聖武天皇とは、奈良の大仏を作ったことで有名な奈良時代の天皇である。
聖武天皇が生まれた時期(701年)は天皇を中心とする新しい国作りの真っ最中であった。645年の大化の改新と672年の壬申の乱により、天皇権力が強力になり、701年には藤原不比等や刑部親王(おさかべしんのう)により大宝律令がまとめられ、天皇中心の律令制が完成した。そのような中、724年に即位したのがこの聖武天皇である。
聖武天皇は、仏教によって国を禍からから守る鎮護国家思想を強く信じて、そのために全国に国分寺や国分尼寺を建立し、さらには東大寺にかの有名な奈良の大仏をつくらせた。しかしこれらの大事業には莫大な費用がかかり、その賦役と重税に一般庶民は苦しむこととなる。なおその奈良の大仏は戦国時代にボンバーマンこと松永久秀と三好三人衆に燃やされてしまった。
聖武天皇が生まれたのは701年(大宝元)のことである。この元号の大宝とは日本ではじめて金が産出されたことが由来とされる。その年の5月、文武天皇と藤原宮子の間に生まれた首皇子(おびとのみこ)が、後の聖武天皇である。父の文武は壬申の乱で勝利した天武天皇の孫であり、母の宮子は藤原不比等の娘、中臣鎌足の孫であった。
また同じ年に不比等とその妻、県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の間に女の子どもができる。その子は安宿媛(あすかべひめ)と名付けられ、後の聖武天皇のきさき、光明皇后(光明子)となった。さらにこの年には大宝律令も完成している。
707年(慶雲四)に聖武は父の文武を亡くす。王座には首皇子が成長するまでの中継ぎとして、文武の母、阿閇皇女(あへのひめみこ)が元明天皇として即位した。その後まもなくして、当時の都であった藤原京の北方の奈良の地で、新しい都の建設が始まった。これが平城京である。
なんと見事な平城京。710年(和銅三)、元明天皇をはじめ朝廷の役人たちが新しい都、平城京にうつった。この都も後の平安京と同じく、唐王朝の首都、長安を真似て作られたものである。平城京の七条、八条あたりでは朝廷主催の市がひらかれ、東市、西市と呼ばれた。朝廷は唐に習って和同開珎という硬貨も発行したが人々はあまり信用せず、いまだ物々交換のほうが主流だった。そんな華やかな都の影には、飢饉と重税と疫病と賦役に苦しむ人々の姿もあった。
714年(和銅七)、首皇子は14歳で元服し、正式な皇太子となった。また元明天皇は高齢を理由に娘の氷高内親王(ひだかないしんのう)に位を譲り、元正天皇として即位させた。彼女もまた首皇子が即位するまでの中継ぎ的天皇であった。皇太子と安宿媛が結ばれたのは716年(霊亀二)の6月。二人は16歳であった。翌年には朝廷は、15年ぶりに遣唐使を派遣した。その中には科挙に合格した阿倍仲麻呂(彼は二度と日本に戻れなかった)や、後に聖武と深い交わりと持つ吉備真備と僧の玄昉がいた。
718年には皇太子と安宿媛の間に女児がうまれた。この子を阿倍内親王といい、女性でありながら後に二度も皇位についた人物である。道鏡を寵愛した孝謙天皇といえはピンと来る人もいるだろう。719年には元正天皇の摂政として、皇太子ははじめて政治に参加している。このとき、不比等の長男、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が皇太子の教育係である東宮傅(とうぐうふ)に任命されている。
文化の面では713年には元明天皇の命令により日本最古の地理書である風土記。720年(養老四)5月には、古事記に続く日本の歴史書作成の目的のため、舎人親王(とねりしんのう)を中心に編纂が続いていた日本書紀が完成している。
720年、皇太子の義父にして朝廷一の有力者、藤原不比等が逝去する。その後を継いだのは藤原武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の四人の息子たち、通称、藤原四兄弟である(彼らは皇后の実兄)。不比等亡き後、朝廷内で最大の実力者となったのは人望ゆたかな長屋王(ながやのおおきみ)であった。以後、藤原四兄弟と長屋王は権力争いを繰り広げることになる。
724年(神亀元)ついに皇太子が天皇に即位する。これが聖武天皇である。727年には待望の男児が生まれた。生まれて間もないこの赤子は基皇子(もといのみこ)と名付けられ、生後すぐに皇太子にたてられた。この皇子は藤原の血を引くものであり、この皇子の即位はすなわち藤原氏の繁栄を意味するものとして藤原四兄弟は歓喜に沸いた。
しかし基皇子は生後わずか1年で病死してしまう。さらに藤原氏にとって悪いことに、聖武のもう一人のきさきである県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が子どもを産んでしまった。藤原氏に対抗する長屋王がこの皇子をたてて、四兄弟に対抗するのは必至であった。
そんな折、塗部君足(ぬりべのきみたり)と中臣東人(なかとみのあずまひと)という人物が「長屋王が天皇に呪いをかけている」と天皇に申し立てた。それによって長屋王は謀反人として朝廷軍に包囲され、息子とともに自殺に追い込まれた。この事件の長屋王の変という。彼を訴えた二人は後に出世するが、前者は病死し、後者はかつての長屋王の家来に殺されるという結末を迎えている。
729年(天平元)に藤原家の願い通り、光明子が皇后の位につき光明皇后となった。光明皇后は、父不比等の屋敷を皇后宮として、皇后宮職(こうごうぐうしき)という役所を設けた。また翌年には救恤政策として施薬院と悲田院をたて、施薬院では民衆にケガの治療やクスリの配布を行い、悲田院では貧しい人々や孤児を救った。
しかし732年(天平四)に近畿地方で飢饉と洪水が起こり、多数の餓死者がでてしまった。734年には大地震が都を襲い、さらには疫病(もがさ、天然痘)まで発生し、死傷者は増えるばかりであった。藤原四兄弟の一人房前と末っ子の麻呂、ついで長男の武智麻呂に次男の宇合までもが疫病に倒れた。これはかつて四兄弟に失脚されられ自殺した長屋王の祟りとも噂された。
数々の天災やたたりを鎮めるために、聖武は仏の力によって平和を取り戻そうとする決心を固める。まず国ごとに仏像作りと写経を命じ、その仏像を納めるための仏殿として後に国分寺が建てられることとなった。当然これらの建築は苦しい民衆の生活にさらに負担をかけるものに他ならなかった。それでも聖武は仏の力を信じ、唐から帰国した玄昉を僧正に任命し、内裏のなかの仏殿(内道場)に招いた。
藤原一族は四兄弟を失ってから朝廷内での発言権も衰えてしまっていた。聖武は四兄弟の後がまに、橘諸兄(たちばなのもろえ)を大納言に、鈴鹿王を知太政官事に任命した。諸兄は光明皇后の異父兄であり、鈴鹿王は長屋王の実弟であった。諸兄は736年に右大臣にまで出世し、政治の実権を握った。
藤原氏では武智麻呂の長男の豊成が重用されたが、彼は平凡の人であった。また宇合の息子である藤原広嗣は738年には九州の太宰小弐に左遷されてしまった。一方で遣唐使から帰国した玄昉と吉備真備は聖武に重用され、朝廷内で権威を振るった。
藤原氏は反撃のために、藤原出身の光明皇后に働きかけ、他のきさきが産んだ男子である安積親王を差し置いて、女児であり皇后の実子である阿倍内親王を皇太子として立てさせた。この皇太子の教育係としては吉備真備が任命された。
740年(天平十二)、聖武は光明皇后と阿倍内親王と共に河内(現在の大阪)の知識寺を尋ねた。そこで太陽の化身である盧遮那仏(るしゃなぶつ)をみて、大仏建立の着想を得る。
呑気に仏で平和を願う天皇をよそに、太宰府で藤原広嗣が、玄昉と吉備真備の排除を旗印に蜂起する。朝廷はすみやかに大野東人を大将軍にして、各地から17000の軍勢を集めてこれを鎮圧せしめた。広嗣はその年のうちに長崎で捉えられて処刑された。
その戦争の真っ只中に、聖武は大仏をたてるのにふさわしい土地を探すべく、光明皇后、橘諸兄、藤原武智麻呂の息子、仲麻呂らを引き連れ旅にでかけている。伊勢、美濃、近江を巡り、最終的に山背国(京都)の瓶原(みかのはら)離宮にある恭仁の里(くにのさと)が大仏建立の地として決定された。この地は橘諸兄の領地の近くでもあったため、諸兄は仏をたてるための都作りを任命された。また、このころ諸国に国分寺、国分尼寺が建てられることも命じられた。
741年(天平一三)、恭仁の宮は正式に大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)と命令された。しかしその翌年、近江の紫香楽(しがらき)村がより大仏を作るのに適しているという指摘がなされた。大仏を作るには原型や溶鉱炉のために良質の土が大量に必要であった。紫香楽村はその土が採取できたのである。そこで聖武は恭仁から近江に通じる道と紫香楽に宮殿を建てることを命じた。
742年(天平一四)、紫香楽村に離宮が建設され、聖武はしばしばこの紫香楽宮に行幸し、翌年には紫香楽を大仏建立の地に変更した。しかし一方で国分寺の建設は貴族の協力が得られず難航していた。そこで聖武は743(天平一五)にそれまでの三世一身の法から、開墾した土地は一生その人のものであるという有名な墾田永年私財法を発布した。
さらに聖武は人民にも進んで大仏建立を協力させるために、それまで朝廷から疎まれていた僧の行基を召喚し、人々の歓心を得た。大仏をつくる技術者としては国中公麻呂(くになかのきみまろ)が選ばれ、ついに紫香楽の地で大仏作りが始まった。
しかしそれからまもなく聖武は病気で倒れてしまった。そこで聖武は難波京にいき療養に務めた。だが健康すぐれない聖武に不幸が次々と襲いかかる。まず唯一の男子であった安積親王が病死した。これは藤原仲麻呂の暗殺だったという説もある。聖武は行基を大僧正とするものの、権力争いは激化し、紫香楽に大仏を建立することに反対する者たちによって山火事が起きたり、さらに最悪なことに地震によって途中まで作っていた大仏も全壊してしまった。
そこで745年(天平一七)、聖武は平城京へと戻り、都の東の三笠山のふもとにある山金の地を、あらたなる大仏建立の地と定めた。朝廷内の権力争いは続き、藤原仲麻呂が権勢を得て広嗣の反乱の原因となった玄昉が筑紫に左遷された。玄昉は橘諸兄派だったため、藤原仲麻呂vs橘諸兄&その息子、奈良麻呂の対立は深まっていった。
そんなことをしてる間に746年(天平一八)年、大仏の原型が完成する。翌年には大仏の鋳型作業が始まったが銅が不足したため、行基は資材調達のために全国を勧進にまわった。その結果、鉱石、炭、木材などが集まったが、仏像の肌に塗る金はいまだ不足していた。749年には行基が世を去り、聖武の体調も思わしくなかった。
最後まで足りなかった金は、陸奥(東北)で黄金が発見されたことによって埋め合わされた。749年の7月、聖武は阿倍内親王に天皇位を譲り、みずからは太上天皇、娘は孝謙天皇となった。同時に皇太后となった光明子は皇后宮職を紫微中台と改め、藤原仲麻呂をその長官にすえた。
752年(天平勝宝四)4月9日、聖武太上天皇のために未完成ながら仏に目をいれる開眼会の儀式が執り行われた。仏の瞳に墨をいれたのはインドの僧、菩提僊那であった。大仏開眼から二年後には唐から鑑真和上が来日し、この奈良の大仏を眺めたとされる。(鑑真はこのとき失明している)。聖武太上天皇と光明皇太后は東大寺大仏殿の前で鑑真を師として菩薩戒(仏教の戒律)を授かった。
756年(天平勝宝八)、5月2日、聖武太上天皇が崩御。56歳だった。光明皇后は聖武ゆかりの品々を供養のために盧遮那仏に寄進した。それが現在、正倉院に残る数々の宝物である。
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4 ななしのよっしん
2020/03/14(土) 12:50:28 ID: 9uf15CR1yf
理想と指導力はあるけど
現実が全然見えてないのとやることに一貫性が無い人ってイメージ
国の体力作ってる時代に無茶な事業を複数同時に進めたり
急にやめたりを繰り返して部下も国民も大変だったろう
奈良時代の混乱と天武朝の滅亡はだいたいこの人のせいだと思う
5 ななしのよっしん
2020/06/19(金) 19:15:46 ID: 8hDvMvqOVA
中西進先生が本を書いてるからこの先30年ほどのあいだに何回か聖武天皇ブームが起きそう
6 ななしのよっしん
2023/11/21(火) 17:17:31 ID: gC9YBn5dXp
やった政策だけ見て評価するなんてのはまあ思慮が足りんよね
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最終更新:2025/03/20(木) 14:00
最終更新:2025/03/20(木) 14:00
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