は自分が岩川基地を発見し(笑)第5航空艦隊に岩川使用を申し出たと主張しているが、岩川への芙蓉部隊の配置転換は、他の航空隊が各地に分散するのと同じタイミングで命じられており、芙蓉部隊の配置転換だけが美濃部自らの申し出で決まったとは考えづらい。
兎にも角にも芙蓉部隊は岩川に移動することとなった。このとき、岩川の工事について美濃部が「わしが秘密基地にするよう命じた」などと主張しているが、先に述べた通り、岩川基地整備命令は美濃部が岩川を発見(笑)する前から命じられており、美濃部が細かく指示をする余地はなかった。
施設隊は当初から決められていた通り、飛行場設備の整備を行ったが、もっとも急を要したのが兵舎の設営で、飛行場建設当初は上空から丸見えのところに建設する予定であったが、林のなかに三角兵舎を建設することに計画変更となった。また、既に食堂や厨房や集会所などの多数の施設が丸見えのところに建設されており、それを林の中に移築するか除却する作業も同時に行われた。
飛行場の施設的なものの工事は設営隊が行っていたので、美濃部は、今まで多数の作戦機を無為に地上で撃破されたことの反省から、滑走路を隠すためにカモフラージュすることを思い立ち、付近の農家の協力(有償)も仰いで、多くの草を刈り取って滑走路上に敷き詰め、そのうえに可動する掘っ立て小屋や樹木を置いた。そして刈り取った草の上には牛を放牧してあたかも牧場に見せかけようとした。
この小細工でアメリカ軍の目を完全に欺いたなどと美濃部は主張しているが、滑走路を隠したつもりでも、滑走路周辺には移築や除却途中の軍施設が多数放置してあるのと、林の中に兵舎を作ると言ってみても芙蓉部隊と設営隊で3,000名以上もこの狭い区域にひしめき合って生活していたので、当然ながら上空からは丸見えの地元農家の家などに兵士たちが寝泊まりすることになり、まさに頭(滑走路)隠して尻(他の施設)隠さずを体現しており、アメリカ軍の目を欺くことなんて無理ゲーだった。
実際にアメリカ軍は、岩川基地が建設中からしっかりと把握し、偵察写真を何枚も撮影し、隠した(はずの)施設やその場所も正確に把握していた。しかし、大した脅威とも感じてなかったのか、結果的に終戦まで1度の攻撃を受けることもなく、美濃部は自信を深めることになった。
芙蓉部隊引っ越し中の1945年5月24日、陸軍は空挺特攻隊「義烈空挺隊」を沖縄の飛行場に強行着陸させて、飛行場を焼き払うといった「義号作戦」を発動、その支援のため、陸海軍ともに総力を挙げて沖縄の飛行場を夜間爆撃し、その後に特攻機を出撃させることとした。
これは、沖縄戦開戦以来最大のアメリカ軍飛行場攻撃作戦であり、本来ならこれまで飛行場を猛攻撃してきた(はずの)芙蓉部隊も参加するのが自然であるが、引っ越し中ということを第5航空艦隊司令部が配慮してか、美濃部に出撃の打診がくることも無かった。逆に言えば、他の航空隊も引っ越しのなかで全力出撃を命じられているので、司令部の芙蓉部隊への期待度はその程度のものだったとも言える。
陸軍の重爆撃機、海軍の陸上攻撃機と夜間戦闘機(芙蓉部隊じゃない)は何波にも渡って、沖縄の数カ所の飛行場を激しく爆撃し、その総仕上げとして『義烈空挺隊』が突入をはかった。殆どの輸送機が撃墜されてしまったが、1機が読谷飛行場に突入成功し、大打撃を与えて全滅した。
沖縄戦開戦以来最大のアメリカ軍飛行場を巡っての激戦が戦われているなか、芙蓉部隊は美濃部の発案でみんなでマッサージを受けて、夜は蛍を鑑賞しながら芋焼酎を飲んでの大盛り上がり大会を心ゆくまで楽しむなど、『義烈空挺隊』を初めとする沖縄攻撃隊とは天国と地獄のような差であった。
その後、アメリカ軍は夜間攻撃への警戒を強化して夜間戦闘機隊を強化した。初めから「技術的に差があるから無理です」とレーダー対策を半分諦めて、沖縄までは高度4,000mで飛行するなど「見つけて下さい」と言わんばかりの芙蓉部隊は、夜間戦闘機(特にP-61ブラックウィドー)に撃墜される機が増加した。美濃部は「セイロン沖海戦」や「ミッドウエー海戦」の頃から「わしは敵のレーダーの脅威をわかっていた」と主張していたものの、技術者ですらない美濃部に良案があろうはずもなく、美濃部が部下に指示したレーダー対策は、「敵機に発見されたらジグザグ飛行しろ」とか「敵の初弾をかわせたら急降下して逃げろ」などという、発見された前提の対策(とも言えない粗末なものだが)か、捜索用レーダーで発見されても、射撃用レーダーに捕捉される前に、根性と精神力(笑)で敵機を目視で確認して逃走しろとか運ゲーか精神論的なまったくダメダメなものであって初めから芙蓉部隊にレーダー対策なんてなかったも同然だった。
岩川基地で美濃部が確実に挙げた成果としては、芙蓉部隊隊員の食事面での待遇改善(笑)がある。岩川基地には芙蓉部隊の他に、練習機「白菊」で特攻する西条空も進出していた。西条空は特攻隊扱いであったので、食事は豪勢なものが支給されていたが、美濃部はそれを見るなり、特攻を拒否した(つもりであった)のに、もっといいものを食わせろと、第5航空艦隊司令部に強訴した。美濃部は、藤枝基地の主計課の兵士がなけなしの砂糖を全放出して芙蓉部隊のために作った汁粉を、「甘くないぞ」と叱りつけて主計課の責任者を男泣きにさせたエピソードを持つ食通でもあり、結果的に西条空より豪華な、潜水艦乗組員向けの最上級の食料を支給されることなった。そのメニューはビフテキにコンビーフに牛肉の缶詰に大量の鶏肉といった豊富な肉料理、ふんだんな鶏卵、いなり寿司、大量の野菜に、食後のデザートには静岡から送らせたミカン、豊富な種類の果物の缶詰、食後のコーヒーや紅茶も大量にあった。芙蓉部隊に配属された搭乗員らはあまりのご馳走に驚いたという。もっとも、芙蓉部隊の食事内容が悪かったのは、岩川基地を統括する庶務のミスであったらしく、ケンカ腰に強訴せずとも、基地の糧食担当にでも静静と指摘すれば事足りたようだ。
岩川基地に引っ越し前後に、突然、美濃部よりは2期後輩になる座光寺一好少佐が芙蓉部隊に着任してきた。同階級の士官が突然着任してきたので、美濃部は「わしは更迭される」と慌てることになった。実はこの美濃部の心配は当たらずとも遠からずで、美濃部はソロモンで罹患したマラリアが時折ぶり返し、特に鹿児島に来てからはかなりの頻度で寝込むようになったので、第5航空艦隊司令部が美濃部の指揮能力を問題視して後任を人事局に求めていたものであった。即解任としなかったのは、加療で症状が改善したら復帰させるという親心もあったのだろう。しかし親の心子知らずで、美濃部は座光寺が着任するなり、いきなり司令部幕僚をすっ飛ばして司令の宇垣に直接「わしは大丈夫ナリ」「わしに引き続き指揮をとらしてくれ」と直談判して留任を認めさせてしまった。そして座光寺には訓練基地の藤枝に行ってくれと懇願、座光寺も先輩の求めには逆らえず、岩川を後にした。この人事異動はある意味、美濃部最大のピンチとなったが、また卓越した交渉術で乗り切ってしまった。
肝心の戦争の方は、「義号作戦」を境に陸軍は本土決戦も見据えて沖縄での航空作戦を大幅に縮小、一方、海軍も同様に本土決戦モードで戦力の温存をはかるようになり、第5航空艦隊への補充も滞りがちで、特攻にしろ通常作戦にしろ、まとまった機数での出撃が困難となっていた。
そんななかで、またまた美濃部が航空本部から異常に厚遇されて補充は順調であった。芙蓉部隊は5月中旬までに戦闘内外あらゆる理由で約109機の作戦機を失うという莫大な損失を被りながら、それを大きく上回る補充があっており、常に岩川と藤枝で約70機の作戦機を維持していた。
他の航空隊の戦力が細っていく中で、補充が順調な芙蓉部隊がいつの間にやら、海軍の沖縄攻撃の主力みたいな存在になっていた。とはいえそれはあくまでも日本軍内部の話であって、アメリカ軍は1945年6月末ごろ、つまり芙蓉部隊が沖縄攻撃の主力となってからは、日本軍からの飛行場攻撃は大した脅威ではないと判断して、灯火管制を止めてしまった。それをみた芙蓉部隊機が「なめやがって」と果敢に攻撃したが、その一瞬は明かりが消えても、またすぐに明かりが点灯するので、芙蓉部隊搭乗員は自分らの無力さに絶望することとなった。それでも美濃部は強気に、伊江島飛行場を攻撃して未帰還となった「彗星」1機の1発の爆弾で、600機のアメリカ軍機を爆砕したと主張している(さすがにそりゃないだろ・・・アニメじゃあるまいし)。
美濃部も大本営参謀の実兄から、日本政府が終戦交渉を進めていると聞かされて、勝ち目も無く意味もない戦いにこれ以上部下を駆り立てることに疑問を感じていたが、今まで「あとから必ず続くから」と約束をして送り出して死なせた100名以上の部下に申し訳が立たないと考えて、戦いを続けることにした。
連合軍は『オリンピック作戦』と称して、美濃部らがいる南九州に上陸してくる計画であったが、美濃部は第5航空艦隊司令部から、「大分まで下がれ」との命令を笑い飛ばして、自ら指名した部下24名と最後の特攻出撃を行い、残った地上要員も一歩も引かず、上陸部隊が迫ったら付近の住民も道連れにして、大量に備蓄してある爆弾で自爆するといった特攻自爆作戦を策定して実行する気であった。
しかし、連合軍が上陸してくる前に、原爆の投下とソ連軍参戦で日本は降伏し終戦となった。
全軍に8月15日昼からの玉音放送を聞くようにと指示があったが、美濃部は「ラジオがなかった」からとしてそれを無視、しかし、芙蓉部隊の隊員の一部は自ら整列して玉音放送を聞いておりまったく統制が取れてなかった。あとで玉音放送の内容を知った美濃部は「これは、君側の奸の策謀に過ぎない」と陰謀論をぶち上げて徹底抗戦を宣言した。「後から続く」と死なせた多くの部下の手前、こんなあっさり降参できるものかという気持ちも徹底抗戦という決断を後押しした。
とはいえ、この徹底抗戦という美濃部の決断ですら、芙蓉部隊の隊員ら全員には徹底することができず、指揮官がこのような決断をしていたと後から知ったという隊員も多かった。また、美濃部も徹底抗戦とか言いながら、「零戦」や「彗星」から武装を外して、部隊名も削り取れなどという矛盾した命令も下したため、芙蓉部隊の混乱は深まった。
まったく統制のとれてなかった前線岩川基地の芙蓉部隊に対して、藤枝で訓練中や休養中の芙蓉部隊については、指揮官の座光寺少佐が動揺する者は射殺も辞さないとする強い覚悟で臨んだため、見事に統制が取れて、粛々と終戦を受け入れた。
徹底抗戦をぶち上げていた美濃部であったが、終戦3日後の8月18日に他の指揮官らと第5航空艦隊に招集され、司令官の宇垣中将が私兵特攻して戦死した後に司令官を引き継いだ草鹿中将から「自ら思うところがあって行動する気なら、まずこの私を血祭りにあげてから行け」などと自分の身を挺した説得に、徹底抗戦をあっさりと諦めて岩川に帰った。
岩川では美濃部から徹底抗戦を焚きつけられた連中が待っていたが、美濃部が草鹿のマネをして「戦わんと思うものはわしを斬ってからいけ」と身を挺して説得した。しかし、草鹿と違って一喝で隊員を鎮めることはできず、焚きつけられた隊員からは、あれだけ気負って意気揚々と大分に出かけた美濃部が、実にあっさりコロッと態度を豹変させたように見えて「今さら何を・・・」「死ぬ覚悟は出来ている」と詰め寄った。感極まった美濃部は泣きながら「陛下の御聖断が下った以上はそれにしたがう」と言い放ち、結局隊員らも諦めて、芙蓉部隊は終戦を受け入れることとなった。
そこまでやった美濃部であったが、踏ん切りがつかなかったのか、大半の隊員を所属機で復員させたのちに一部の隊員らと、芙蓉部隊に手伝いに来ていた勤労奉仕の女性の実家の離れに、武器から食料やらを運び込んで、「わしは進駐軍が不貞行為をはたらいたら徹底抗戦するナリ」と気勢を上げたが、翌日に第5航空艦隊から持ち場に帰れと注意を受けると、たった1日で徹底抗戦を諦めて(笑)女性の実家の離れを撤収した。実際に徹底抗戦(笑)などされたら、無関係の勤労奉仕の女性は大迷惑であっただろうが、それは避けられた。
岩川基地の進駐軍による接収は1945年11月となった、岩川基地にいた西条空の特攻隊は既に基地を離れており、美濃部が代表して進駐軍に基地を引き渡すこととなった。西条空の特攻隊員の一部は基地から引き上げるときに基地の物資を勝手に持ち出しており、美濃部はそれを「勝手に官給品を持ち出すべからず」と立腹していたが、そんな美濃部が着ていたのは、官給品のパラシュートを勝手に地元の仕立屋に持ち込んで、その生地で作らせた純白のスーツとワイシャツとシャツとパンツであり、最後の最後までおまいう発言を繰り返すユーモアを見せていた(笑)
戦後には「後から行くぞ」と戦死した部下に誓っていた日本軍指揮官らの自決が相次いでいたが、戦死した100余名の部下に「わしも後に続くぞ」と約束していた美濃部が自決することはなかった。そのうえ、自決した指揮官らに「自己正当化の自決だろ」「生活苦の自決だろ」との批判まで行っている。所詮は生き残った者が勝ちということなのか・・・
復員した美濃部は、復員省で一時遺族対策をしたのち、他の失職高級軍人と同様に、いろんな仕事や商売(海の家を開店したこともあったらしい)に手を出したがまったくうまくいかず生活に困窮した。美濃部の実家に帰って農地を借り受けて農業に従事したが、元々お嬢様育ちの妻が農業に慣れずに、生活はまったく安定しなかった。
その頃、日本は再軍備の道を選び、警察予備隊が編制され、のちに自衛隊となった。自衛隊は旧軍人を積極的に採用していたので、美濃部は旧軍の伝手にすがって海上自衛隊に入隊、のちに発足した航空自衛隊に移った。
航空自衛隊では最初期から所属していたので、様々な制度作りに携わったとか、国産初の輸送機C-1の採用に携わったとか、食堂の残飯を時折チェックして、部下の健康具合や食事への満足度を判定していたとか、自衛隊に批判的で無礼な態度の社会党の議員をお茶も出さずに小馬鹿にして恥ずかしめたなどとかの功績もあったが、ガンを患って何回も手術をして体力が低下しており、仕事よりはむしろアフター5を大事にするサラリーマン的な軍人に変貌した。
体調不良だからと言って、ほぼ毎日定時に帰っていながら、連日部下を麻雀に誘って卓を囲み、帰宅するのは毎日真夜中であったとか、航空士官学校の校長になったときは、校庭に向かってゴルフの打ちっ放しをやって、何回も生徒に当たりそうになったとか、バブル景気到来前に株式投資を部下たちに薦めて、妻も同席させたところで証券会社社員による株式投資の勉強会を開催するなど、仕事外での活躍(笑)も目立った。
こんな仕事ぶりではあったが、最終的には空将まで昇進、少し早めに退職すると、防衛産業関連の職業訓練校校長に天下って、充実した人生を送った。晩年には遺稿で「太平洋戦争の悲劇は日本民族全員の罪であり反省すべきものである」「日本民族が自国中心の国家体制を最善と考え、アジア諸国に強要した独善性の過ち」と自分もその一翼を担っていながら、舌鋒鋭く旧日本軍を批判し「グルメに浮かれる平成時代の日本人に世界平和を唱える資格はない。今の日本の若者たちは生活を50%切り下げて飢餓民族を救え。」などと、自分は戦時中に飢える国民や兵士を横目に豪勢な食事を楽しんでいたことは、またまたまた横においた、おまいう発言で締めくくっている。
戦死した100余名の部下たちには「後から続く」と約束しながら、他の多くの日本軍指揮官と同様にその約束を守ることは無く、ガンなど何回も大病をしつつそれを克服して、81歳の天寿を全うした。
掲示板
92 ななしのよっしん
2022/03/28(月) 08:04:59 ID: AxJQ/W70Qb
>>91
https://
凄いなあこの人
93 ななしのよっしん
2023/07/02(日) 14:33:11 ID: yCsJlO+Emn
これまであんまり知らなかったけどこの人日本軍屈指のやばいやつだな
他の上官ばかり目立っているけど
94 ななしのよっしん
2023/07/29(土) 18:22:37 ID: 2IBmHEkbRb
Twitterとかでもまだまだ美濃部マンセーな人ばっかだけど、今どきどれだけ情弱なんだよと呆れ果てる
大言壮語だけど大したことはやってない、それに責任も果たさない典型的な旧日本軍のダメ軍人
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/18(木) 12:00
最終更新:2024/04/18(木) 12:00
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